第一幕 無慈悲都市 - 1
遠く離れた上層都市から、鐘の音が聞こえる。一日の始まりを告げる鐘の音だ。マルクはベッドからゆっくりと体を起こし、目をこする。手探りでマッチを探し、枕元の蝋に火を灯した。
窓を開けて外を見下ろすと、魔術燭台の明かりは既に灯されており、明々と街を照らしている。彼同様、鐘の音で目を覚ました住民が殆どなのだろう。まだ通りに人影は無かった。
作業着に着替えて、隣のベッドを見る。イシオは毛布にくるまって、まだいびきをかいていた。ベッドの足を蹴飛ばして、強引に彼を起こす。
「始まりの時間だよ」
「ああ、クソ。もう少し寝かせろ」
「駄目だよ。仕事溜まってるんだろ」
呆れて言いながら、マルクは炊事場へ向かう。床下の狭い貯蔵庫へと続く跳ね蓋を開けて、必要な配給食を三人分取り出した。内、一つをわざわざ陶器に空け、正確に測量した水を少量注ぐ。水と配給食をスプーンで潰して混ぜている頃にようやく、イシオがあくびをしながらリビングに来た。室内は、まだマルクの持ってきた燭台の明かり一つしかなかった為非常に暗く、イシオは何度かテーブルに足をぶつけた。
「私のは何処だ」
「テーブルにあるよ」
冷たく言って、マルクはペースト状になった配給食の入った器とスプーンを、もう一つの部屋へと持っていく。
マルク達の部屋とは炊事場を挟んで反対にある小部屋の扉を、ノックして開く。すっかり頰の痩せこけた初老の男が一人、ベッドに横たわって眠っている。
「じいちゃん、飯だよ」
声を掛けると、目を閉じたまま祖父、カータは「ああ」と力無く答えた。トイレは平気かと尋ねると、やはり同じ風な答えが返って来るだけだ。
歳の割に多い顔の皺は老齢の弱々しさを見る者に感じさせ、間延びした言葉尻の一つ一つが、気に障る。だがそんな小さな不快感は顔の表に出さず、ただ淡々と一日の始めの挨拶を交わした。昨晩の食器を引き下げて、またね、と声を掛けて部屋を出た。
……家族の事は、嫌いではない。
父親は、貧民街では唯一であろうカラクリ技師としての腕を生かして修理屋なども営んでいる。ほぼ独占市場とも言える状況であり、貧民街の市民からは一定の信頼を得ているし、一般鉱夫よりも稼ぎは多い筈だ。
そんな一家を支える父親だが、それでも、父の抱くリン族への強い敵対心に関してマルクは懐疑的だった。祖父の幼少時代に、マルクらトン族の奴隷制度からの解放宣言が全市民に下されたが、奴隷という階級が消えて形だけの市民権が与えられただけで、社会的な扱いはまだ圧倒的に低い。祖父であるカータの事も、彼に育てられたイシオがその事に不満を抱く気持ちも理解は出来る。だが、鉱夫として労働区域に稼ぎに出て多くの人間と接しているマルクにとっては、全てのリン族が憎むべき敵なのではないと考えている。だからこそ、父と祖父との意識の違いに齟齬が生じている。
イシオは工房に籠りきりで、トン族相手にしか客商売をしない。世間を見ていない。働く事も家から出る事も無くなった祖父に関しては、最早何を考えているのかさえも良く分からない事が多いのだ。
幼少の頃から、父がリン族に対する威圧的な陰口を叩いて鬱憤を晴らしている様子を見るのが苦しかった。まだ母が生きていた頃、彼女も似た様な気持ちだったのだろう、明るい顔をしていなかった事は覚えている。
育ててくれた事に関しては感謝しているが、人としての愛情を感じた事は無い様に思う。特に鉱夫として働くようになってからは、いつでも自立して生きていけるのだ、という意識が日に日に強くなっている。
味気無い配給食を口に運び、早々に食事を終えた。味に不平を言いながらまだ食事を続けるイシオに、今日は遅くなる、と一言だけ告げる。「友達と飲んで来るよ」
「パンはどうするんだ。お前が買って来る番だろう」
「今度二回当番するから、自分で行って。大金を持って飲み歩くわけにもいかないだろ」
適当に言い放ち、荷物を担いで小走りに家を出た。後ろから掛かる声は、聞こえなかった事にした。
彼が家を出るのとタイミングを同じくして、家から出て来る労働者も増える。皆が食事を済ませ、寝食を済ませる以外に用途の無い石造りの集合住宅建造物から、繁華街へと歩いていく。
皆、一様に暗い顔をしている。トン族の最下層民として虐げられ続け、明日もまた一日つつがなく過ごせるという確かな保証も無いまま、その日を生きる為に働く。他人を気にしたり構ったりする余裕など、有ろう筈も無い。
他人に対して深い愛情を抱けぬのは、何もマルクに限った話ではないのだ。
心の中で言い訳をして、マルクは人の流れに従って、ただ道を歩いた。
一度、魔術師の駆動する軌道船に乗り、繁華街のある上域階層区まで上がる。そこから三区画も先へ歩いてようやく、炭鉱場統合本部に辿り着いた。
高さ十メートル以上はあろうかという本部の巨大なロビーは、燭台街灯が道を照らす外よりもずっと明るかった。魔力貯蓄槽から送られる魔力により燃える特別な炎は、ロビーを隅々まで十分に照らしている。いつも通り、そこは人でごった返していた。
マルクの様な鉱夫達が、このロビーに居る人間の七割を占めていた。身なりも皆一様に薄汚れている。洗練された美しい造形のこの建築物内部では場違いな風体にも見えるが、その数の多さ故にその姿こそがこの施設での正装であるようにも見える。逆に、身なりを整えた、人並みに清潔感のある服装をした男達の数は圧倒的に少数である。
彼らの多くはリン族の一般階層市民か中央区の上級市民であり、その目的は投資だ。
採掘企業は統合本部で坑道の買い取り口座を登録し、それぞれが買い取った坑道から採掘した鉱石を中央区の錬金術省に売り込む。配当金は、出資者の持ち株に応じて分配される。効率良く質の高い鉱石や宝石の原石を売って利潤を得た企業が、その規模を拡大させる。仕組み自体はとても単純だ。
だがマルク達末端の鉱夫にとってみれば、まるで関係の無い話である。採掘関係者の一切は、不正取引に関与する可能性があるとして投資に参加出来ない。人生で一度でも採掘業に携わった者は漏れ無く。
それは、貧乏人は一生貧乏のままだ、という事を指し示している。社会が求める自分自身への役割と立ち位置を再確認し、足取りも重く、鉱夫労働受付まで歩いた。
出勤記録帳への記入を済ませた後、人別札を管理・担当している事務員の男に声を掛ける。各作業員にはその日の作業採掘鉱の指示が事務員から下り、数日間同じ坑道で作業する事が多い。だがマルク達が昨日作業していた坑道は崩落し、作業が中断している。今日は別の採掘場に再配置される筈だった。
「昨日は何処だった?」
事務員の男が尋ねる。二八三四番、とマルクが答えると、男は合点した様に言った。
「ああ、崩落事故のあった所か」
「うん。何人死んだ?」
「十人かそこらだ。残念な事だ」
しかし男の口調は淡々としており、言葉の全てが形骸化してしまった印象を受ける。犠牲者に対して、恐らくは何の感情も抱いていないのだろう。今のマルクと同じ様に。
更に虚しい事には、この不慮の事故に関して、統合本部やその坑道の所有権を持つ企業が葬儀を執り行ったり費用負担をするという事は一切しない。この多階層建造物の中は常に労働力の供給に溢れ、欠員は一日で完全に補填されてしまう。そんな代替の利く道具の様な下層市民に、悼む心も時間も無いだろう。或いは、路傍の石ころか。心配しても詮無い事だった。
「今日は何処になるの」
マルクも淡々とした声音で尋ねる。
「一六五一番。縦穴だ」
「一〇〇〇番代の穴でまだ塞がってない坑道があるのか」
純粋に驚いた。曽祖父の代で一〇〇〇番代の鉱区は閉鎖されたものだと思っていた。ああ、と男は答える。「まだ希少鉱石が取れる。だが掘り進み過ぎて、他の坑道とぶつかるのを避けながら進んでるから、もう十年近く鉛直方向へ進んでばかりだ」
古い坑道であれば、それだけ危険も増える。正直な話、そんな坑道は閉鎖してしまえばいいのに、と常々思う。希少鉱石を幾ら取ったところで、加工されたそれが一般階級層以下の市民に出回る事は滅多に無いからだ。中央区で錬金術師が宝石に錬成し、中央区内の貴族の間で流通するだけで、マルクら鉱夫の腹の足しにもならない。その日の出来高は、石の質ではなく取れ高でしか決まらないのだから。鉱石の盗難防止の為らしいが、何の事は無い。統合本部が上前をハネる為の口実に過ぎない事は知っていた。
人別札を受け取り、マルクは人混みを掻き分け、軌道船発着場へと向かった。陰気な顔をした鉱夫達の顔をなるべく見ない様に、下を向く。
自分も、彼らと同じ顔をしているのだろうか。
考える間も無く、笛が鳴る。一度に百人前後を搬送出来る軌道船の前方搭乗口に、マルクは慌てて駆け込んだ。発着場の係員が搭乗口の鉄柵を閉め、施錠する。船の前方に乗るのは久し振りで、なんとなく運搬係の魔術師の挙動をガラス越しに観察してみた。
係員の合図で、魔術師はブツブツと呪文を唱える。すると手を触れてもいないのに、百人の鉱夫を乗せた鉄の塊は勝手に動き出し、整備された専用道路をゆっくりと進んでいく。そこから次第に速度を速め、目的の坑道までものの数分で到着する仕組みだ。
いつ見ても不思議なものだ、と感心して魔術師の顔を見つめていた。そんなマルクの視線に気付いたのか、魔術師がチラリと彼を見る。と、魔術師は汚物でも見るかの様な表情をして舌打ちをし、前を向いてしまった。
大方、低所得者の汚らしい姿を見て目が汚れてしまった、というところだろうか。何か一言でも言い返せれば良かったのだが、人物評に関しては何の反論も出来ない為、諦めて他の船の様子を見る。
マルク達の乗る船とは別に二十以上の軌道船が、各坑道最寄りの停留所と統合本部発着場を往来する。専用道路を行き来するその光景にはすっかり見慣れたが、交代して本部へと戻る船の上に居る鉱夫達の人数が行きよりも減っていないか、いつもそれだけは気に掛かる。
しかし今日は、昨晩の墜落した魚の姿を思い出して別の物思いに耽った。生きる事にこれ以上固執してどうしようというのだろう、と。
あの魚はどういう理由か、浮遊停滞域の外に出てしまった。意思を持たない、カラクリさえも機能しない鉄の塊は、しかしその瞬間完全な用無しの鉄くずに変わった。人間もそうだ。坑道が崩れてしまえば、今まで労働者の築き上げてきた全てが徒労に終わる。残せる価値のあるものも持っていない。
虚しい。
その虚無感が、恐らくは鉱夫達の目から輝きを奪っている大きな原因に違いない、と思った。マルク達低所得者の下層階市民は、相対的にも絶対的にも、無価値な人生を送っているのだという確信を持っている。口には出して認めないだけだ。
そんな中途半端な決断をして生きているから、何もしようとしないまま。そして、それでいいのだ、と自己完結している。
決して、自分達は変われない。
「よう」
と、そんな塞ぎ始めたマルクの心を幾らか晴らす男の声がした。頭上を行き交う船から目を離して、人混みを縫う様にして近付いてくる男、タウロの顔を見る。辛気臭い顔をした鉱夫達の中でその活力を感じさせる表情は、見ていて気持ちのいいものだ。思わず顔を綻ばせ、マルクも挨拶をした。「元気か」
「ああ。マルクは今日、何処だ」
「一六五一。ちょっと不安だ」
正直な気持ちを吐露すると、少しだけ渋い顔をしてタウロは答える。「随分前に一度行ったけど、本当に気を付けろよ。下に掘り進み過ぎて、もう千メートルは下ってる。百メートル毎に中継所を設営して、今じゃ側面での採掘も始めてるんだ。何人も落ちてる」
「今に始まった事じゃない」
余裕を見せる様な事を言ってみせたが、内心ではうんざりした。雰囲気の悪い坑道での作業は、それだけで気が滅入る。「お前は、今日何番だ」
「少し離れた所だな、三二一七番だ。こっちもあまりいい地盤だって話は聞かないけど。でも、君はいいじゃないか。カラクリがある」
そう言われて鞄越しに、中のカラクリに手を触れる。イシオの作った採掘補助装置は、確かにマルクの単純な運動機能を延長し、長時間の労働も苦にならない。しかし、だからと言ってマルクが些細な過失さえも起こさないと確約するものではないのだ。
「確実な保証なんて、この世界の何処にも無い」
生命の保証も、未来の保証も、何一つ。
そう暗い顔するなって、と笑い声を上げ、タウロはマルクの肩を強く叩いた。
全く、この男の豪放磊落な姿には勝てない。マルクは改めて思い、体の力を抜いた。他の貧民が皆一様に暗い顔をする中で、彼だけはいつもこうだ。ここ数年は、特に度量が広くなったように思う。しかし、何か嬉しい事でもあるのかと良く尋ねるのだが、秘密だ、と言われてはぐらかされてしまうのが常だ。
本当に、羨ましい。
船が停留所に到着し、鉱夫達がぞろぞろと降りる。薄暗い中足下に気を払い、途中の分岐路までタウロと連なって歩いた。
「今日飲みに行こうと思ってるんだ。お前もどうだ」
タウロにそう尋ねると、驚いた顔をして訊き返してくる。「今日?」
「ああ。一杯だけでいいから付き合えよ」
しかしタウロは歯切れ悪く、今日は行けない、と答えた。「悪いな。本当は行きたいんだが、用事がある」
そう言われては仕方がないと、マルクは了承した。一杯だけ、と気軽に言っても、酒は農場で作られた貴重な果実を発酵させて鋳造したものだ。当然、値は張る。近日中の鉱石採掘量によっては控えざるを得ない場合も多い事は、マルクも重々承知していた。
また今度、と言葉を交わして分岐路で別れようとしたところで、振り返ったタウロから改めて声が掛けられる。
「な、なあ。実は相談したい事があるんだ。明日でいいから、繁華街で飯でも食いながら話せないか。お互い、休みだろ」
「分かった。じゃあ明日、昼の鐘が鳴る頃に、繁華街の出店通り入り口で」
「おう。丁度いいな」と了解し、タウロは足取り軽く担当坑道へと向かった。マルクも目的地へ向かいながら、採掘道具を準備している時に自分の失態に気付く。
明日は、繁華街でリン族主催の祭りがある日だ。繁華街は酷く混み合っているだろう。何より、そんなリン族達のごった返す中に自分達が行ったら、面倒事に巻き込まれる可能性もある。
場所を変えるように提案しようか、とも考えたが、もう連絡の手段は無い。仕事の終わる時間は坑道の作業監督によってまちまちで、あの広い本部ロビーで待ち合わせが出来るとも限らない。大丈夫だろうか、と不安にはなったが、今は仕事に集中する事にした。
しかし、と一つだけ疑問に思う。そんな祭りがある事は勿論知っていた筈のタウロだが、彼の言った「丁度いい」とはどういう事だろうか。
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます