拝啓、世界の底より

宇津木健太郎

序幕 


「魚が落ちてきた」

 家に帰ってドアを開けて早々に、マルクは言った。イシオはルーペから目を離し、調整途中だったカラクリを作業台に置き直す。年の割に白髪の多い頭を搔きむしり、渋い顔をして息子のマルクに訊き返した。

「魚? 本当か?」

「上に三百五十メートルちょっと先の、『壁』」

「他の連中は騒いでるのか?」

 問うと、マルクは首を振る。

「誰も知らない、俺がたまたま目にしただけだよ」

 答えると、マルクは玄関のドアを閉め、ジャケットから金を取り出し、イシオの作業台の上へ乱暴に金を置く。紙幣が五枚と、使い道の少ない貨幣が十枚弱。それを見て、イシオは肩を落とす。ううん、と唸り声を上げて、イシオは頭を抱えた。

「今日は少ねえな。どうした」

 するとマルクは、嘆息して答える。「坑道で落盤があったんだよ。地層も悪かった、粗悪品しか出てこない」

「俺の作ったカラクリを併用すればもっと取れるだろう。質が悪くたって」

 だがその言葉に対しマルクは、ハネも上がってるんだ、と補足して肩を竦める。

 確かに、最近はまた税率が上がった。中央区はここ数年、特に財政難に苦しんでいる様だが、現状で打開策を打ち出せていない様だ。鉱物の産出と加工、それによる収益は上層階級層の間だけで消費される為、一般市民層にその経済効果が波及する事は極めて稀だ。結局、皺寄せはイシオ達低所得の下層民に来る。

「で? 私が魚を捌けって?」

 マルクに訊くと、彼は少し済まなそうな顔をして言う。

「鉱夫が行くより、カラクリ職人の方が適任だと思って」

「魔術が使えないなら、誰が行っても同じだ。何にせよ、お前も来い。取れる部品があったら運んでもらう。最近、膝が痛み始めてな」

 再び嘆息しただけで、マルクは拒絶しなかった。金を財布に仕舞い、肩提げ袋の中のカラクリを確認する。これは要らないな、とひとりごちて、石壁を切り出して作った工房の引き出しに、歩行強化補助用のカラクリを一組仕舞い、鍵を掛けた。イシオはランタンの中にある燃料の芯を確認し、蓋を閉める。ポケットにマッチを入れて外套を羽織り、工具道具を入れた鞄を担いだ。そうして家を出てランタンを持ちながら、「鍵、閉めてくれ」とマルクに頼む。マッチを取り出そうともしないイシオに、え、とマルクは驚いた。

「火、付けないの」

「燃料が少ない、配給は来週だ。作業する手元だけ照らす」

 と、ぶっきらぼうに口にする。家に備蓄自体はまだあるものの、また配給の中身と量に調整が入る可能性もあるという噂を耳にしたばかりだ。限りある物資を、なるべく無駄遣いしたくはない。マルクもそれを理解したのだろう、汚れた外套に袖を通し、文句を垂れた。「俺達も魔術が使えれば、燃料なんて……」

「無いものねだりはするな。そもそも、最上階級民が中央区敷地内限定で使うばかりで部外秘な代物、使えたとして何になる」

 意味の無い会話だという事は、イシオも理解している。ただ、そうした日常の不満を小出しにして解消しなければ、貧民街ではやって行けそうにない事も良く分かっていた。そんな自分達を律する為に、敢えて自分は否定する立ち回りをしている。生きにくい現実を少しでもしっかりと見据えて、よりまともな生活を送る為に。

 だからこそ、せめてガラクタでもいいから売り物にならないだろうかと、落ちた魚を探しに行くのだ。

 魔術で灯された燭台の炎が照らす光に沿って、冷たい石の道を進む。繁華街では店仕舞いが始まり、帰宅する労働者が力無く道を歩く姿が多く見られた。薄暗い道をぞろぞろと進み、或る者は階段を登り、或る者は下り、それぞれの家へ帰って行く。時には人一人通るのがやっとの狭い道を、暗い顔をして皆が歩く。

 まるで鏡を見ている様で、イシオは彼らの顔から目を逸らした。そんな彼に、後ろを歩くマルクが耳打ちをした。

「魚が落ちたって知ったら、大騒ぎになるかな」

「やめろ。私らの取り分があっという間に無くなっちまう」

「冗談だよ」

 腐肉に群がるドブネズミの様に、魚はバラバラにされてしまう事だろう。何より、場所が場所である。落ちた現場に行くまでに、押し寄せる何十人の人の流れが混乱を生み、底無しの闇へと落ちて死んでしまう事だろう。イシオは同じく、小声で尋ねた。

「何処だ」

「八十二区から出た先。一度、百五十階分くらい降りてからじゃないと、壁に続く階段まで行けない」

 それは、イシオ達の住む住居区画から歩いて十分程離れた、二百階建ての小さな集合住宅区の裏路地から伸びるルートだ。「あの方向の『壁』に続く階段で、門の鍵が壊れてるのはそこしかない」



 しばらく二人は、人並みに揉まれながら冷たい道を進んだ。測量されないまま石を削り出して作られた道は曲がりくねり、行く先々で細かい枝分かれの道を生んでいる。薄汚れた衣服をまとった人は、ぞろぞろと路地の影へと消えて行った。

 心なしか、皆の歩く足取りが早くなっている様だ。イシオが懐から懐中時計を取り出して時刻を確認すると、針は九の数字を差そうとしている。

「いかん。火が消える」

 石で出来た、道路に沿って一定間隔で設けられている燭台の炎は、針が九の数字を差すと消えてしまう。中央区の魔術が街を照らすその灯りの消滅は、即ち就寝時間を告げている。街の住民は、おおよその時間を体の感覚で覚えているのだ。他方、自宅工房での仕事が主なイシオにとって、その体感時間は曖昧なものだった。

 住民達よりも更に速く歩き、最早駆け足に近くなった。そんなイシオに、またマルクが声を掛けた。

「ねえ、いい加減その時計ってやつの見方、教えてよ。何でそのつまみを欠かさず巻くだけで、時間が分かるのさ。教えてくれったら」

 子供の様に無邪気に訊くが、しかし二十五になる息子にそうした尋ね方をされたところで、親馬鹿になるイシオではない。持つべき時が来たら教えてやる、といつもと同じ答えを返すだけだった。

 人を掻き分け、二人は小道に入る。八十二区へ続く、一気に人通りの少なくなる小道だった。そこから更に入り組んだ路地を抜け、五百階建ての居住施設に挟まれて建つ、その小さな居住塔を見付けた。

 棟の窓は貧民街の中央広場方面にしか設けられていないし、階段があるのは貧民街の切り立った崖側だ。『壁』を見ていた人間が居るとすれば、明かりの無い階段を上り下りしている時だけで、急な段差の多いこの階段で余所見をする者がそうそう居るとも思えなかった。しかし、居住塔の壁であると同時に階層の崖でもあるそこから『壁』まで、直線距離で約四百メートル強。薄暗い光の中でも、肉眼で見えない距離ではない。だが、マルクは答えた。

「言っただろ、坑道が崩れたって。作業が途中で終わったから、他の連中よりずっと早く帰って来たんだ。その時に落ちるのを見たんだよ。しかも親父の作った遠眼鏡で見て、かろうじて魚だって分かったくらい遠くだ。誰も気付いてない」

 合点して、イシオはそれ以上は口を利かずに階段を降り始める。壁方向に窓のある家があるかどうか、目撃者がいるとすればそれだけが不安だった。

 しかし壁方向に窓を設けても見えるのは、水平方向に四百メートル先に、上方と下方、それぞれ千メートル超に及ぶ壁ばかりだ。日常的に見るにはあまりにも味気無いそんな景色よりも、市街地の方を窓から見える景色にしたいと願うのは当然の事だろう。

 街の通りを照らす、燭台の魔術の火が消える。まだ帰宅出来ていない労働者は慌てて自らの住まいに身を隠した。そんな彼らを尻目に二人は、足元もおぼつかない暗闇の中を歩く。幸い、まだ室内で明かりを灯す家は多い。そんな心もとない火種の明かりが窓から漏れる、更に仄かな明かりを頼りに、狭い道を歩き、石段を気を付けて降りた。

 しばらく時間が経過して、イシオ達は目的住宅区の最下層に到着した。ここだっけ、とマルクが訊いてくる。この階から下へ更に別の住宅区が続いているのだから、ここに避難路がある筈だ、とイシオは答えて、ようやくマッチを取り出した。ランタンの芯に火を灯し、目の高さまで掲げる。

「作業の時だけじゃないの」

「今と、鍵を開ける作業の時もだ。何も見えやしないからな。それに、ここに来るまでこんなに時間が掛かるとは思わなかった」

 言って、二人は路地を進む。

 やがて、緊急用避難路となる鉄門扉前に到着した。やはり、鍵は壊れている。流石の中央区も、貧民街だけで千以上ある非常門全ての点検は不可能な様だ。

 鍵穴をいじると、いとも簡単に施錠が解ける。扉を開く力仕事はマルクに任せ、イシオはランタンの明かりを再び消す。

 僅かな街灯りだけで、居住塔の崖から壁へと続く四百メートルの通路と、壁の内側で複雑に入り組んだ廊下と階段を直線距離だけで五百メートル程、進まなければならない。



 階段を登り終え、壁の内部を掘削して作られた巨大回廊を進む。時折設けられた階段を登り、窓から顔を出して魚の落下地点を確認した。ゆっくりと巨大な弧を描く壁に何千何万と存在する、壁をくり抜いて作られた簡素な窓は、外から見ても殆ど見分けなど付かないので、確認作業だけでも難儀する。

 ……そうして辿り着いた場所で、魚は壁の一角を崩し、四メートル半はあるその巨体のほぼ全身をめり込ませていた。

 人生で初めて魚を至近距離で見た感想は、思ったよりも無骨だな、という事だ。

 一目見ただけで、不思議な作りをしていると分かった。水晶が埋め込まれた目には一点の曇りも無いが、激突の衝撃でヒビが入っている。何十枚となく緻密に組まれた鱗は加工された金属だ。激突の所為で歪んだらしい部位を除けば全て滑らかな流線型を描いており、製作者の高い技術力を伺わせる。しかも組み合わさったその鉄の板一枚一枚が、他の鉄板と不快な音を立てて擦れる事も無く、滑らかに稼働していた。

 実物の魚を目の前にしてさえ、本当にこの魚を作るだけの冶金術が魔術師達にあるとは信じがたいと思う。しかしこの鉄の塊が、魔術によりイシオ達の遥か上層を浮遊し続けているというのは、疑いようの無い事実だ。

「何故落ちたんだろう」

 マルクが素朴な疑問を口にした。イシオがぶっきらぼうに答える。

「部品の何処かが老朽化したんだろうよ。くだらない事言ってねえで、手伝え」

 ランタンに再び火を入れて、イシオは魚の近くまで恐る恐る近付いた。そして、崩れた壁の外側へ顔を出して街と上空を観察するマルクに向かい、おい、と声を掛ける。

「他の魚は、居るか?」

 肩掛け鞄から遠眼鏡を取り出してしばらく窓から顔を出して四方を観察したマルクは、「居ない」と短く答えた。「街の人も、騒いでる気配は無い」

 明かりがついていれば遠くにはっきりと、貧民階層と中流階層、上流階層を一本につなぐこの世界の支柱も見えるのだが、それさえも見えない程の暗さだ。

 安堵の息をつき、イシオは工具を取り出した。使える鉄クズはなるべく多く解体し、持って行きたかった。中央区と取引のある商人にこっそり流せば、破格の値段で買い取ってくれるに違い無い、と期待を膨らませる。自然と、彼の顔には笑みが溢れた。

 鉄製の鱗を剥がし、水晶の目玉を取り出し、布よりも丈夫な素材で作られたヒレを切り取り、袋に入れた。まだ鱗は大分残っているのだが、それでも袋はそろそろ持ち切れなくなる、という量まで膨らんでいる。

 そろそろ戻ろうというマルクを制止して、もう少しだけ、と魚の頭を解体する事にした。人間であれば脳みそが詰まっているその部位に、きっと魔術師も貴重な素材を詰め込んでいるに違い無い、と踏んだのだ。だが……

「何だこりゃ」

 厚い鉄板を剥がして露出した魚の頭の中身は、カラクリ仕掛けだった。正確に言うと、イシオが作っている様な単純な歯車やネジ、スプリングで組み合わせる機構とはまた違う構造をしている。

「へえ、これが魚の頭の中?」

 横から、イシオの作業を覗き込むマルクが呟いた。「どうやって動いてるか分かる?」

「分かるわけないだろ。そもそも、こんなカラクリで動く要素が見当たらねえ」

「じゃあ、飾り? それとも魔法で動くの?」

「それも分からねぇ。だが、カラクリ技術としてはこんな構造で動くわけ、絶対に無い。それは断言してやる」

「じゃあ、やっぱり魔法が切れたのか」

 どうしてだろうね、と肩を竦めてマルクは顔を上げた。答えの無い彼の問いにいちいち答えるのも面倒になり、イシオはそれに答えず、黙って腰を上げた。

 何にせよ、鉄でない以上、この部位をわざわざ解体して売る必要性は無い。

 中流階級層居住域から数千メートル下層に位置するこの貧民街で、鉄以上に価値のある素材など存在しないのだから。

 行こう、と先を促してランタンの灯りを消し、イシオは工具と、解体した魚の部位が幾らか入った袋を担いで来た道を戻る。後に続くマルクは大きな袋を抱えて文句を言った。

「やっぱり灯り点けよう、暗過ぎる。燃料なんて追加料金払えば配給分以外でもくれるんだろ? パン屋はやってる」

「そのパンと、僅かな野菜を買う為に金を貯めてるのが分からねぇのか、お前は」

 苛立ちを隠さずに言い返すと、マルクは更に苛立った声で口答えした。

「パンも野菜も、高いばかりじゃないか。配給食で十分だろ」

「週に一度の楽しみを馬鹿にするのか! 配給食なんざ、不味くて何の有り難みも無いだろうが」

 しばらく食事に関しての言い合いをしながら、親子は壁面の階段を降り続けた。


 上方にも下方にも、飲み込まれそうに暗い闇が三万メートル以上続く、巨大な縦穴の壁面内部に設けられたその階段を。


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