第二幕 父と子ら - 1

 報告書には見た通りのままを書き、シーリーンはそれを頭領に提出した。その場で簡単に目を通した頭領は、首を傾げながらも「ご苦労」と言って、それから数日間が経過したが、音沙汰は無い。発見及び報告者はシーリーンとラーである為、総督府から何か命が下れば彼女達に連絡が入る筈なのだが。

 相も変わらず、家族の会話は同じ様な話の繰り返しだった。金の話、仕事の話、家督の話。母とシーリーンは、会話の輪に入る事を許されず。

 だが、今日は少し違った。父が、母とシーリーンにも話題を振ったのだ。

「ラオが式の当日、着る服が決まったぞ。例の伝統装束に決まった」

 あら、と母が笑顔を浮かべて驚いた。「では、それに合わせなくてはね。お相手の方には、伝えたのかしら?」

 訊かれて、しかしラオは困った風に頭を掻いた。

「それについてさっき思い出したんです。父様、相手の名前……何と言いました?」

 その言葉を聞き、シーリーンは身体中に鳥肌が立った。そして続く父の言葉に、吐き気を催す。

「うむ……言ってなかったか? どうも覚えてないな。そもそも家名しか聞いていない気もするな」

 そう答えて、高らかに二人で笑った。その光景を見て早々に食事を済ませ、くどくどと文句を言われるのを覚悟で席を立つ。食堂を去り際に、父に声を掛けられた。叱責ではなく、単に用があったから呼び止めた風だった。手元に置いた手紙の山から一通の便箋を差し出し、手渡される。その際の父に、「女のくせに立派な相手が居るのだな」と嫌味を言われるが、ぐっと堪えて自室に戻る。

 レイシャに心配されたが、気に掛けるなと言って自室の扉を閉じた。気を落ち着かせてから便箋を確認すると、封にシーリーンの名前だけが書かれた素っ気無いものである。が、封蝋で閉じられた裏面の印璽文様は、総督府を表すものだった。中身を察して開いてみる。しかし書かれているのは、総督府勤めの父とその家族に向けて、この度のラオの婚礼を祝福し、式場を取り持ち、礼讃する形式的な文言が長々と並んでいるだけであった。

 だが、良く見れば文面の文字には誤字が混ざっている。それも一文字二文字ではなく、全文に渡って満遍無く。総督府発行の文章でこの様な低次元の間違いが起こる筈は無いので、シーリーンはその文字だけを拾って改めて読んだ。

(雌の鷹の報告に感謝。通例なれば頭領に伝令すべき事なれど、当方由来の事情にて能わず。失せし魚の核、早急に回収し、同封の返信便箋にて送られたし。他言無用……)

 総督府からの返信が遅れた原因は判明した。恐らく、内部にとっても一般市民による魚の解体及び素材の奪取は想定外だったに違い無い。それからの対応を巡って、彼らも時間を要したのだ。結果、赤い鷹の組織力を使った早期解決よりも、多少非効率的でも情報の漏れにくいたった一人に頼る道を選んだのだ。

(そんなに気を回さなければならない程、魚の脳については機密事項なのか?)

 総督府の命令に疑問を抱いてはならない。それは赤い鷹の暗黙の了解であると同時に、シーリーンが自分の主義と反する行動をしているという自己嫌悪を紛らわせる為に必要な戒律であった。だが、通常と異なる伝令の通達方法に戸惑いと疑念を抱いてしまうのは無理からぬ事である。総督府からの直接指令など、今までに経験が無かった。もしかしたら自分が知らないだけで、今までも何件かあったのかも知れないが……

 と、部屋の扉がノックされ、レイシャが声を掛けた。

「奥様がお見えです」

「……通して」

 答えると、静かに扉が開いて母が姿を見せた。シーリーン、と声を掛け、母はゆっくりとシーリーンに近付いた。そして彼女の目の前まで来て、躊躇いがちに口を開いた。

「気分は、大丈夫かしら」

「はい」

 何故、わざわざそんな事を訊くのだろう。そして一度は「そう……」と納得し掛けた母は、改めて訊いた。「本当に?」

「どうなさったのですか」と逆に尋ねた。

 すると母は何も言わず、シーリーンを抱き締める。当惑していると、母は謝った。

「御免なさい。さっきは……怖かったでしょう」

 そこで初めて、先の食堂での会話を言っているのだと理解する。一週間以上前に伝えられた婚礼予定の、その相手の名前さえも知らずに家族になろうとしている父と兄の会話の事だ。自分達は、ただ相手の名前は知らされていないだけだと思っていたのに。

 婚礼だけではなく、ルー家として歩んでいるこの人生そのものが、形だけの空虚に過ぎないと、骨の髄まで理解させられた瞬間だった。母は、それが恐ろしかったのだ。

 まだ赤い鷹という組織で秘密裏に活動するシーリーンは、そこに自分の存在意義を認められる分幸福であった。しかし母は、この冷たい石造りの広い邸宅で、ただ一人孤独に震えている。嫌悪しか感じなかったシーリーンと違い、恐怖さえも感じていたのだ。

 否定するのは容易かったが、シーリーンはそれをしなかった。「はい」と静かに答え、彼女もまた震える母の体を抱き締めた。

 母もかつて、今度の婚礼の相手と同じ孤独と恐怖を経験し、またそれを思い知らされたのだろう。ラオの婚礼が済めば、シーリーンも婚礼を余儀なくされる。母の経験を、次は自分が体験しなければならない。年齢的に言って、恐らく一年と間を空けずに相手を決められてしまう事だろう。

 先日レイシャから彼女の輿入れ当時の話を聞いた時、自分にその姿を重ね合わせる事が出来なかった。当然だ。彼女の様に幸福に嫁ぐ事は、自分に許されていないのだ。

 だが今ならば、自分の花嫁姿を想像出来る。決して幸福など掴めない、着せ替えの木偶人形と化した自分の姿を。

 僅かに自分の体が、震えた。



 翌日、始まりの鐘が鳴ってしばらくすると、やおら部屋の外が慌ただしくなった。食事の時間が近付いても、中々レイシャは部屋に来ない。ようやくシーリーンを呼びに来たと思ったら、レイシャは酷く動揺している。どうしたのかと尋ねれば、血相を変えて彼女は答えた。

「ラオ様の、お相手が……!」


            *


 金が無いという事。それは、人生の選択肢が狭まるという事だ。力づくでその不足分を補う事は可能な時もあるが、それは自己にも周囲にも多大な労力を必要とする。

 そして葬儀の費用が充分に無いという状況は、力づくでもどうにもならない類の無力感を抱かせる。結局僅かばかりの費用を葬儀屋に出して略式葬儀を済ませ、安い安い棺にカータの遺体を詰める事となった。

 唯一の救いは、富める者も貧しい者も、その棺は等しく縦穴の奥底へと投下されるという事だろうか。しかし、死なない限り形ばかりの平等さえも手に出来ぬとあっては、やはり心が塞ぐ。それでも、マルクは涙を流せなかった。

「俺、冷たい人間なのかな」

 何とはなく、イシオにそう尋ねる。しかし彼は、「ただ心に余裕が無いだけだ」と返す。寂しそうな口調ではあったが、やはりその顔に涙は流れていない。

「この街では、特にな」

 近所の人間で、葬儀に顔を出す者は居なかった。葬儀は全て、経文から出棺までを一度に済ませるのが通常である。そんな短い時間にさえ、離れた区画に住むタウロ以外は参列に来ない。

 薄情だとは思わない。マルクもやはり、誰かに同情出来る程心に大きな余裕が無いそうした人間の一人でしかないのだから。

 本来であれば、タウロに頼まれた例の頼み事について、約束通り何がしかの提案の一つはするべきだったかも知れない。だがマルクの思考は、物語にある様な色恋を手助けしようという気分ではなかった。申し訳ないけど、と言うと、タウロも「気にしないでくれ」と言って、それ以外には沈黙を守った。

 しばらく仕事には行かなかった。ぼんやりと一日中、本を読んだり、イシオの仕事を手伝ったりをして過ごす日々が続く。イシオも、敢えて何も言わなかった。

 或る日、マルクは訊いた。

「新しい事って、何が出来るかな」

 時計の外枠を作っていたイシオはルーペと道具を置き、息をついて言った。「自分の中で新しい事か?」

「ううん。今まで、俺達も他の鉱夫も、してこなかった事」

 それが、カータの意味した事である筈だ。そうだなあ、と水を口に含んで、イシオは言った。「自分で見付けにゃならんだろうな。私が言ったところで、親父と同じ発想しか生まれないだろう」

「父さんだって、まだ若いだろう」

「いやあ、お前達の為にやってやれる事なんて少ないもんさ。皆を決起させてやれるような事も、何一つ出来やしないだろう。精々、リン族をぶっ潰す、とか謳って何人か引き連れて、中央区に殴り込みに行って、返り討ちになってそれで終わり。それで、また何も変わらずに数十年が経過する」

 恨んで何も解決しない事が分かり切ってるのなら、逆をしてみればいいじゃないか。そう言ってやろうとして止めた。不毛な口喧嘩が始まるだけだ。そう判断し、黙々と作業の手伝いに戻る。

 時々訪れる客の要望を聞き、道具を修理し、僅かばかりの金を受け取る。それだけの日々を何度か過ごし、自らの無力さを嘆いた。



「時間が無かった。仕方無かったんだ」

 身なりのいい女性を引き連れて家の扉を叩いたタウロは、そう言ってマルクに縋った。時刻は、消灯の鐘が鳴ってかなり時間が経過した頃である。女は装飾の髪飾りを長い髪に幾つも編み込み、白い肌と細い腕をしていた。顔を隠す様に外套のフードを目深に被った二人の姿を見て、遂にやってしまったのか、とマルクは当惑する。

 素早く周囲を見回して、誰も居ない事を確認した上で、マルクは小声で怒る。

「馬鹿! 何で連れてきた、何処に逃げるかも算段してないのか!」

「本当に緊急だったんだよ!」

 同じ声量で叫んだタウロは、今にも泣き出しそうな顔をしている。だがその顔は決意の意思に満ちており、迷いを感じさせない。それだけに、厄介だった。取り敢えず、マルクは扉を開いて素早く、駆け落ちして逃げ出してきた二人を迎え入れる。誰かに目撃される事態だけは避けなければならなかった。

 騒ぎを聞きつけ、熟睡していたイシオもベッドから抜け出し、突然の訪問者に面食らった様子だ。「何だ、その二人は」

「イシオさん、お邪魔します」

 葬儀以来顔を合わせていなかった二人は、簡単に言葉だけ交わした。そうして、タウロの後ろで縮こまっている女性もそれに続き、おずおずと名乗る。

「イェウル、です……ご迷惑を掛けます」

 名乗るその声は、か細かった。おお、と少々戸惑い気味に答えたイシオは、二人を居間のテーブルに座らせてマルクを呼ぶ。部屋の隅で、イシオは小声でマルクに話し掛けた。

「どうしたんだ、彼は」

「見ての通りだよ」

「駆け落ちか、やるな。でも、何で暗い顔してんだ」

 どう答えたものかと、頭を後ろに向けてタウロと、イェウルと名乗った女性を見る。二人は観念した様に首肯し、マルクはそれに応えた。

「……相手さん、企業の娘なんだよ」

 企業、と同じ言葉を繰り返し、一拍置いてイシオは驚愕した。「企業! すると、あの娘……」

「リン族の人だよ。……頼むから、滅多な事しないでくれ」

 目を丸くしながら首をガクガクと振り、恐らくは気を落ち着かせようとしているのだろう、意味も無く工房道具を手で弄っていた。不自然なイシオの様子を見て、イェウルはハッとして顔色を変えてしまう。「あの、お父様は……」

「気にしないでいいよ。分別くらいはあるから」

 素早く言って聞かせ、動揺させないようにした。でも、と椅子に腰を下ろし、改めてタウロに言った。「それより、お前だよ。確かに約束通り何も提案出来なかったのは済まないと思ってる。でも、何の相談も無しに、こう……問題、を不必要に持ってくるのも良くはないだろ」

「分かってる、済まない。でも本当に時間が無かったんだよ」

「何が」

「彼女の婚約相手との婚礼が、明後日だった」

「婚礼! 何で知らなかったんだ!」

「彼女も知らなかった! 昨日親から輿入れの事を知らされて、僕も昨晩それを聞いたんだ!」

 その言葉に目眩がした。更に話を聞けば、イェウルは親から全てを決められて育ったと言う。生活の全てを親が決め、唯一の自由と言える時間は学舎から家へ帰る僅かな間と、皆が寝静まった消灯後の時間だけ。家の名を汚さないようにと、その僅かな時間以外の何もかもは、父親の人形として生きる事しか出来なかったと。

 さだめし、人形を家族に差し出すのに、人形がその予定を知る必要など無いという事だろう。「そろそろ衣装合わせもしておかねば時間が危ないな」という父親の独り言に対して質問をして、自分の輿入れが判明したという次第だった。

「滅茶苦茶だ」

 大きく息をついて言うと、申し訳ありません、とイェウルが謝罪する。彼女の落ち度など何も無いのに。だが、長い事腰を下ろしている訳にもいかないのは確かだった。貴族と大企業の一人娘の婚礼とあれば、間違い無く大事になるだろう。捜索の手も伸びる筈だ。

「タウロ。お前の事とか貧民街の事は、知られてしまいそうか?」

「無い。前にも言ったけど、イェウルの侍女には口利きしてあるし、終わりの鐘が鳴ってから会う時は最新の注意を払ってた。誰と会っていたかなんて分からないよ」

「……侍女は、まだ家に?」

 イェウルに訊くと、「使用人が、家の者に言われた用事か冠婚葬祭以外で屋敷を出る事はありませんので、恐らく……」と答えた。

 あまり、好ましい状況ではないだろう。そう思った。何にせよ、と思いながらイェウルの姿を見る。外套を纏い、フードを目深に被っているとは言えど、歩く時に外套の隙間から覗く衣服の綺麗さ、そして隠しきれない佇まいの品の良さなどは、隠しきれるものではないだろう。細心の注意を払ったとしても、誰かに見られて注意を向けられた可能性は捨て切れない。安心は出来なかった。

「今晩だけ匿うよ。始まりの鐘が鳴ったら、人混みに紛れて……何処かに行くしかない」

 とにかく逃げ続けるんだ、とマルクは静かに重く言った。沈痛な面持ちで、タウロ達は首肯する。

 嗚呼、何と苦難に満ちた道を進む事を選んだのだろう。マルクは、ただ残念に思った。恐らく、タウロとちゃんと顔を合わせて話すのは、これが最後になる事だろう。そして、見送った後からの手助けは、本当に何も出来なくなる。ドッカ、と腰を乱暴に椅子に降ろし、感慨深くマルクは言った。

「楽しかったよ。何度も助けられたし」

「こっちもな」

 沈んだ、しかしそれでも明るく努めようとする声でタウロは答えた。見納めだな、と思いながら、蝋燭の灯りに照らされる彼の顔を見つめていると、意外にもイシオが声を上げる。「お嬢さん、それは……」

 腰を浮かせ、目を丸くして彼は言う。指差しているのは、イェウルの外套から覗く、細く鈍色に光る鎖だった。ああ、と彼女は微笑みながら、鎖が繋がった先にある、ポケットの中の懐中時計を取り出した。

「素敵でしょう? お父様が、誕生日にと去年下さったのです」

 その言葉を聞き、イシオの相好が崩れた。自然と、マルクも微笑む。自分が常に丹精を込めて作った工芸品を、こうして素敵だと言ってくれる機会に恵まれれば、それは嬉しいだろう。勿論、この事実はイェウルを除く全員が知っていた。元より事情を知っていたであろうタウロは、自慢げに口にする。

「僕と出会った時も持っていたらしいんですが、その時に発条を巻き忘れた様で」

「そうなんです。余りにも彼と会えた事が嬉しくて、一晩中寝付けなかったどころか翌朝も夢見心地で……気が付いたら、もう動かなくなってしまったんです。あ、このカラクリはですね……」

 説明しようとしたところで、イシオはネタばらしをした。自分がそれを作ったのだという事、自分以外の誰もその仕組みを知らない事、そして直すのは簡単だという事。「直せる! 本当ですか!」

 一瞬顔を輝かせたイェウルは、しかし少しだけ困った様に笑う。理由を問うと、初めてタウロと会えた記念に時間を止めたままにしておきたかったのだ、と小恥ずかしそうに答えた。

 ああ、いい相手に巡り会えたのだな、と二人の様子を微笑ましく、そして少し残念に思いながら、丸くは見守った。

 イシオも機嫌を良くしたのだろう。イェウルの立場も忘れたのか、微笑みながら手を差し出し、時間を合わせてやろう、と言った。イェウルは喜びながら鎖を外し、時計を彼の掌に置いた。と……

 ん、とイシオは顔を曇らせる。時計を握り、耳元に寄せて訝しげに振ってみせた。カチカチ、と音がするのが、マルク達の耳にも聴こえた。

「どうしたの」

 問うが、イシオは無言でしばし時計を睨み、やおら工具箱から道具を取り出し、懐中時計の裏蓋の発条を外し始めた。

 何を、と止める間も無く、一本、二本と発条は外れていき、蓋は乱暴に剥がされた。

 そこには、素人目に見ても違和感を抱くカラクリの部品がある。どう見ても歯車に噛み合っていない、機構が完成した後に適当に入れられたらしい、小さな、直径五ミリにも満たない水晶玉だった。赤い炎が、水晶の中で暗く光を放っていた。

「こんなもの、入れた覚えはないぞ」

 それは、マルク達素人が見ても理解出来る。時計には決して必要無いものだろう。一体何の部品なのだろう。そう考えあぐねていると、イェウルが見る見る内に顔を蒼褪めさせるのが、弱々しいランタンの光の中でも分かる。

「どうしたの」

 タウロが不安そうに訊くと、彼女は震える声で答えた。

「魔術師の、痕跡追尾魔法道具です……」


            *

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