第二幕 父と子ら - 2

 非常呼集が掛かり、ラーは赤い鷹の装束に着替え、人目を忍んで家の外へ出た。まだ始まりの鐘が鳴ってそれ程時間が経っていないが、魔術燭台で照らされた表通りには人影も多い。三百階建ての住居棟が連なる区画を避け、回り道をして人気の無い、階層の縁まで一気に走り抜け、縦穴の闇へと身を躍らせた。滅多に人の通らない非常階段や壁面の窓を利用し、鉤爪付きロープで減速する。そうしてから、壁面を駆け上がり一休みしつつ、上層を目指した。

 赤い鷹の隠れ家に到着した時には、既にシーリーンが頭領の前に直立不動で立っていた。そこへ、と言う頭領の言葉に従い、シーリーンの隣に立つ。頭領は早速本題に入る。

「鐘が鳴る前、上位階級に属する企業の娘が消えた。誘拐とも見られるが、要求も声明も無い。総督府から与えられた任務は、令嬢を見付け、無事に連れ戻す事。もしも事件性のある案件であると判明した場合、犯人を逮捕、若しくは殺害する事。ペアはいつも通り、変わり無い。もう他の者は動いている、行き給え」

 殺害。その言葉を聞き、ラーの体に緊張が走る。だがそれ以上に疑問が湧いた。「お言葉ですが頭領、たかが一企業の娘の失踪事件に、何故総督府が絡むのですか」と尋ねるが、隣に立つシーリーンは特段気にしている様子が無い。頭領は答えた。

「貴族であるルー家の長男との婚礼が決まっていた。ルー家の家長は総督府内で役職に就いている事で、総督府主催で式を取り持つ段取りになっていた」

 言いながら頭領は、シーリーンの顔を一瞬見やる。彼女は顔色一つ変えず、無言のままだ。そういう関係で話が回ったのか、と得心して、ラーはそれ以上の追求を止めた。

「細かい話は、道中でシーリーンから聞き給え」

「了解しました」

 答えた後、シーリーンと連れ立って部屋を出る。暗闇をやや歩いてから、シーリーンに尋ねた。「親父さん、自分の娘に奪還やら暗殺やら命令するなんてとんでもないな」

「家族は誰も、私の事を知らない。まして赤い鷹の一人だなど、侍女しか知らぬ事だ」

「家族以上の味方、って事ね」

 おちゃらけた、シーリーンの嫌う口調でいつもの様に話した。しかしそんなラーの言葉に余分な気力を払う余裕は無い風で、シーリーンは暗闇の中でそれ以上口を開く事はしなかった。そしてようやく暗い道を抜けた時、シーリーンの握り締めた両拳が僅かに震えている事に気付く。

「怖いのか、人殺しが?」

「平気な訳がないだろう! 赤い鷹ともあろう我々が、人を手に掛ける事など……」

 怒り、足を止めて振り向き、シーリーンは叫ぶ。ラーを見上げる仮面越しのその目は揺れ、明らかな動揺が見て取れた。そんな彼女の態度に腹が立ち、ラーは言い返す。

「普段お前、何て言ってる? 赤い鷹は義賊で、貧民の格差を是正し彼らを救済する為の存在だと言ってたな。その手段が何だ、金持ちから金を掏り取ったり、男優位のこの社会でたった一人の女が政界に進出する事? 理想論も大概にしろよ。意味なんて無いんだよ、弱い奴の言葉も行動も。人を殺せと上から言われたら、俺達は従うしかない。もう、大義名分で生きていける世界は終わったんだ、四百年も前に。いい加減現実を見ろ」

 するとシーリーンは黙り、ただラーを睨みつけるだけだ。ハッ、と鼻で笑い、ラーは宣告した。「本当に信じている大義なら、それを馬鹿にされれば、例え穴だらけで矛盾した反論でも口を衝いて出る。お前は今、それが出来なかった。認めてるんだろう? 自分の心にある大義が薄っぺらで、自分を誤魔化してるだけの言い訳だって。幾ら大きな口を叩いても、必要とあれば結局は人を殺さなきゃならないんだって怯えてるだけだ」

 シーリーンが入隊した時からそうだった。入隊して間も無く、頭領から彼女を赤い鷹に引き入れた理由を聞いた事がある。曰く、女である事を不満に思い始めていた矢先、誰かを救う義賊的活動を強く求めていた彼女の若さを買ったのだと。

 頭領は珍しく優しげにそう話したが、その事実を知った瞬間、ラーはシーリーンに同情した。幼過ぎる彼女は、赤い鷹が総督府の隷属組織である事を知らない。彼らの利益の為に暗殺も営む、嘗ての姿など見る影も無い組織になっているとは知らされていないのだ。

 成長し、多くの事実を知るようになり、シーリーンは反抗的な姿勢を見せ始めるようになった。だが、何の事は無い。自分の思い描いた夢の通りに事が運ばなくなって、子供の様に駄々をこねているに過ぎないのだ。事実、シーリーンは子供だった。たった三歳しか離れていないラーから見ても、明らかにそうと分かる程に。

 何でも自分の思い通りになるという、その青臭さが嫌いだった。きっとどうにか出来ると考える、その実直さが嫌いだった。

 直視するには、シーリーンという少女は余りにも純粋で、眩しかったのだ。

 今も、自分よりもずっと背の高いラーの襟首を掴み、三白眼で睨む彼女の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、それを直視出来なかった。そして絞り出す様に、シーリーンは言った。

「何も変えようとしない、変わろうとしない、お前達のその目が大嫌いだ……!」

 お互い様だ、と答えようとして、しかしラーは何も言えない。嫌いだ、というその言葉に酷く胸を締め付けられる。自分を家から追い出した親から言われた時も、親が事業に成功して上層へ引っ越す友人から言われた時も、これ程苦しいと感じた事は無かったのに。

 乱暴に手を離して背を向け、シーリーンは淡々と言う。

「……イェウルの侍女へは、別の組が尋問に向かった。もしも第三者の手による事件であれば、箱入り娘だったイェウルの側を離れない彼女が手引きしている可能性が高い」

 分かった、という簡単な返事さえも出来ず、ラーは孤独感に苛まれながら、ただシーリーンの後を追うだけだった。



 イェウルの失踪が彼女の意思によるものであり、貧民街に住む男と駆け落ちしたのだと判明するまで、さして時間は要さなかった。この情報は瞬く間に、赤い鷹の団員の間で共有される。馬鹿な女だ、とラーは呆れてしまう。何故、わざわざ後悔する人生を選んだのだろう。貴族と婚礼さえ済ませてしまえば、後は自発的に動く事を要求されない、ただ言われた事をすればいい楽な人生が待っている。

 下層に住む人間が夢に見て、そして永久に手の届かない世界が約束されていたのに。

 疑問に思ったラーではあったが、今重要なのはイェウルを連れ戻す事だと言い聞かせ、余計な詮索を止めた。

 中流階級層一階よりも約二百メートル上方の壁面に位置する、巨大な住居区。下手をすれば小さな貴族の邸宅よりも大きなその居住区は、炭鉱場統合本部にほど近い壁面を改造した豪邸だった。その一部屋、イェウルの自室で、ラーとシーリーン、そして数名の赤い鷹の団員が集まり、顔を合わせている。部屋の近隣は人払いをしてある為、秘密が漏れる懸念も無い。誰も居ないこの間に、情報をなるべく収集する必要があった。

「侍女はどうしたんですか」

 問うと、「監禁している」と男の一人が答えた。「総督府内の監獄だ」

 警務隊詰所も近いそこは、犯罪者にとって最も心落ち着かない場所で、管理側からすれば最も監視しやすい場所だ。当然の処置だろう。今後ともその侍女から聴取は続けるとしても、手掛かりがあるならば、駆け落ちした娘の部屋から見付けなければならない。何せ侍女でさえ、駆け落ち相手が貧民街出身であるという事以外は何も知らないと言い張っている現状である。

「シーリーン、お前なら何か分かるか」

「気安く名前を呼ぶな」

 冷たく言って、シーリーンは迷う事無く机に近付いた。歳も境遇も似た娘同士、やはり勘付くものはあるのかも知れなかった。

 シーリーンは机の引き出しに手を掛ける。が、そのどれもに鍵が掛かっている。団員の一人が言った。「先程我々も調べた、無駄だ。鍵は何処にも無……」

 言い終わる前に、言い終える前に、シーリーンは筆立てを引っくり返し、中から小さな鍵を見付けた。それを手に取って、わざとらしく持ち上げてラー達に見せつけた。

「考えもしなかったでしょう?」

 これが女よ、と言いたげな言葉に、参ったね、と呟いてラーは自嘲気味に笑った。

 無言で鍵を回して、シーリーンは引き出しを漁る。特に臭うものも無かったのか、引き出しを開けては締めての繰り返しである。

「これは?」

 取り出したのは、一つの箱だった。両掌に収まるかどうか、という大きさの立方体の箱で、中を開けると、何か掌大の、円状の物が納められていたらしい痕跡の残る天鵞絨が敷かれていた。良く分からないが、今の状況とは関係無いものだろう、と団員の一人が言って、先を急かした。

 やがて、一冊の鍵付きの本を見付けた。樹皮製の紐で閉じられた、厚めの本だ。ページとページの間に幾つも何かを挟んでいるのだろう、やけに膨らんでいる。シーリーンはナイフで皮紐を切り裂き、中身を読んだ。

 ただの本に何故鍵を、と思ったが、すぐに彼女が答えを口にする。「日記だ」

 ラーはそれを聞き、女の癖に、と心の中で嘲る。隣に立つ男達も同じか、或いは近い事を考えた事だろう。無論言葉には出さず、ページを素早くめくるシーリーンの後ろ姿を見ていた。

 やがて、挟まっていた一枚の奇妙な紙を取り出し、日記を閉じてラー達他の団員にそれを見せた。奇妙な絵の具で描かれた、笑みを浮かべる少女と男の絵だ。だが、単に絵と呼ぶには余りにも精密で正確に描画されていた。

 何だこれは、と団員の一人が漏らすと、シーリーンは答える。

「魔術で動く特殊な描画装置で描かれた絵です。非常に高価なので、私も一度見本を見た事しかありませんが、ただの似顔絵よりも遥かに精巧な描画が可能です。絵の中の少女が、イェウル嬢ですか?」

「恐らく、そうだ。父親から渡された人相書きと似ている」

「では、その隣に居るのが駆け落ち相手でしょう。希少価値の高い装置を使って、家族でもない者と一緒の絵を描いたのなら、それ程大切に思っている相手では」

「戸籍を当たろう」

「その必要は無い。人相さえ分かったなら、それでいい」

 突然の声がして、ラー達は部屋の入り口を振り返って身構えた。身嗜みを綺麗に整えた、しかし貴族としては何処か垢抜けない印象を受ける、中年らしい男が一人、扉の脇に立っていた。人払いはどうした? と警戒する一同であったが、その顔にイェウル嬢の面影を見て取ると、彼が父親である事を悟る。

「必要無いとは?」

 シーリーンが問うと、淡々として彼は言う。

「政府主導の捜査が介入して、こちらから進言するのが遅れたが、あの子が持っている時計と呼ばれるカラクリの中に、魔術師の作った痕跡追尾の魔術道具を仕込んである。先程魔術省に追跡申請をした。追跡部隊が編成されるだろうから、娘を誑かした男とその一味が万が一に反抗した場合に備え、追跡部隊の警護に回って欲しい」

 饒舌に、滑らかに話して指示を出す男は、その弁を立てていまの地位まで成り上がったのであろう事を感じさせる。彼の言葉を聞いた、ラーとシーリーン以外の赤い鷹団員は顔を見合わせて頷き、承知した、と一言残すと、先の絵を持って窓から身を躍らせた。

「君も、赤い鷹かね?」

 壮年の男は、シーリーンにそう訊いた。はい、と背筋を正したいつもの姿勢で、凛として答えた。答えた一瞬、男の目に、侮蔑の色が浮かんだのを、ラーは見逃さなかった。

「親切から忠告してやろう。女の分際で、自警団という市民を律する立場にあぐらを書くことは止め給えよ。私の娘同様、碌な事をしないだろう」

 ここでシーリーンが仮面を剥いで家名を名乗ったら、こいつはどんな顔をするのだろう。ラーはシーリーンの顔を盗み見るが、朱色の仮面の下の目は、はっきりと窺い知る事は出来なかった。が、少なくとも感情を表に出す事はしていない。肯定の言葉も発さず、シーリーンは男の言葉を無視して箱を掲げて見せた。「これは?」

「下賎な者には及びの付かない装飾品を、あれにくれてやった。その時に入れ物として店で渡されたものだ。字が読めるなら、中に入っている指南書でも読むがいい」

 一々癪に障る言葉を残し、男は部屋を去った。ラーと二人になった部屋、シーリーンは深く息を吐いて肩を落とす。ラーが大きく息をついて伸びをした。

「やったぜ。これでもう解決したも同然だろう。この都市の警備は完璧だな」

 茶化して言うが、シーリーンは何の反応も示さない。見れば、彼女はイェウルの日記を開き、最後のページをじっと読んでいた。大方、歳の近い少女に感情移入してしまっているのだろう。そんな湿った空気を払拭する為、彼はぶっきらぼうに独り言を言った。

「全く、何であのお嬢様は、わざわざ日記なんて手掛かりを残して駆け落ちなんてするのかね」

 これに、シーリーンは意外にも反応した。

「囚われ続けた過去の自分を、この牢獄へ永遠に封じる為だよ」

 比喩的な表現に首を傾げ、ラーはシーリーンの肩越しに、彼女の持つ日記の最終ページの文字を盗み見た。他のページと異なり、短い文が書かれているに留まっている。

『私は、大好きな人と自由になる。ここでの思い出なんて、何も要らない』

 シーリーンは身じろぎもせず、しばらくその文面を眺めていた。


            *


 イシオの胸中に渦巻いたのは、葛藤であった。

 この貧民街でいつも明るい顔をしていたタウロは、皆に好かれた。貧民街に住む人間達を心から奮い立たせる様な奇跡の力は無い。しかし貧乏に苦しむ自分達の事が、一瞬でもどうでもよく思えるような、そんな不思議な求心力を持つ男である事は知っている。

 そんな彼が駆け落ちという手段に踏み切った事も勿論驚きだったが、彼の選んだ相手がリン族の富豪の娘だという事は容易に受け入れ難い。

 何故、二人はわざわざ苦難の道を選んだのだろうか。

 滅多な事をするな、と息子に言われたイシオであったが、簡単に気持ちの整理は付かない。イェウルと名乗った女は、まだ成人もしていない世間知らずの箱入り娘だろう。きっと、何の苦労も不満も無く人生を歩んで来た筈だ。だからこそ、追跡呪文魔法の掛けられたカラクリを仕込まれていたのだ。お節介極まりない親の手によって。

 そんな、努力をしない人間が嫌いだった。ひいては、努力をする必要の無い立場に恵まれたリン族が憎かった。社会的優位性と利益を求めるあまり、リン族はトン族を追い落としたのだと、代々連綿と親から子へ伝えられて来た。その憎い相手が、息子の友人の駆け落ち相手とあっては、イシオの心は穏やかではない。

 しかも、そののほほんとした態度の所為で、彼らは突如窮地に立たされたのだ。タウロも当然だが、事前に話を聞いていたというマルクも警戒すべきだった。時計という、それこそ特権階級や上流階級層民のごく一部しか手の出せない高級カラクリを、富豪の娘が持っているかも知れないという可能性。そのカラクリに青臭いロマンスを求めた夢見がちな少女の懸念。二人は、その危機感を欠いていた。

「おい、どうするつもりだ」

 慌ただしく荷物をまとめ始めるマルクに、タウロ達に聞こえない様低い声で訊いた。マルクは、迷いの無い目で真っ直ぐにイシオを見返し、答える。「決まってるよ、逃げるんだ。ほら父さんも」

「巫山戯るな! ここが私の仕事場だぞ。リン族の警務隊など怖くねぇ、あんな人間の屑共に、代々受け継いで来た大事な工房と財産を、渡して堪るか! しかも、来ると決まったわけじゃないだろ!」

 耐え切れず、がなり立てた。こうして、リン族とトン族の確執を扇情する言葉をまくし立てると、マルクは臭いものに蓋をして黙り込む事を知っていたのだ。もうこれ以上の面倒事に関わり、生活を脅かされるのは御免だったのだ。「親父が死んで一週間も経ってないのに、私の平穏を壊すんじゃない!」

 だがマルクは、イシオの予想外の行動に出た。彼は今回、口も耳も閉ざさず、拳で強くテーブルを叩いたのだ。貧しい家を支える為、イシオにもカータにも目立った反抗期を見せずに育ったマルクが。

「そっちこそいい加減にしろよ、じいちゃんに言われたばかりだろ! 今までと違う事をしろって! 自分の家から出ずに、リン族リン族って、形だけしか見ないでさ!」

 ひとしきり、そう叫んだ。

 今までに見た事の無い剣幕に押され、イシオは体を強張らせ、何も出来ずに立ち尽くした。荒い呼吸で肩をいからせるマルクは、最後に言った。

「じいちゃん、この街のみんなが無気力になってるって言ったけど、父さんもここまでそうだとは思わなかった。……俺はもう、無力なのは嫌なんだよ」

 その目には、熱があった。育てて来た筈の息子なのに、自分の知らない顔をしていた。

 自分はいつから、この子の目を見てやれなくなっていたんだろう。

 マルクは、涙目になるイェウルと戸惑っているタウロに向かって歩いて行き、逃げる算段を始めた。マルクは、彼が子供の頃に着ていた古着の裾と襟を折り、イェウルに何とか動きやすい服装にさせる工夫を。タウロは、僅かに持ち出した自分の配給食とマルクの分の配給食、そして幾らかの金を鞄に。イェウルは差し出された服を、奥の部屋で着替えに行った。

 皆、明日を生きる為に、僅かな時間をも惜しんで行動していた。

 他方、イシオは椅子に腰を下ろし、日々の工房作業でひび割れた自分の手をじっと見つめる。目はかすみ始め、ちょっとした運動さえも億劫になったこの体が、明日の為に出来る事は何だろう。そんな、今まで真剣に考えた事も無い、自分で答えを出せない問答を心の中で続けた。

 マルクは、タウロとイェウルを引き連れ、何も言わずに家を出る。まるで後悔していない様子であったが、タウロとイェウルはとても申し訳なさそうな苦しげな顔をして、深々と礼をして去った。二人はイシオに、一緒に行きましょうと言ってくれた。マルクもそれに反論する事はしない。だがそれでも、イシオは家を離れるわけにはいかなかった。

 タウロは別として、イェウルのその行動が衝撃だった。目の前で自分の部族を侮蔑されたにも関わらず、自身の過失でイシオ達の身に危機が訪れた事を気に病み、その身を案じているのだ。

 彼女にとって、部族とは何だろう。

 イシオにとってそれは誇りであり、矜持であり、血であり、そして自分自身の帰属する『家族』に等しい存在だ。家族を侮辱され、虐げられれば、誰でも怒り、報復したいと願う。だが話を聞いた限りイェウルにとって、部族という家庭はしがらみでしかない様だ。

 彼女だけではない。若年層程、部族への帰属意識が希薄である傾向が強い様だというのは、薄々感じ取っていた事だ。道具の修理を依頼に来る者に、部族間の格差の不満を口にするのが常であったイシオは、世代間でのそうした僅かな差異を感じ取っていたのだ。ただ、トン族としての部族の血がそれを認めなかっただけだ。だから常日頃から、頑固に会話の端々でリン族の憎悪を口にしていた。そしてマルクは、それを怒った。

 今の世代は、部族への帰属を望んでなどいないのかも知れない。全体主義ではなく、一人一人の個の評価を求める、そんな時代になっていたのではないか。ただ、強情にかつての時代に固執する世代が彼らの上に居るというだけで。

 もう、名前だけの全体主義に帰属する自分達の世代は、求められていないのだろうか。そうした疑問をずっと頭の中で巡らせている間に、いつの間にか微睡んでいた。



 鐘の音で、イシオは目を覚ます。同時に、表通りの魔術燭台に火が灯り、街を妖しく照らす。何も変わらない、いつも通りの日。ただ、息子と父が居ないだけの寂しい一日だ。

 息子に怒りの目を向けられ、直情的な言動を咎められても、彼はマルクに激昂する事はしなかった。イシオ自身でも不思議に思っている。他人や、そうでなくとも友人から人格や言動を否定されたならば、それがどんな理屈であれ怒鳴り散らし、怒り狂っていた事だろう。だが、そうならなかった。ましてや自分を置いていったマルクを憎む事もしない。

「息子だもの、なぁ」

 生まれてから、おしめを自分で変えられない時分からずっと世話をしてきた。親が子供を自分の体の一部だと錯覚してしまう事もままある。イシオも、若干の方向の違いはあれど、基本的にマルクとは同じ考え・意見を持っていると勝手に思い込んでいた。きっと、多くの親が一度は錯覚してしまうその誤りを、イシオは正す事が出来ずに二十五年の歳月を送ってしまった。

 愚かな事だ。自分も、父であるカータと同じ経験をしている。そしてその軌跡から生まれる思考を変える事が出来なかった。カータはそれを理解していたのだ。だから死の床においてイシオに未来への希望を託さず、他でもないマルクに語りかけたのである。

 四十五年を生きたイシオにとってリン族への恨みや憎しみは、そう簡単に消す事は出来ないものだ。今はまだ、その考えを改める気にはならない。

 だが息子の為、その友人と恋人の為、出来る事はやってみようという気にはなれた。

 休みの鐘が鳴ってしばらくした後、やおら表通りが騒がしくなる。食卓に腰掛け、何をするでもなくただ呆けて水を飲んでいたイシオは、遠くにその音を聞いていた。やがて、家の戸を乱暴に、そして不躾に叩く音が家に響き渡る。彼は無言で腰を上げ、ゆっくりとした動きで扉に近付いた。その短い間にも、戸は力強く何度も叩かれる。

 鍵を開け、扉を開いた。目の前には制服姿の警務官が十人以上群れを成し、イシオの家の玄関と周辺区画一帯に散って彼を監視している。彼らの後ろには、白い装束を身に纏い、覆面や布で顔を隠した魔術師の一団も待機している。

 そしてイシオの目の前に立つ警務官の隣には、見慣れない、黒と赤で意匠された細身の服に身を包み、仮面を付けた奇妙な男が立っていた。

「昨日消灯後、若しくは始まりの鐘がなる前、身なりのいい少女が来なかったか」

 冷たい声で、警務官は詰問した。一刻も早く汚物の隣に立っていたくない、と言いたげな面持ちで、同じ背丈のイシオを睨んでいる。

「いいえ。誰も」

 淀み無く、滑らかな言葉が出て来た。平常であれば、リン族の警務官に教える事は無い、と開口一番言い放っていた事だろう。だが、それがマルク達にとって何の得にもならない事が分かっていた。すると、とても気持ちを平静に保って応じる事が出来たのだ。不思議なものだ、と思いながら、警務官の話を聞く。

「ここから離れた貧民街に住むタウロという下郎が、令嬢をかどわかした事は知っている。ここに、その下郎と親しい男が住んでいる事も知っている。そして御令嬢は手掛かりとして、魔術師の痕跡追尾魔法が掛けられたガラクタを持ってあらせられる。その反応が、この家から発せられているのだ。言い逃れ出来るか? ガラクタを売り付けた商人からも口は割れている、白状しろ」

 自分が誇りを持って作った懐中時計をガラクタと一蹴され腹が立つ。更には、時計を唯一卸している店主の顔を思い出し、腹を立てた。開放宣言以降成功し、リン族が多く住む中流階級階層に住まいを移した彼の店に品物を置いてもらっていたのだが、余程口が軽かったと見える。トン族の片隅にも置けない、誇りの無い男である。

 答えろ、とイシオの胸ぐらを掴んで自白を迫る男に、しかしやはり怒りは湧かなかった。それどころか……

「お前、何を笑っている!」

 怒声を上げ、男はイシオを殴り倒した。それを見て取り、後ろに続く他の警務官達や黒い衣装を着た細い体の男も、続々とイシオの部屋へと入り込んだ。

 イシオは、長い間自分の住み続けた愛する我が家が汚されても、やはり顔に笑みを浮かべたままだった。勝ち誇った、警務官からして見れば見下している様な下卑た笑みだ。頭に血が上ったのか、男は口汚くイシオを罵り、何度も彼を蹴った。

 一杯食わせてやった、という優越感。そして、誰かを守る事が出来たという満足感。

 その二つは、老いた体を傷付ける痛みを些細なものに感じさせた。


            *


 時計と言うのか、と独りごちて、自室の机に頬杖を突いてシーリーンは、箱の天鵞絨の下に収められていた紙片を読み耽っていた。ご丁寧に簡素な絵まで付いており、使い方、文字盤の読み方、注意事項などが細かく書かれていた。

 箱の隣には、資料館から借りてきた懐中時計というその実物が置かれている。ルー家の名前を出して少しごねるだけで、職員は慌てて、弁済同意書や借用書にサインを求めるだけで、その他の情報を不問として時計を貸してくれたのである。

 かちかちと僅かに規則的な音を鳴らすそれは、欠伸が出る程の遅い速度で一目盛りずつ針を動かす。正確に時間を告げる為の装置だ、と指南書にある通り、尋問した店主も口を割った。一日一回、十回程度発条を巻くだけで時間を計れるのだと言う。

 聞いた始めは、そんな馬鹿な、と思っていた。聞けばトン族の技師がこしらえたものらしいが、劣等民族にそうした精細なカラクリなど作れる筈が無いと見くびっていたのだ。

 だが、針が十二を指した正にその瞬間、休みの鐘が外の世界で鳴り響いたのである。店主の言った通りだった。シーリーンは目を丸くし、自分の手の中に収まるその小さなカラクリの仕組みと技術に驚嘆する。大まかにしか推測出来ない生活は、これが一つあれば大きく変わる。より有効に時間を活用し、効率的な仕事や行動の時間配分が適正化される。

 冷や汗を流しながら、何故これ程のものが界隈で重要視されず、技術は遥か地の底に埋もれていたのだろう、と思考を巡らせた。だが答えなど出る筈も無く、しばらくその時計をじっと観察していた。

 やがて、部屋の扉をレイシャがノックし、部屋に入る。

「旦那様から、終わりの鐘が鳴るまで舞踏と竪琴の練習をさせろと仰せつかりました。お嬢様、ご足労とは思いますがお召し物を変えて、階下へ……」

 もうそんな頃合いか、と思わず手元の時計を見る。針は、二の数字を指そうとしている。普段であればその言葉に従う所であるが、今日一日はイェウルの件もあり、いつ外に出なければならないかも分からない。捕物自体はラーや他の団員が当たるという事で、貴族の娘であるシーリーンは待機せよと頭領から指示があったのだ。故にシーリーンは、まだ赤い鷹の服を着たままであった。

「勉強中だとか言って、誤魔化して。仕事で行けないわ」

「それが……今日からみっちり稽古させると仰られたので……。やはり、お顔は出された方が良いのではと……」

 心底済まなそうに言うレイシャの顔は、とても不安げだった。それを聞いてシーリーンは、遂に来たか、と顔をしかめた。

 やはり父は、ラオとの婚儀を滞りなく、可能であればなるべく早く済ませてしまおうと考えている。そうして経済状況を盤石のものとした上で、シーリーンも何処か良い所の家へ嫁にやってしまおうと考えているに違い無い。家の経済状況が良ければ良い程、目上の貴族から目を掛けられる可能性が高くなる。その為にはまず、従順な様子を見せつつも冷淡な態度を取るシーリーンに花嫁修行をさせようという腹づもりだ。そうでなければ、ラオと違ってこれまで娘の教育にまるで関心を示さなかった父が、こうした厳しい言葉を言う理由が見当たらない。自嘲気味に笑って、シーリーンは言った。

「そうなると、ますます行きたくなくなった。……私も、何処かに逃げようかしら」

 巫山戯て言ってみる。が、レイシャは笑わない。面白くなかったのか、それともシーリーンの冗談が冗談に聞こえなかったのか。シーリーンには分からなかった。「じゃあこうしましょう。呼びに行ったら部屋の扉に、終わりの鐘が鳴るまで外で遊んでいますという手紙が貼られていた事にして。……駆け落ちします、って文句でも良いかしらね」

 そんな相手は居ないけれど。しかしレイシャは、

「シーリーン様は構わないかも知れませんが、私が罰を与えられてしまいます。事前報告であればまだしも」

 と困った顔をして力無く笑い、肩を竦めた。「さあ、お召し物を変えて」

 そう言われて、シーリーンは何も言えなくなる。そうね、と観念し、時計を机の引き出しに仕舞おうとした。だが、その手が止まる。開いた引き出しの中には、まだ今日の始めの食事の時渡された、総督府からの手紙が入っていた。

 指示されたのは、魚の頭に埋め込まれた、魔術を込めている核の回収。

 当該の魚は、技師の手によって綺麗に解体されていた。

 魚が落ちた場所を見る事は、貧民街に住む者であれば或いは、という状況。

 目の前には、高度な技術を用いて作られた時計。

 もしもこれが、奇跡的な偶然だとすれば……



 その夜、赤い鷹からの暗号文が届いた。禁固した貧民街の老人が、イェウルとその駆け落ち相手が彼の家を訪れたと証言したらしい。

 その一報を受けたシーリーンは漆黒の闇に紛れ、総督府へと続く側壁を駆け上った。


            *

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