第一幕 無慈悲都市 - 3
裕福なだけでは足りない。自分が幸福になるだけではまだ足りない。この社会に変革をもたらす為には、上だけではなく下も見なければならない。『赤い鷹』の一人として、その理念の下に行動しなければならない。シーリーンは常々思う。
だが赤い鷹の実情は、あの貴族の男が言った通り、総督府に隷属している秘密組織に成り下がってしまった脆弱な組織だ。それが、彼女には悔しくてならなかった。
赤い鷹が発足したのがいつになるのか、それはシーリーンにも分からない。だが、総督府の発足した四百年前より以前から活動していた事は確かな様だ。発足以前の事は、文献が存在しないので具体的には何一つ分からない。中央区の書庫に向かっても、何の言及もされていない。
しかし、発足後の文献の全てに記述されていたのは、赤い鷹がトン族により急速な弱体化を余儀無くされた組織であるという事実の数々である。
当時、リン族とトン族はもっと融和した関係であったという。経済的成長や技術的発展もあり、トン族の中にも(忌まわしい事だが)今以上に上位社会へ進出した者が多く居たらしい。それもこれも、平等を尊ぶ赤い鷹という義賊が、支配的貴族の財産のみを狙った窃盗を繰り返し、富を分配していた功績によるところが大きかった。
リン族もトン族も無く、虐げられる者を助け、平等の為に陰から人々を支えた。貧民の出でありながら成功したトン族の人間達も、赤い鷹により救われたのだ。
だがそうして富をなしたトン族の者は、赤い鷹は誰にも帰属しない独立した義賊組織である、という前提事実を理解していなかった。自分達の為に暗躍して仕事をする組織だと、とんでもない思い違いをしたのだ。
事業を立ち上げたトン族の男が、同業他社に不利益な活動をするよう赤い鷹に命令を下した。当然、赤い鷹はこれを拒否。寧ろ独善的なその企業姿勢は赤い鷹が標的とする財産奪取対象のそれであり、赤い鷹は或る日、企業の転覆を図る計画の一部を実行した。
だが赤い鷹の行動を予知していた男の警備体制により、これは阻止される。そして自分に敵意を向けている事を確信した男は、赤い鷹に関する悪評を吹聴した。
それまでその存在を知らなかったリン族上流階級層、つまり男の商売仲間となった人間達には、優良企業のみを襲う、リン族から成る義賊の存在を明かした。一方の貧民達には、赤い鷹はもう自分達の味方をせず、リン族の企業の使いっ走りとして金を稼ぐ組織に成り下がったと噂を撒いた。
企業は怒り、義賊狩りを命じた。一方の民衆も男と同じ、「自分達の為に働いてくれる義賊」という誤った認識を持っていた為、不満を爆発させる。
いずれも、人の傲慢と形だけの野心が引き起こす社会の崩壊を現実のものとした。赤い鷹は大部分が貴族により狩り出され、処刑された。
赤い鷹に関する情報が抹消された理由と、四百年前に総督府が実権を握ったのはこうした背景があったからだ、というここまでの情報は、全て文献に記述されている。しかしその後の文化的衰退や極度に明確化された貧富の格差から、シーリーンはその後の経緯を次の様に推測している。
上流社会の危険を脅かす、赤い鷹が弱体化したのを機に、貴族達は明確な貧富の格差を意図的に作り出す事を画策した。奴隷制度を発布し、トン族と一部の反抗的なリン族の財産を徴収して貧民や奴隷へと落としめ、権威主義的な思想を強く持つリン族の支配意識を強く扇情する。意図的に作り出された貧民は直接、被差別層として意識され、リン族の中流階級が上層階級に対して抱く不満や怒りは、全て下層貧民へと向けられるようにした。怒りの制御に成功した貴族は総督府を立ち上げ、魔術という革命的発明が生む需要と供給の均衡を制御し、多大な利潤を生み出すに至ったのだ。
そして一方で、自分達が追い詰めた筈の赤い鷹を歴史の陰で救済。その恩を着せる事で四百年後の今日に至るまで、自分達が社会的により優位に立つ様に、総督府直属の組織として汚れ仕事を任せる……
計画としては、最早完璧に近い。民族浄化をほぼ完全なものとし、資金を搾取する事の不満を解消させ、それでいてその手段までも確保したのだから。
だからこそ、せめて自分だけが陰ながら、貧民の為に動いてもいい筈だ。そうでなければ、赤い鷹の創立理念でもある『格差是正の為の義賊であれ』は完全に消滅してしまう。
しかし、とシーリーンはベッドの上で仰向けになったまま天井を睨み付け、半日前に助けたトン族の男を思い出す。
赤い鷹を裏切ったとされるトン族の男を助けるなど、私は何を考えていたのだろう。無論、子供を庇う行動を取っていたのを見たからこそ、私刑で殺されそうなところを温情で救ってやったのだ。それ以上の情けを掛ける理由は無い。
それでも彼女の心に残るのは、男の言った言葉だった。
人を助けるのに理由が要るのか。私の様に、憎んでいる相手に手を差し伸べるよりもずっと基本的で根源的な、人間としてのその感情と行動に理由など必要なのか、と。
そんな事を口にしたあの男の、純粋な目が脳裏に焼きつく。他の貧民同様、希望を無くした暗い表情をしているかと思えば、ただの感情論を説くその瞬間だけ目に輝きを持っていた。論理的でない相手は、嫌いだ。
腹立たしかった。
食卓に腰を下ろし、冷めた表情で黙々と料理を口に運ぶ。普段の言動から品性を感じない粗雑なラオも、食事の時はその作法から育ちの良さを伺わせる。だが、婚礼を来週に控えた身であるにも関わらず、花嫁や婚礼の儀に関する話題には一切触れない。気負う事をしないというよりも、関心が無いように見えてしまう。きっと、ルー家が口を聞いている企業の売り上げや営業成績、そこから配当される資金の心配しかしていない事だろう。しかしそれは、父も同じだった。彼は鼻高々に笑い、言う。
「これで、ルー家も、より安泰だ。来期の総督府の収益にも貢献出来るだろう」
「父上は商才がおありです」
ラオの世辞を、父は鼻で笑う。
「総督府地下部署の財務管理とその親鍵管理だけでは、退屈極まりない。他の連中より時間があるだけだ。勿論、こんな楽な椅子は譲らん」
酷い会話だ、と心の中で悪態をつき、シーリーンはただ食事に集中する。
シーリーンは、市民から搾取する方法と出世の話をする両親と兄の会話から意識を逸らし、自分の手元の皿に盛られた料理、そしてターンテーブルに山の様に盛られた果物を目にし、この食材で一日にどれだけの子供が救われるだろう、と今日も胸を苦しめた。
しかし、野菜や果実は中央区内のみに設けられた魔術工房内の農場でしか生産されない。コストを考えても、庶民には気安く手を出す事などまず不可能なのだ。せめて、一般市民が就職出来る中では最高給与待遇であるとされる農家へ、もっと働き手が集まれるように出来ればと考える。その為に、自分に何が出来るのか、と。こうして日々悩んだ答えの一つが、赤い鷹として貧民の為に義賊としての活動を再開する事であった。
しかし。
平らげた皿を片付けに来たレイシャが、代わりの水です、と差し出したグラスの底に、小さな紙片が張り付いている。勿論彼女も気付いている筈だが、何事も無いかの様にそのまま炊事場へと姿を消してしまう。シーリーンは、家族の誰からも見えないように気を付けながらその紙を手に取り、こっそりと読む。
『鐘の音の後』
それだけが書かれていた。場所の指定は無い。
シーリーンは嘆息し、少々嫌な予感を感じながら水を飲み干した。
消灯の鐘が鳴る。同時に邸内の魔術燭台の明かりは全て消え、薄暗がりさえも闇に包まれた。それはシーリーンの部屋の窓から見える外の世界も同様だ。部屋にポツポツと灯る蝋燭の弱々しい明かりだけが、この闇の世界を照らす唯一の目印だった。
それを見計らってシーリーンは、赤い鷹の一員だけが身に纏う事を許された細い黒衣装に身を包み、朱で彩られた黒い仮面を身に付け、窓から身を躍らせる。ロープの先に付いた鉤爪は部屋の窓に固定され、深い縦穴に吸い込まれようとするシーリーンの体を繋ぎ止めていた。
振り子の様に体を揺らし、一瞬弛んだ隙にロープをしならせ、鉤爪を外す。物理法則に従って落下するシーリーンは、しかし冷静沈着だった。数十メートル落下すると再びロープの鉤爪を放り投げ、壁面の凹凸へ器用にそれを掛ける。一時的に速度を落とし、また落ちる。
そうした動きを繰り返し、数百メートル下方の、繁華街区域がある階層とほぼ同程度の高さにある壁面の窓に体を滑り込ませた。シーリーンら貴族が住まいとする壁面住居とは違い、廊下は狭い。併せて、廊下から繋がる各部屋も相応の大きさに縮小している。彼女は回廊を進んだ先、更に縦穴外壁方面へと伸びていく、無数の袋小路の一つへと足を踏み入れた。
ほぼ暗闇に近い廊下を迷い無く歩き、シーリーンは幾つかの通路や角を曲がる。そうしてしばらく進むと一箇所だけ、僅かな蝋の明かりが灯された部屋に辿り着いた。その部屋の前に立つと同時に、暗闇から二人の男が姿を見せる。シーリーンと同じ服に身を包み、同じ意匠の仮面を身に付けている。
「鷹」
片方の男が、低い声で呟いた。対しシーリーンも、「魚」と短く答える。
もう一人の男がそれを聞き、明かりの灯った扉に近付いて鍵を開け、扉を開いた。無言でシーリーンは、その部屋へと入る。
そう広くない部屋の最奥で、仮面を外した壮年の男が椅子に座っていた。机には書類が山と積まれ、何冊かの書籍は今にも崩れ落ちそうだ。ランタンの薄明かりの下で、白髪の男は筆を置き、一息ついてシーリーンを見る。彼女は両手を後ろに回して組んだまま背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を保っていた。
「シーリーン、仮面を外しなさい」
強面の表情からは意外にも思える、柔らかい声で男は言った。無言で従い、シーリーンは仮面を外す。男は続けた。「呼ばれた理由は分かっているかね」
「いいえ、頭領」
すると、頭領と呼ばれた男は嘆息して言う。
「今日の街での騒ぎを、ラーから聞いた。ちょっとした騒ぎになったそうだな」
ラーもあの場に居たのか、と心中で舌打ちをした。もう少し警戒するべきだった。衣装を隠す為にわざわざ外套を着ていたのが人目を引いたか。頭領は続ける。
「何を考えている、シーリーン」
「騒ぎを起こしたのは貴族の男と、貧民出の無頼者でした。私は、騒ぎを広げないように仲裁したに過ぎません」
「君がこの数年間、独自に義賊・赤い鷹として小規模な活動を繰り返している事も、最近耳に入るようになっているのだが?」
そう言われて、シーリーンは何も言えなくなった。ただ黙して直立するだけの彼女に、頭領は椅子に背を預けて渋い顔をし、言って聞かせる。
「君の正義感は買っている。与えられた『任務』もそつなくこなしている事も知っているよ。その責任感の強さを知ったからこそ赤い鷹に勧誘したし、今でもその選択は間違っていなかったと思っている。……だが、認め給え。最早我々は義賊としての大義は失っているのだ。今は単なる、政府に従う隷属組織に過ぎない」
頭領たる目の前の男が、わざわざそのような事を言う現実に耐えられず、シーリーンは慌てて言った。「しかし、リン族の一部は貧しいままです。中流層の市民も、また値上がりした税金や、中央区の利益優先な条例に不安を感じてます。このまま搾取と圧政が激化すれば、私達の代で暴動が起きてもおかしくありません。少しでもバランスを……」
「私も昔は、君と同等かそれ以上に無茶をした。誰かの為にこの身を捧げられればとね。だが、歳を取るにつれ現実が見えてきた。百人に満たない我々が出来る事は、この世界では、あまりにも小さ過ぎる。お前はその事実から、目を逸らしているだけだ」
シーリーンの言葉を遮り、頭領は訥訥と説いた。「お前の主義主張は、理解出来る。私が通ってきた道だからだ。だが理想論だけで飯を食っていける程、この世は甘いものではなくなってしまった。分相応を弁えて生きなければならぬ時も多いのだ」
若さ故のシーリーンの言動は全て、分不相応、という言葉一つで片付けられる。それは正に、シーリーンが嫌う価値観の不変性そのものであった。そんな言葉が、他ならぬ頭領の口から出たという事実が、彼女を酷く動揺させる。
それでも、頭領の指示である以上は従わざるを得なかった。シーリーンの持論を展開して尚もその考えが変わらぬのであれば、またしばらくは大人しくするより他に無い。
「……慎みます」
ようやく答えると、頭領は手元の書類を一枚引き寄せ、話題を変えた。
「それともう一つ。一昨日魔術工房から連絡があり、魚が一匹、魔術師による管理下から抜けてしまったらしい。魔術への感応が消えたそうだ。昨日今日で警務官が探したが、見当たらなかったらしい。これから、ラーと二人で可能な限り魚の探索に当たれ」
「了解しました」
答えて一礼し、仮面を付けてシーリーンは部屋を出た。扉の前では、既に仮面を付けたラーが彼女を待っている。シーリーンは彼を一睨みしてから、無言で壁へと続く暗闇へと歩を進めた。
「そんなに怒るなよ。不正を報告されて俺に当たるのは筋違いだろ」
暗闇を歩く途中、ラーはシーリーンの背後でそう口にした。
「不正ではない。正義だ」
「青いね」
「青くて何が悪い。高みを見なくなった人間など、死人と同じだ」
「死人ばかりの世の中で大義を説いても、耳を傾ける奴は居ないぜ」
ああ言えば、こう言う。暗闇を抜けるまでの間、屁理屈とも正論とも付かない言葉で返されるだけだったので、シーリーンはやがて口を閉ざした。
壁面の廊下に出てからようやく彼女は訊いた。「消えた魚は、何処を飛んでいたのだ」
「貧民街の上方だ」
中流階級層下方五十メートルよりも下から、貧民街階層上方四百メートルより上までが、その区画の魚の遊泳範囲だ。その体躯と機動性能から言って、遊泳範囲より上に飛び出す事は有り得ない。落ちるとすれば下方だ。そうすると貧民街に落ちた可能性をまず考えるが、そうであれば下層街では騒ぎになっている筈だ。警務官も気付く。しかし今も発見報告が無いとなれば、そのまま階層に落ちず地の底へと落下していった可能性も高い。頭領が「可能な限り」と言ったのも、その可能性を憂慮しての事だろう。始まりの鐘が鳴る前に戻る事を考えても、充分捜索したと報告出来るだけの範囲は調べられるだろう。
「なあ、祭りじゃなくてもいいから、一度仮面を外して飯を食いに行こうって」
「しつこいぞ」
何度断っても軽口を叩くラーを一蹴して、「お前は左回りに行け」とだけ言い残し、シーリーンは窓から再び縦穴を飛び降りた。
鉤爪付きのロープを使い、壁面をひたすらに調べた。壁に何の痕跡も無いようであれば、そのまま頭領にも、魚は地底へ落下したと報告する。魚がぶつかった痕跡があればよりそれは確実だった。視界の届く範囲で、シーリーン達は痕跡を調べた。
縦穴を半周し、一度だけラーと接触する。彼も、見える範囲では何も無いと答えた。そのまま二百メートル程落下し、今度はお互いが逆回りで調査を再開する。
やはり何も無い、と疲労を感じ始めた頃、薄い闇の向こうに見える壁に不自然な穴を見付けた。ただの打ち棄てられた壁面住居区画らしかったが、経年劣化で崩落しただけと言うには不自然に過ぎた。鉤爪ロープの持ち手の長さを調整し、下層へと降りていく。
体を振り子の様に揺らし穴に入った先でシーリーンが見た物は、魚の残骸だった。
四メートル超の魚は骨格を残し、外殻の鱗は殆ど剥がされている。幌で出来た鰭も切り取られ、目玉の水晶も略奪されている。明らかに、人の手によって解体されている。墜落が原因で破壊されたものではない。
目の前の魚は、明らかにカラクリ技術に腕のある人間が解体している。ただ滅茶苦茶に破壊したにしては、あまりにも残骸は美し過ぎた。
(そう言えば、魔力を動力に変換する為の魔術道具が頭部にあるって言ってたかしら)
内部機構の説明を、簡単な魔術工房見学をした際に聞いた事があった。魚に近付いて、頭部を確認した。
だがそこにも、何も無い。どう見ても何かがあったらしい空間に、有るべき筈だった何かが無いのだ。
誰かがここに来て、魚を解体した。そして部品を売り捌いたか活用したかしたのだ。
この貧民街出身の、カラクリ技術と知識を持つ誰かが。
*
カータは、息も絶え絶えだった。呼吸は長く、不自然に深い。イシオが言うには、終わりの鐘が鳴ってしばらくしてからずっとこうだと言う。脈も不規則で、目を覚まさない。
「……限界なのかな」
「かもな」
マルクとイシオは、炊事場で配給食を取り出し、水に溶かしたスープにしていた。二人の顔はどちらも無表情で、静かだった。
祖父が死ぬかも知れない、という悲しみよりも、もうそろそろだったか、という諦観が心の中を占めている。ただの風邪ならばともかく、大怪我や大病を治すには魔術師の手を借りるか、錬金術師の調合する薬を服用しなければならない。魔術師に診てもらうにも薬を調合してもらうにも、貧民の手では届かない額の金を積まねばならなかった。そんな余裕など、ある筈も無い。正直な話を言うと、マルクもイシオも、カータが床に伏せった時点で或る程度の覚悟はしていたのだ。
せめて最期の晩餐くらいは良いものをと思ったのだが、パンは昨日で切らせ、折角買った酒瓶は祭りで割られてしまった。今更になって、貴族の男のした事が腹立たしくなり、全てが悔やまれる。
「貧乏はしたくないものだな」
「やめろよ」
イシオの零した愚痴があまりにも口惜しく、冷たく突っぱねてしまった。「済まん」とイシオは一言口にして、そのまま二人とも無言のまま夕食を済ませた。
水と、スープ状にした配給食を運び、ベッドサイドに置いた。荒い呼吸は少し落ち着いたようだが、カータはまだ汗を掻いている。マルクはイシオと共に、椅子をベッドの側に引いて薄暗がりの中で時間を潰した。
ややあって、カータの意識が戻る。口を開き、マルク達に話し掛けた。
「二人共、居るか」
居る、とイシオが答える。「具合はどう」
「不思議と、苦しくない」
そう答える顔は、確かにここ数ヶ月で一番すっきりした顔をしている。だが回復したのでない事は明らかで、顔色は依然として悪かった。「夢を見たよ」
「夢?」
唐突に不可思議な話を始める。「昔の夢だよ。私がまだ成人していない頃の話だ」
「開放宣言の時?」
「ああ。宣言がされるまで、私らは皆、希望を持っていた。それまで酷く虐げられていたトン族が、ようやく自由になって、素晴らしい暮らしが待ってるんだってな。でも、実際はお前達も知っての通りだ。数百年掛けて、ようやく成し得た成功は、何の意味も無かったのだよ。それからかな。みんな、変わろうとしなくなった。何もかも諦めて、同じ行動を毎日繰り返すだけ。子供までもそうだったのは、親の影響だったのかな。恐ろしいと思ったのは、貧民街の人間だけじゃなく中流階級層の人間まで、変化をしなくなった事だ」
「何で?」
「分からん。多分、儂らの努力の結果を目にしたからじゃないかね。権力を持つ人間に対しては、あまりにも無力だと気付かされた。成長して生活を変える事が、最終的に意味を持たない徒労に終わると、悟ってしまったんだろうな。とにかく、儂らの代で奴隷解放宣言がされて以降、その影響が作用したのか、魔術師達の発明もこの五十年間何も無い。生活に利便性がもたらされたという話も聞かない。寧ろ、精神的な意味では退廃している気がしてるんだよ、儂は」
訥々と、遠い思い出を懐かしむように話す。そんなカータの姿は、今にも消えそうだった。「マルク」
呼ばれ、何、と答える。顔を近付けると、カータはやや声を落として話す。
「儂らが不甲斐無かった所為で、イシオには迷惑を掛けた。お前には、特に。だが、時間は誰にも平等だ。……良い事も、悪い事も、忘れさせてくれる。もう一度、無駄だなんて思わずに、お前達若い代で、何かを成して欲しいのだよ……」
「何かって、何を」
「次こそ、後に続く者に希望を抱かせる足掛かりを……」
「また失敗したら?」
「もう一度、挑戦すればいい。何度でも裏切られるのが人間だが、挑戦した努力と結果を評価するのもまた、人間だ……」
声は、徐々に弱くなった。
「親父」
「じいちゃん」
答えは、無かった。
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