第一幕 無慈悲都市 - 2

 中央区は、上層市民、特に貴族階級の市民が居住可能な区画であり、それと同時に政府機関の中枢でもある。五十年前の、貧民街を中心として市民の間で起きた奴隷解放宣言以降、トン族の中にも才覚を表して商業的に成功する泡沫貴族もどきが何人か生まれたが、トン族であるという理由だけで、彼らはこの中央区内に住む事を許されない。シーリーンの様な由緒正しいリン族の、更に富裕層の貴族のみがその恩恵に授かる事を許される。

 シーリーンは自室の窓から、遥か頭上に領地を広げる総督府の階層を見上げていた。

 半径六キロという広大な縦穴の、その壁面の一角を居住区にして設計された彼女の家は、削岩して造成しただけの一般住居とは大きく異なっている。削り出された石の表面は滑らかに研磨され、天井には家紋のレリーフが装飾されていた。家具も、石を削り出して加工されたものではない。わざわざ木材から製造した特注品である。

 数々の調度品が部屋にあるが、そのどれか一つさえ、貧民の月の収入ではおいそれと手に入れる事が出来ない代物であった。仮に手に入れたとして、一週間と経過しない内に泥棒に奪われてしまうであろう事は火を見るよりも明らかだ。

 だがシーリーンは、そんな成功者の娘として生まれついた現状に満足していなかった。配給食ではない、天然の食材が食卓に上がる様な上流家庭に生まれたからと言ってそれを良しとはしないし、今以上の富や名声を勝ち取る事が人生における勝利であるとも考えていない。

 全ては、貧しき同胞の為。裏切りのトン族の廃滅を願って。

 シーリーンは顔を下ろし、今度は眼下に広がる普通階級民の住む居住層を観察した。翌日に控えた祭りの準備で、いつも以上に人々は慌ただしい。魔術燭台に照らされた薄暗い街で、民衆は浮かれていた。配給食の味に悩む市民も、明日ばかりは羽目を外して普通食を口にし、一杯以上の酒を飲み、楽しむのである。富裕層や貴族階級の人間が顔を出す事も、祭りの日であればそう奇特な事ではない。

 だが、彼女の場合は少し勝手が違う。ただ現状に甘え堕落するだけの他の貴族とは、志が違う。そんな自負があった。

 部屋の扉がノックされる。シーリーンは窓から目を離さず、毅然として問う。「誰だ」

「レイシャで御座います」

「入れ」

 言うと、侍女のレイシャが部屋に入り、スカートを軽く上げて一礼をした。「ラオ様がお待ちです」という言葉に、分かった、と短く返事をして、シーリーンはようやく窓から離れた。そんな彼女に、レイシャは恐る恐る、という風に言う。

「申し訳ありません、シーリーン様。お召し物は変えた方が宜しいかと……」

 言われて自分の服を見れば、『仕事』に使うズボンを履いたままだった。男が履くよりももっと細い、黒い布生地で裁てられた、伸縮性の高いズボンだ。口煩いラオの事だから、もっと女らしい服装をしろ、ときっと小言を言うに違い無い。

「そうね」

「お手伝いを……」

「いい。自分でやる」

 外でしばらく待つように言い、シーリーンはズボンと上着を脱いでクローゼットの中に仕舞い込み、室内着のドレスを適当に着た。室内着と言っても、それだけで市場の野菜が一週間分買える価値のあるものだ。

 装いなど、人の本質を表すのに意味は無いのに。そんな事を考えながら、着ていて心持ちの落ち着かないドレス姿で廊下へと出た。

 レイシャの持つ燭台の固形燃料の明かりが、石造りの回廊を妖しく照らす。その後に続き、シーリーンはラオが待つ部屋へと歩いた。

 今年十七になったばかりの彼女には、婚礼に必要な準備がどれ程時間を要するものなのか、まるで検討が付かない。ラオの婚礼がどの程度の規模になるのかは父からもまだ聞かされていないが、時間の掛かるものだろうか。

 無論、兄の婚礼の準備とあれば、シーリーンはその手伝いに喜んで協力するつもりである。しかし階下の修練場は、夕刻の鐘が鳴るまでしか開いていない。移動時間を考えると、長時間の拘束は望ましくなかった。

「どれくらい掛かりそうかしら」と率直に訊いてみた。しかし案の定、レイシャは申し訳なさそうに答える。

「さあ。ルー家のされる事に侍女風情が首を突っ込む事など、出来ません故」

 そうよね、と嘆息して、回廊の窓を見る。遠く離れた空中を、魚が一匹飛んでいた。魔術により生かされている、意思を持たない哀れな鉄の塊だ。何の為に存在しているのかさえも分からない。

 あんな、ただ流されるだけの人間にだけはなりたくない。そう強く思う。

 しかしシーリーンを取り巻く状況はその決意を揺るがしかねない。四百年前に全市統括の権限を掌握したリン族の特権階級は、それ以降ただ中央区内に所属する企業と総督府の規模を拡大する為の政策しか打ち出していない。それ以外を目的とした政策に関しては、一切関与しなくなっている。搾取する対象が居なくなっては、組織としての成長が出来なくなるからだ。

 堕落した為政は成長性も殺し、最早貴族階級以上の上層区域住民の目に、活力は無い。そのくせ、既に持っている資金や宝石を更に増やす事ばかりに執着している。輝きを失った野心はただの欲望に過ぎない。シーリーンは、そんな腐った心を持つ人間達に囲まれた環境で成長した。

 しかし、彼女が女である事が幸いした。どの貴族達も嫡男に目を掛けるばかりで、女はいついかなる場合でも、適当にあしらわれる。それは結局跡継ぎ、つまり自分自身の人形を作って、搾取する立場としての家名を現状維持させる事を目的としている。常に見下され続けて十七年を生きたシーリーンは、そんな貴族達とはまた違った視点から物事を考える癖が生まれたのだ。

 それを身近で唯一理解してくれたのが、レイシャだった。彼女は周囲を一度見回して、誰も居ない事を確認した上で首だけ後ろを向き、小声でシーリーンに囁く。

「また、自慢話を聞かされるのでしょう?」

「きっとそうね。面白い話が出たら、また教えてあげる」

 フフフ、と二人で小さく笑い合った。

 ラオの部屋の前に到着する。レイシャが戸を叩き、来訪を告げる。「入れ」とラオの許しが出た。レイシャは部屋の外で燭台を持って待つ事になる。シーリーンは扉を開け、部屋に入った。

 部屋は、シーリーンと同じく豪奢な作りをしているが、彼女の部屋よりも幾分か広い。調度品や家具も、より高級品だった。今までラオの部屋には数える程しか入った事はないが、いつ見てもその内装には感服する。

 ラオは婚礼の為の正装を身に着け、鏡台の前に立ち、胸を張って誇らし気に自分の姿に見入っていた。内心で辟易しつつも表情にはその感情を出さず、「兄様、お手伝い致しましょうか?」と訊いた。実際、何をどう手伝えばいいのかはまるで分かっていないのだが。ラオは答える。

「いい、いい。相談に乗ってくれればいいのだよ」

 リン族伝統の婚礼衣装に身を包んだラオは、その自身の姿に満足気だった。しかし武道による修練で体ばかり大きくなった兄の婚礼衣装など、不似合いにも程がある。炭鉱夫の姿の方がお似合いですよ、と言えば烈火の如く怒るだろうが。

 ラオの着ている赤い民族衣装は、婚礼などの祝い事に使われる特別なものだ。石造りの建造物ばかりのこの世界でその原色に近い赤は人目を引く。いい意味でも悪い意味でも。もう少し色合いは抑えたものがいいのではないかと提言した。が、ラオは「これでもいいと思うが」と何度も鏡を確認し、他の衣装を着ようとしない。付き人の男は、試着用に何着も揃えたにも関わらず一切他の衣服を見ようとしないラオの様子に、少々居心地悪そうにしていた。

 自己愛の塊の様な人だから、ポーズばかりで相手の助言に耳を傾けようとしない。最終的には、自分の意見を貫き通す。そういう男だという事は理解しているつもりだったが、こうした人生の大きな節目の行事でさえもこの調子で行動されると、シーリーンとしても協力しようという気が削がれてしまうし、何より完全に時間を無駄にしているようにしか思えなかった。これでは、婚礼の相手方も気の毒だ。

 と、そこまで考えて別の提案をした。

「お相手の方のご意見を聞かれてみては? そもそも衣装合わせの話し合いも、先方と持たれた方がいいでしょう」

 するとラオは渋い顔をして、「あれは、俺に合わせるだけだ」と口にした。大事な婚礼ではないのか、と首を傾げるシーリーンに、ラオは言う。

「相手家族は採掘請負企業最大手の頭取一家。今度の婚礼の意味とはつまり、総督府内での成功が約束されている貴族階級の我がルー家と手を組み、今後の両家の発展向上を願う事だ。我らルー家が花嫁をリードする事で立場の違いを親族や関係者の前で知らしめ、行く行くは家督となる為の権威を、儀式の段階で皆の意識に根付かせるのだよ。そんな場で花嫁が口を挟む余地など、おいそれと与えてやるものかよ」

 淡々とそう口にした。そこで初めて、ラオの為に進められていた縁談が単なる政略結婚に過ぎないのだと、シーリーンは思い知る。両親からも聞かされていない事実であったが、それはひとえに、彼女が家督を持たない少女だからだろう。

 世間知らずの乙女は乙女らしく、何も知らないまま男に付き従え、という事だ。それが今回の縁談の全容であり、両家の総意なのだ。

 そうでしたか、と平静な顔で応答した。

 しかしそれ以降のラオの話も、それにどう答えたかも覚えていない。



 意味の無い質問をただ聞き流すだけの時間が終わり、シーリーンはラオの部屋を後にする。修練場が閉まるまで時間はあるだろうかと考えたが、どうにも気持ちが動かない。どうなさいますか、と問うレイシャに、取り敢えず自室へ行くと答えた。ドレス姿のままでは、ろくな運動も出来ない。

 彼女の雰囲気から何かを察したのか、訝しみながらも敢えて詮索はせず、レイシャは燭台に明かりを灯し、来た道を戻る。シーリーンもゆっくりと後に続いた。

 しばし無言が続いたが、やがて沈黙に耐えかねてシーリーンが訊いた。

「レイシャ。貴女、結婚していたかしら」

 突然の質問に面食らったのか、少し慌ててレイシャは答える。「え、ええ」

「もう、どれ位になるの」

「嫁入りは十七の時だったので、もう十四年になりますね」

 十七、という言葉に、シーリーンの鼓動が早くなる。目の前に居る侍女は、自分と同じ年齢の頃に伴侶を見付け、結ばれたのだ。今の自分が同じ道を辿る姿は、はっきり言うと想像が出来ない。

「お見合いで?」

 訊くと、ええ、と返事が返ってくる。「どうしてそんな事をお尋ねに?」

 その問いには答えず、シーリーンは彼女の一番知りたかった事を訊いた。

「ちゃんと、ご主人には愛してもらえてるの?」

 するとレイシャは足を止めて驚きながら振り返る。だがすぐに相好を崩し、「ええ!」と力強く答えた。「主人は二十階下の、従兄弟様のお世話をしております。私以上に疲れて部屋に戻ってくるんですが、お陰でご飯は残さず食べてくれるんです。美味しいって」

「そう。……楽しい?」

「ええ、とても」

 貴女は愛してるの、とは訊かなかった。訊くまでもない事だ。

 本当にどうされたんですか、とようやくシーリーンの具合を尋ねてきたレイシャに、何でもないわ、と答えて再び廊下を歩いた。

 きっとラオの相手は、レイシャの様に幸せにはならない。彼好みの服を着せられ、食べ物を与えられ、ただ日々を一人で過ごすだけの、人形の様な生活が待ち構えている事だろう。それで皆が幸福になる。彼女以外の皆が。

 家名を汚す事は出来ないと、父はシーリーンに自由な恋愛を許さなかった。貴族の家に於いて娘とは、到底一家の長を任せられない無能であると同時に、家名や地位の栄枯盛衰の鍵を握る道具だ。男に従い、子を産む機能さえあればそれでいいというわけである。

 無駄な悩みの種を増やしたくないという理由で、両親はシーリーンに愛を教えていない。それ故に、シーリーンも本当の意味で誰かを愛する方法を知らない。

 だが彼女は、ただ従うだけの人形ではなかった。ルー家の血を引く者で彼女だけが、この婚礼の禍々しさをはっきりと感じ取っている。

 酷い吐き気がした。目を瞑るだけで、下卑た野心だけを鈍く光らせる、活力の無い兄の瞳が見える。父の瞳が、母の瞳が、魔術の明かりも届かない暗い闇からシーリーンを睨んでいた。

 ブルリ、と一度だけ体を震わせてから自分の頬を叩き、意識をはっきりさせる。

 私に出来る事は決まっている。

 リン族による、リン族の為の政治をする事。彼らを貧困から救う事。その為に、特権階級層の定めた法律に反してでも改革を進める事。

 その為にも自分は、ただの貴族の一人で歩みを止めてはならないのだ。

 自室に戻り、ドレスをすぐさま脱いでベッドの上へ放り出す。先程仕舞った、体の線が出る様な細身のズボンと上着を着て、ボタンを留める。それは、シーリーンの仕事服。加えて、クローゼットの棚の奥に隠した仕掛け箱を取り出し、丁寧に開く。

 入っていたのは、朱と黒で彩られた、口から上を隠す漆器製の仮面だった。

 遠くの街灯りから窓越しに差し込む仄かな光の中で、仮面は美しく照らされる。静かにその仮面を見つめながら、シーリーンは改めて決意を固めた。

 トン族への恨みは、未だ深い。連中の様な、誰かを裏切る様な真似は決して許さない。

 そんな人間には、決してならない。


            *


 リン族の人間がどれだけ悪逆非道の限りを尽くしたか、イシオは、父カータから嫌という程聞かされた。リン族は、総督府出身ではないただの平民の中にさえも、権威主義に生きる者が多いきらいがある。主君や家長の命令は絶対で、それに逆らう事は無い。他方、自分よりも立場が下、若しくは一方的に下だと判断した相手に対しては容赦が無いのだ。

 幾ら民主主義がその権威を増したところで、その民族的性質が根本から変化する事はありえない。事実、奴隷解放宣言がカータの代で行われてから今日に至るまで、トン族の社会的な立ち位置は未だ変わっていない。

 貧民街に住む市民の殆どはトン族であり、この縦穴の中では一番下の階層でひしめき合いながら暮らしている。十キロ上にある、中級市民の為の繁華街階層に身を置く事の出来たトン族など、両手で数える程しかいない筈だ。

 不平等。

 イシオは、その言葉を嫌う。そのくせリン族に対しては今よりも酷い暮らしをさせてやってもいい程だ、と考えている辺り、その思想は矛盾していた。とどのつまり、それはマルクが推測していた通り、ただ自分の不満を民族的思想に置き換えて大義名分を得ようとしているに過ぎない。

 しかし同時に、その思想こそが、この貧民街に生きる人間達が唯一、『今日』ではなく『明日』を目指す為の理由だった。

 しかして、自分から何か大きな行動を起こす事はしない。不平不満を口にして、酒で気を紛らわせ、一日が終わるのだ。

 政府から推奨されていない、消灯時間後の徘徊をして魚の残骸漂着地点へと向かったのは、彼なりのささやかな反抗であった。剥ぎ取った魚の残骸は既に加工された後のものであると商人に足元を見られ、金属の買い取り値も大した額にはならなかった。それでも、イシオはそれを売り、更に魚を解体し、日々の糧としなければならない。

 ルーペを置き、ううん、と背を伸ばす。滑車の修理は、今日だけであと五件分も溜まっている。まだもう少し時間が掛かりそうだった。

 中央区の魔術工房まで持っていけばすぐに錆も落とせるし、代替部品も簡単に揃うのだが、この貧民街でそんな手間と金の掛かる事をする者は居ない。だからこそイシオのカラクリ技師としての稼ぎが生まれるわけだ。しかし、決して楽な仕事ではなかった。かと言って今以上の料金を請求しても、この街に住む人間には経済的な負担が大きくなってしまう。

 懐中時計も早く完成させて、仕入れなければならないというのに。イシオは凝った肩をほぐしながら、先の見えない作業に途方に暮れる。

 イシオの持っている時計は、もう二百年近く使っているらしい。父、カータの祖父の祖父の、更に祖父が使っていたと彼から聞かされたが、正直な話、それよりも遥か昔から用いられてきたのではないか、と考えていた。

 今イシオが新しく時計を作る事が出来るのは、彼の持つその見本があるからこそだ。しかしその見本を見ながらでさえ、部品を集める事もそれを加工する事も、そしてただ単純に組み合わせる事さえも満足に出来ない。結果として、形は遥かに不恰好ながらもどうにか実用に耐えそうな出来のものが、半年に一度出来るか出来ないか、という頻度で仕上がるに過ぎない。

 それでも、非常に珍しいという事で商人も高額で買い取ってくれる。「客が買って行く際に数字の読み方から使い方から全て教えなければならないのは面倒だが」と笑いながら話していた商人もまた、懐中時計を肌身離さず持って、それを知らぬ者に自慢するのだ。

 針が七を差したら、一日の始まりの鐘が鳴る。次に十二を差したら休みの鐘、次に六を差したら仕事の終わりを告げる鐘、再び九を差して消灯の鐘が鳴ったら、次に鐘が鳴るのは次の七。一日一回、発条を巻く。

 複雑な機構だった。リン族が魔術による支配権を掌握してこの世界を統治した、約四百年昔から貧困に喘いでいたトン族。そんな自分達の先祖が、この機械をゼロから発明出来たとは思えなかった。

 我が家の男達は代々、親から子へとカラクリ技師としての技術を教え込んできたという。カータも嘗ては幾つもこのカラクリ時計を作って来たらしい。だがその話が事実だったとしても、それが普及したという話は未だに聞かない。値段の面から言っても購買層は中産階級以上であり、そんな地位の人間が、わざわざ下層民の古工房へと修理を頼みにくる事も無いからだ。生産頻度の所為で認知度も高くはない為、この文字盤の意味を理解する人間はまだ皆無に近い。息子であるマルクでさえ、二十五になって読み方を知らない。

 そうだ、マルクだ。伝統の技術を教え込もうとしたのだが、彼は何処か自分とは違う感性を持っている。イシオはそう考えていた。

 せめて技術さえ教え込む事が出来れば作業も捗るというのだが、彼は親であるイシオの技術を利用し、より稼ぎのいい鉱夫へと仕事を移してしまったのだ。

 悩んでも仕方の無い事なのだが、せめてこうであれば、ああであれば、と後悔した。そうしてようやく、仕事休みの鐘が鳴る。

 腰を下ろして、暗い部屋の中を歩いた。せめて、昨日買ったパンを贅沢に食べて鬱憤を晴らそうではないか、と少し心を弾ませる。だが、マルクの姿が無い。休みだからと、まだ寝ているのだろうか。そう思い、パンを二つに割って、片方を水に入れたコップと共にカータの部屋へと持って行く。

「親父。マルクが居ないから、今の内に食ってしまおう」

 ハハハ、と笑うイシオに、寝たきりのカータは間延びした声で答える。

「ああ? あいつなら、街の祭りに出掛けると、始まりの鐘が鳴る頃、言っておったが」

 その言葉を聞いて、イシオは脱力した。

「リン族の祭りに? 繁華街へ?」

「おう」

 やはり、あいつは頭がおかしい。


            *


 作業着ではない、持っている中では一番綺麗な服を着た。行水と歯磨きは日課だったが、念の為にと口臭まで確かめ、髭も全て剃った。

 それでも、貧民街の出であるという事は何となく悟られてしまうものらしい。マルクは繁華街入り口から待ち合わせ場所まで歩く間に、道行く人達に何度か訝しげな目で見られた。炭鉱場統合本部がそう遠くない場所にあるのだから、貧民が繁華街区画に来る事も珍しくはない筈だ。しかし今日は祭りという事もあり、普段よりも人がずっと多い。場違いな人間が表通りを歩いている事など我慢ならない、という者も多いのだろう。何も咎められる様な事はしていないのに、警務官の姿を見る度に、問題に巻き込まれないようにと避けるのは、あまりにも滑稽な気がしてならなかった。

 マルクは、やはり失敗したな、と思う。せめて人並みに祭りを楽しめれば、と残念に思い、通りの壁に寄りかかって行き交う人々を観察した。

 子連れの夫婦、恋人、小遣いを握り締めて走る子供達。皆、笑っている。だが、大人達はそうでもない。何処か感じる無機質さは、寧ろ下層階級層民の表情にも似ている。

 不思議な光景だった。

 誰も彼もが、目から精気を無くしている。そして、誰もそれを疑問に思わないのだ。

 出店通り入り口まで来る。が、まだ鐘は鳴っていない。タウロが来るまではまだ時間があるようだ。それにしてもわざわざ相談とは何だろう、と考えてみた。そしてふと、そう言えば待ち合わせに繁華街を指定したのはタウロの方だったと思い出す。彼も勿論、今日の祭りの事は知っていた筈だ。トン族である自分達がわざわざこの祭りに顔を出しに行って話をするよりは、どちらかの家に出向いて安酒を飲みながらの方が話はし易いのではなかったか、と首を傾げる。

 それとも、どちらの家族にも聞かれると困る話題なのだろうか。

 と、少し離れた人混みから小さなざわめきが起こる。混乱と呼ぶ程ではないが、ちょっとした騒動の様な。しばらくして、割れた人波の向こうに見える姿にマルクも納得した。平民よりも余程身なりのいい、何処か威圧的な態度を見せる男達が、警護らしい警務官に囲まれて道を闊歩していたのだ。人混みは、その警務官達に押しのけられて迷惑そうな顔をしている。貴族か、或いは上級市民がわざわざやってきたのだ。

 祭りの日にわざわざ足を運ばなくとも、平民区画ではお目に掛かれない高級な物を自由気ままに使えるというのに。ご苦労な事だ。と心の中で感想を呟いていると、タウロが人混みから顔を出し、「こっち!」と手招きをした。これ幸いと、マルクは走ってその場を後にした。同じく小綺麗な身なりをしたタウロと共に出店通りに入り、道を歩いた。

「やっぱり、どっちかの家で話した方が良かったかな」

 試しにそう言ってみると、タウロは歯切れ悪く、「寧ろ困る」と、マルクが予想した通りの事を言った。改めて理由を問うと、タウロは困った顔をして笑いながら店を指差す。

「取り敢えず、飯を食おう」

 昨日推測した様な、懐事情による悩みがある様子ではない。構わない、と答えて、パンに上質な配給食と野菜をサンドしたものを、二人で注文する。

 飯を待っている間に、祭りの行進が始まった。リン族の民芸衣装を着込んだ曲芸師達がゆっくりと、様々な技を見せながら大通りを練り歩く。魔術燭台に照らされたその姿は、その薄暗さや陰影の効果で、美しくも妖しい魅力を放っていた。

 通りの歓声が一層大きくなる中で、まるでその瞬間を見計らっていたかの様にタウロは言った。

「実は、難しい問題を抱えてるんだ」

「どんな?」

 パンを齧り、曲芸師の行進を眺めながら問う。すると、タウロは一拍置いて答える。

「リン族の子と、恋仲になった」

 その言葉を聞き、噎せる。そんなマルクの様子を見て不満げに「何だよ、駄目なのか」とタウロは文句を言った。

「駄目じゃない、駄目じゃない。おめでとう」

 民族間の揉め事はまだ多いが、友情関係や恋人関係にまで民族事情や肩書きを持ち出して差別する程、マルクは落ちぶれてはいない。「突然で、驚いただけだよ」

「ありがとう」

 と、タウロは笑みを零す。その顔を見て、ここ数ヶ月特に機嫌がいいのはこの事だったのか、と合点した。訊けば、彼から告白したのもそれくらいの時期だと言う。

「それで、問題って?」

「一つは、勿論親の事だ」

「どっちの」

「両方さ」

 だろうな、と相槌を打つ。特にタウロが貧民街の出である、というのはかなりの弱みだろう。相手の両親は、娘はなるべくいい家へ嫁に出したいだろうし、タウロの親は、貧民であるなら同族・同都市の娘をもらうべきだと提案するだろう。

 加えて、社会的な立ち位置が非常に危うくなる可能性が高い。トン族もリン族も、お互いがお互いを憎んでいる保守派の方が圧倒的多数な上、その声も大きい。どちらの街の何処に住もうと、双方から嫌悪の目で見られて生活する事を余儀無くされる事だろう。

「『喜びの壁』でも探すつもりか? 何処に住もうと言うんだ」

 ……それはマルクら若い世代が共有する場所の名前だった。彼らの中でも特に自由主義的思想を持つ人間、更に言えば、中央区総督府の庇護下で暮らすのが困難になった者が向かう場所である。社会の爪弾きに遭い、救いを求めた弱者に用意された、あえかな最後の希望の光。それが、『喜びの壁』だ。

 つまり今のタウロの様に、他民族の異性と結ばれるも、居住区での生活が困難になった者、または、少数ではあるが同じ性別間で恋仲になっている者達の為に残された最後の地である。縦穴壁面の何処かに、数百年前に打ち棄てられた住居区画を利用しているという噂が、マルク達の世代で囁かれている。

 だが、この話はあくまで噂でしかない。しかも、信憑性は低い。何故なら、喜びの壁が実在したとして、生活手段が無いからだ。政府の庇護に外れた住居区画に住んでいる為、配給食の庇護は無い。当然、中流階級層やその繁華街区域で職など得られず、鉱夫の登録さえも出来ない。具体的な生活手段が存在しないのだ。

 勿論、マルクも本気で口にしたわけではない。そんな幻のよすがではなく、曖昧にでもいいから解決策を考えているのだろうな、と念を入れたのである。だがタウロは言った。

「喜びの壁でもいい。それにすがりたい気分だ」

「おい。わざわざリン族の子を好きになる覚悟があるなら、駆け落ちして何処かに移り住む覚悟くらい出来てるんじゃないのか?」

「よくもそんな事が言えるな!」

 突然、タウロの声は大きくなった。「そんな環境で、あの子が幸せに暮らせるわけないだろう!」

 言われて、マルクは黙った。他人を思いやれないのは、俺も同じだ。

 済まない、と謝ってから、「僕も悪かった」とタウロも呟いた。そして続ける。

「駄目なんだ。ただの駆け落ちじゃ不安は消えない。もう一つの問題はそれなんだよ」

 行進する曲芸師とそれの後を追う幸せそうな人々の顔を遠い目で見て、タウロは吐く様に言った。「ただ逃げるだけじゃ、すぐに捕まる……」

「それ程の事か?」

「それ程の事だよ。……その子、企業の娘なんだよ」

 再び噎せる。今度は、先程よりも大きなパンの欠片が喉に詰まった。だが、そこまで聞いてようやく納得した。もしも駆け落ちという強硬策を執る場合、文字通り追われ続ける生活を送らねばならないのだ。

 確かに、マルクかタウロの家に話を持っていったところで話を聞かれれば、協力などはまず望めないだろう。誰もが祭りに目と心を奪われる喧騒の中でしか出来ない相談だった。しかし話を持ちかけられたマルクも、この問題に解決策を講じろというのは至難の技であった。

「よくも知り合えたものだな」

「ああ、運命的だったよ。一目見た時に、この人だって思ったんだ! 分かるかい? 向こうも感じるものがあったらしくて……」

 と、曲芸師の行進を眺めながら、マルクはサンドを食べ終えるまでしばらくの間、タウロの惚気話に付き合う事になった。



 安い酒を買い、マルクは通りを後にする。

 タウロの相談については、何にせよすぐに解決策を考える事は出来ない、少し時間が欲しい、と断る事で一区切りつけた。勿論だと答え、タウロは足早に人混みを去っていく。外出する際に常に付き従っている娘の侍女は彼女の味方で、口を利いてしばらく外してもらい、密かに出会う約束をしているのだと言った。

 貧民の出であるという根本的な問題を無視さえすれば、タウロは結婚相手としては申し分の無い男だと、マルク自身も考えている。性格は一本気だし、荒みきっている筈の底辺社会で心を折らず、ただ愚直に未来を見据えて生きている。それをただ楽観的だと一笑にふす事も可能だが、タウロの明るさがそれを許さない。卑屈に後ろ向きに物事を考えている自分が恥ずかしくなるのだ。

 だが恐らく、この縦穴をねぐらに生きる社会構造は、彼という個人を観察しない。貧富の差は階層分けという居住環境によって目に見える形で作られ、そこから生まれる権威に対しては誰もが無力だ。生まれながらにして人はその階層をねぐらにしてしか生きられず、這い上がる事は不可能なのだと、根拠の無い先入観で可能性を潰される。

 個人の能力ではなく、組織としての協調性が要求される。それがこの縦穴でのルール。

 そのルールの上位に立っている、中央区出身の男の声が、喧騒の中で喧しく響く。休みの鐘が鳴る前、警務官に道を開けさせた横柄な男だ。あまりにも場違いなその声に、マルクはつい足を止めて様子を伺ってしまう。男は耳障りながなり声を上げて、警務官や周囲の一般人に掴み掛かっていた。

「私の! 私の財布は何処だ! さっき飯代を払った時は確かにあったぞ、お前が取ったのか! それともお前か!」

 充分な食料を口にする習慣の無いこの階層で何故こうも、という程度に太った貴族風の男は、目の色を変えて叫ぶ。他人のポケットや鞄を引っくり返し、それを自分のものだと主張せんばかりの勢いだった。

 絡まれたら敵わないと、マルクは酒の入った瓶の口紐をしっかり手に巻きつけ、その場を離れようとした。と、その足に誰かがぶつかる。視線を下に向ければ、子供が二人、怯えた顔でマルクを見上げている。壁際を歩いて目立たぬ様にしようとしたマルクが、二人の体を蹴ってしまったのだ。身なりですぐ、中流階級層の子供でない事は分かった。マルクと同じ、下の階層に住む貧民の子だ。しかしその顔立ちの特徴から見ると、リン族の血を引いた子供に見えた。その子供達が、揃って怯えた顔をしている。

 チラリ、と二十メートル先で騒ぎを起こしている貴族の男の方を見る。

「度胸あるな、お前ら」

 少しだけ腰を屈め、小声で呟いた。褒めたつもりだったが、子供達は彼に懇願する。まだ声変わりも始まっていない様な、幼い声だ。

「違う、僕らじゃない。『赤い鷹』の人達が僕らの為に……」

「赤い鷹ってのぁ、何だ」

 そう尋ねるも、「おい」と遠くから掛けられた声で顔を上げる。貴族の男を囲む警務官が一人、マルクを睨みつけていた。「そこのトン族の男、その小僧供と一緒に居ろ、動くなよ!」

 やはり手慣れた連中は、風体だけで何となく悟ってしまうものらしい。叫んだ警務官は数人の仲間を引き連れ、人混みを縫って近付いてくる。これで、マルクか子供達、或いは両方が面倒毎に巻き込まれる事は確定的となってしまった。かと言って、子供を犠牲にして逃げるのも寝覚めが悪い。

 子供達は、一層怯えた声で訊く。

「お兄ちゃん、トンの人?」

「だったら何だい。親から、近付くなとでも言われてるのか?」

「焼いた子供の肉が大好物だって、お母さんが」

 酷いにも程がある、と吐き捨て、マルクは子供達の手を引いて警務官とは逆方向へ逃げた。背後から声がする。人混みの中、子供二人を連れては長時間の逃走は出来ない。

 仕方無い、と愚痴を零し、マルクは子供を裏路地へと連れて行く。人波が途切れて走りやすくなったが、あとを追ってくる警務官もそれは同じ事である。彼は、すぐ近くのゴミ溜めの蓋を開けた。子供二人が隠れる程度のスペースはありそうだ。

「ほら。騒ぐなよ」

 有無を言わせず、マルクは子供達をゴミ籠の中に押し込んだ。そうして、自分はその場から更に少しだけ歩いて離れてから、酒瓶の蓋を開け、楽な姿勢で酒を飲み始めた。

 十秒と経たず、警務官が三人、更に遅れて残りの警務官と貴族の男がやってきて、建物の壁に背を預けてくつろぐマルクを取り囲んだ。男が、ハンカチで汗を拭きながら詰問する。「貧乏人。餓鬼は何処だ」

「仕事は終わったんで逃がしちまったよ」

 心臓は早鐘の様に脈を打っていたが、努めて平静な……と言うよりはおちゃらけた態度を取り繕って、マルクは答えた。男はそれを聞いて、食って掛かる。恐怖をかろうじて押し殺し、マルクは饒舌に語った。

「今日の餓鬼の仕事は終わったって言ってんだよ。その日の上がり分から幾らか俺が頂いて、残りは餓鬼と貧民の間で分ける。半日と掛からず百人くらいに分け前が行くから、盗まれた奴も探しようが無い、って訳」

 へへへ、ととぼけて笑った瞬間、下顎に衝撃が走った。鈍い痛みが顎を中心に広がっていき、やがて目眩がしてその場に崩れ落ちる。警務官の警棒が顎を叩いたのだと気付くのに、少し時間を要した。男は怒りを露わにし、怒鳴り散らす。

「私の貴重な金を! そんな安酒に変えやがったのか、この屑め!」

 冗談じゃない俺の金で買ったんだ、と言ってやりたいのを堪え、沈黙を貫いた。男は隣に立つ警務官から警棒を奪い取り、何度もマルクの体を打ち据える。

 骨が軋み、折れそうになる。何で、こんなどうでもいい事で怪我してるんだろう。そんな事を考え始め、現実の痛みから少しでも気を紛らわせようとした。

 頭部に警棒の一撃が入って気を失い掛けたその時、声がした。

「止めよ」

 女の声だった。打撃が止む。蹲るマルクから顔を離し、男達は背後に立つ女を見る。マルクも、冷たい石造りの床に顔を突っ伏しつつもその姿を盗み見た。

 黒い長髪を後ろで一つに纏めた、黒い服の女だった。ズボンを履いているが、細身の服が女性特有の曲線をはっきりと表している。黒い服には、赤い刺繍で不可思議な曲線の文様が意匠されている。

 彼女の顔の、上半分を隠す仮面も同様の意匠で彩られている。その唇には、やはり同様に紅が引かれていた。仮面から覗く視線は鋭く、男達を威嚇している。

「赤い鷹が……」

 男が、吐き捨てる様に言った。「総督府の隷属が、祝いの日に何の用だ」

 そんな男にも物怖じせず、女は冷たい声で言い放った。

「いつもの事。総統の密命だ。……お前の名前は?」

「何だと?」

「名前を言え。お前の言う総督府の隷属が、止めろと言ったのだ。私の言葉に耳を貸せずに任務を妨害したとあっては、報告書にも具体的な名前を書かねばならぬ」

 すると男は押し黙り、何も言えなくなる。女はその様子を見て意地悪く笑い、続けた。「リン族の貴族として、はした金をくれてやる程の度量を見せつければ、逆にそれに口を聞いてやってもいいぞ」

「この阿婆擦れ……」と、腹に据えかねたらしい警務官が一人、食って掛かろうとする。が、男は瞬く間にそれを打ち据え、叱責した。

「慎め、愚鈍が! ……行くぞ」

 女のその言葉に従う様に、男は湧き上がる怒りを堪え、倒れこむマルクに背を見せ、表通りへと歩き去って行く。警務官達も、事情が飲み込めないままそれに追従した。

 その姿が人混みに消え去り、しばらく経ってから、女は息をついて肩の力を抜く様子を見せる。そして倒れるマルクには目もくれず、自己嫌悪の言葉をブツブツと呟く女は、近くのゴミ溜めの蓋を開いた。恐怖に体を震わせていた二人の子供は、その女の姿を見るなりゴミ溜めから飛び出し、抱き付いた。「鷹の姉ちゃん!」

「迷惑を掛けてしまったね」と、先程とは打って変わった柔らかい声で女は言い、子供達の頭を順に撫でる。決して清潔とは言えないその髪の毛を、とても慈しむ様に。そうしてから子供達を下ろし、彼らの懐から財布を幾つか抜き出し、一度中を改めた。その中には勿論、先程の男の物もある事だろう。ようやく上体だけ起こして壁に背を預けたマルクは、ぼんやりとする視界でその光景を見ていた。少女と呼んでもいいであろう年頃の女は、財布から紙幣を殆ど取り出すと、一割程度を自分の懐に入れ、残りを子供達に差し出した。

「今週の分だ。祭りだったから、今日は多かった。また皆で分けなさい」

 慣れた手付きでその財布を全て受け取った子供達は、しかしすぐに去らず、女の手を引いてマルクの方へと引っ張った。マルクが見上げると女は、仮面越しでも分かる程の嫌悪の表情を見せてくる。

「この兄ちゃん、怪我酷いよ」

 子供の一方が言う。しかし女は、たった今まで彼らに掛けていた柔らかい声音は何処へやら、先程の男に向けたものよりも更に冷たい声で吐き捨てる。「だから、どうした」

「助けてあげてよ」

「こんなトン族の男など、知った事か。お前達を助けたのを見たから、命だけは守ってやったんだ。後にどうなろうと関係無い。お前達こそ、何故構う。こいつはトン族だぞ」

 淡々と吐き出される敵意の言葉の数々は、しかしたった一つの言葉で意味を失った。子供は答える。

「でも、僕らを助けてくれた」

 今度は女の方が、先程の男同様、押し黙って従う番だった。それでも大きな舌打ちを一つしてから、腰に巻きつけた小さな鞄の中から小さな瓶詰め容器を取り出し、マルクの方へと放った。

「精々塗っておけ」

「ん。……ありがとう」

 彼女の態度を責めても意味が無いし、もう慣れた事だった。だから単に礼を言うに留めて、マルクは有り難く、切れた額の傷口に薬を塗った。どの様に作っているか彼にはまるで予測も出来ないが、その効果は高い。錬金術か、魔術による生成物だろうか。

 念の為にと、打撲痕にも塗っておく。そうしてから瓶の蓋を閉め、女に返そうとした。が、彼女は仮面の下から嫌悪の眼差しでマルクを射抜く。

「トン族の手で汚れた瓶など要らん。勝手に持っていけ」

「そんなに俺達を嫌ってるのに、何故助けた?」

「お前こそ、何故この子達を助けた」

「親の仇でもあるまいに、子供が酷い目に遭わないよう助ける事に理由が要るのか。憎んでる相手に手を貸す事にこそ理由が要るだろう」

 と、呆れながら言ってやった。女は答えなかった。ぎり、と歯を食いしばって、踵を返す。「さっさと帰れ」と捨て台詞を残して彼女は跳躍し、狭い路地の壁と壁を交互に蹴って上昇し、頭上に広がる闇に紛れてすぐに屋根へと姿を消した。

「……あの女、誰だい」

 魔術燭台の明かりも届かないくらい頭上を呆けて見上げたまま、マルクは子供達に訊いた。「赤い鷹の人」と短く少年は答える。「時々、リンの金持ちから金を取って、僕らにくれるんだ。手助けもしてくれる。その他の事は、知らない」

 じゃああいつの所為で俺は怪我をしたって事だ、と呆れて、顔を子供達の方に向けてもう一つ訊いた。

「鷹ってのは何だ」

「魚みたいに、飛ぶ生き物だって。御伽噺の生き物だって、あの姉ちゃんが言ってた」

 マルクは、その返答を鼻で笑って返す。

 魚以外に飛べる生き物がこの世にあってたまるものか、と。



 割れた酒瓶はそのまま捨てて、痛む体を引きずりながら軌道船に乗る。魔術師の耳障りな呪文を聞きながら、手すりを掴んで体を休ませ、頭上を見上げた。およそ貧民街の人間にはまるで無縁の世界が、上の世界には広がっている。それを羨ましいとは思わなかったが、今の生活とは違う、明日への夢が広がった別次元の社会構造が存在するのだと、改めて思い知った。

 今の生活を手放して、せめて明日を怯えずに生活が出来るのであれば、それ以上は何も望まない。それ以外の夢は、自分で見付けて叶えてみよう。マルクはただ、そんな豊かな環境だけを羨んだ。それ以外は要らない。必要無い。誰も苦しまない生活が出来れば、と願う。本当に、ただそれだけの細やかな望みだった。

 だが、その願いを揺るがす事が起きた。起きてしまった。

「マルク!」

 這々の体で家に帰り着いて扉を開けるた瞬間の、イシオの第一声が、マルクの体を震わせる。「親父が!」


            *

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