第32話 無理! 絶対無理よ!
教室の入り口に立っていたのは、白髪の老人だった。黒服を優雅に着こなし、身長は高く肩幅もある。
そしてシワだらけの顔には、無数の傷が残っていた。細めの眼は鋭く、なんだかとても威厳を感じる人だ。
「失礼致しました。タイラント様。お声をおかけしたのですが、議論に熱が入っていたご様子で。勝手に入室させて頂きました」
黒服の老人が礼儀正しく頭を下げる。
「ネフィト執事長。構わん。入ってくれ」
タイラントが返答する。執事長? この背の高いご老人が? ネフィト執事長は姿勢の良い歩き方で教室に入室して来た。
あれ? ネフィト執事長の後にカラミィ。ハクラン。エマーリの三人が続いて入って来た。
ガタガタッ!!
え? 何? 何? ザンカル、シースン、リケイの三人が急に椅子から立ち上がり、ネフィト執事長に敬礼する。ど、どうしたの三人共?
「ザンカル。シースン。議論を交わすのも良いが、兵の鍛錬も怠る事がないように」
「はっ! 承知致しました!!」
ネフィト執事長のかけた言葉にザンカル、シースンが同時に答える。あ、あのザンカルが敬語を使っている!?
ん? よく見るとネフィト執事長の後ろに控えているリリーカ暗殺三姉妹が、借りてきた猫みたいに大人しくしている。
いや、大人しいと言うより何か恐怖に怯えているように見えるわ。こ、このネフィト執事長って一体何者?
「······貴方がタイラント様の御客人。リリーカ様ですね」
ネフィト執事長が静かな表情で私を見る。め、眼力が半端じゃないこの人!
「は、はい! 私がリリーカです」
私が答えると、ネフィト執事長は穏やかに微笑み、とんでもない事を口にした。
「タイラント様。リリーカ様に我々執事の仕事をして頂いてもよろしいでしょか?」
は、はい? 私が執事のお仕事を? なんで?
「ネフィト執事長。それは何か理由があるのか?」
タイラントが両腕を組み、ネフィト執事長に質問する。
「はい。先だってリリーカ様は厨房で働いていたようで。そこで学んだ事も多いかと。リリーカ様には是非、我々の仕事からも多くを学んで頂きたいのです」
そして私に多様な視点を持ってもらい、私達が現在行っている迷路のような議論に役立てて欲しい。
ネフィト執事長はそう説明した。それを聞いたタイラントは机を叩き頷いた。
「それだネフィト執事長! 私も異業種交流こそ両種族が理解し合う為に必要だと思っていた。許可しよう。この娘を好きに使え」
は、はあ!? ちょっと待ちなさいよ金髪魔族!人を物みたいに簡単に渡さないでよ! そ、それに執事の仕事ってカラミィ達と一緒に働くって事でしょう?
無理! 絶対無理よ! 初出勤で私は三人に確実に暗殺されるわ! 私の頭の中はパニックを起こしていた。
「······リリーカ様。あの三姉妹の事はご心配なく。私が貴方に手出しはさせません」
ネフィトさんが私の耳元で囁く。い、いつの間に私の隣に移動したの!?
「タイラント様の御許可は頂いた。カラミィ、ハクラン、エマーリ。リリーカ様に丁寧に仕事を教えて差し上げなさい」
「は、はい!!」
三姉妹が一糸乱れぬ声で返事する。い、いや。声色は乱れている。この三姉妹はネフィトさんに恐れを抱いている。間違いないわ。
「リリーカ様。こちらへどうぞ」
カラミィが天使の微笑みで私を手招きする。カラミィ達のネフィトさんへのこの態度。こうなったらネフィトさんの言葉を信じるしかないわ。
······そして私は、黒い服の上にフリルのついた白いエプロンを身に着け、メイドの一人としてこの城での労働が始まった。
まず私は、メイド達の司令室と呼ばれている部屋に案内された。その部屋の壁には無数の小さい鐘が穴に埋め込まれていた。
「こ、この鐘って一体何?」
私の疑問にカラミィが不機嫌な顔で答える。
「この鐘は一つ一つが貴族の方のお部屋にロープで繋がっているの。貴族の方が私達に御用を申し付ける時に使われる物よ」
カラミィが言い終えると同時に、複数の鐘が鳴った。司令室にいる他のメイド達が、慌ただしく部屋を出ていく。
「それぞれのメイドに担当が割り当てられるの。さあリリーカ様。私に付いてきて!」
カラミィは早歩きで司令室を出る。私は慣れないメイド服で動きにくかったが、必死にカラミィの後を追う。
私達は城の上層階に上がっていく。身分の高い貴族達は何故高い所が好きなのだろうか?
「ハスキ様。カラミィでございます。お呼びでしょうか?」
派手に装飾されたドアの前でカラミィが声をかける。ドアが開けられ中から白いドレスを来た中年女性が出てきた。
「カラミィ。花瓶の水を替えて頂戴。あと三十年物の赤ワインを持ってきて」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
カラミィは礼儀正しく頭を垂れる。私も遅れて頭を下げる。な、なんかメイドの仕事って大変そう。
ネフィト執事長が何故私にこの仕事をさせたか。その理由を、この時の私はまるで理解していなかった。
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