一章 1-2
「おや、先客とは珍しい」
不意に聞こえた声に驚いてエイリルは振り返った。
思いに沈んでいたので気付かなかったが、いつの間にか背後に金髪の美丈夫が立っている。
「いつ見てもここからの眺めは美しいな」
独白のように呟きながら青年はエイリルの隣に並んだ。おそらく自分より十は年上の、頭一つ分上にある青年の顔を見上げて誰なのか尋ねようとしたとき、
「そこにいたか!」
地底から追いかけてくるような声と共に、もう一人青年が階段を駆け上ってきた。その姿を見てエイリルは安堵する。
「ロヴァル副長」
エイリルはラストに、ここで近衛隊の誰かがくるまで待てと言われていた。しかしエイリルには目もくれず、ロヴァルは青年に詰め寄った。
「おまえ……イーグル。もう少し自重を覚えろっつってんだろうが」
イーグルと呼ばれた青年は身体ごと振り返った。小首をかしげて小さく笑う。
「これ以上の自重を覚えたら、私は地下に沈んでしまうんじゃないかな」
「沈んでみろや。二度と出てこられないよう埋めてやる」
「助けてくれないのかい?」
「やかましい! 一人でふらふらすんなって何回言わせんだボケ。なんのための近衛隊だハゲ」
「ボケとは失礼だな。だが禿の方は甘んじて受け入れよう。今はふさふさだけれど将来禿げない保障はないないからね」
「おまえが禿げる前に俺たちの毛根が死滅するわ」
やり取りを聞いているうちに「イーグル」の正体の察しが付いて、エイリルは一人で青ざめた。恐る恐るロヴァルに尋ねる。
「あの、副長。まさか……もしかして……」
ロヴァルはエイリルの存在にはちゃんと気付いていたらしく、肩を落として首肯した。
「ああ……残念だが、一応、こいつがこの国の王だ」
底抜けにおざなりな紹介を受けて、青年―――国王は柔らかく笑んだ。
「改めて初めまして。エイリルさんだね? 幼馴染みに残念がられる、一応アールヴレズル国王のイーグレーン・ゲンドゥル・アールヴレズルだ」
「は……お、お初にお目にかかります。エイリルと申します!」
慌てて頭を下げると、イーグルは
「後で紹介するっつってんのに、なんで待てないんだおまえは」
「ここで彼女に会ったのは偶然だ。今日はたまたま仕事が早く終わってね、少し歩きたいと思ったのさ」
「散歩は結構。行き先を言って供と護衛を連れて歩け」
「はいはい。まったく、ルゥが口煩いのは昔から変わらないね」
「お、ま、え、が、煩くさせてんだろうが!」
「さて、フィーアとリーフにも紹介してくれるのだろう? 行こう、待ちくたびれているかも知れない」
「だから、どこぞの国王サマが大人しく部屋で待っててくれればだな」
「フィーアは怒らせると怖いよ」
ロヴァルの
「隊長が待ち合わせ場所をここに指定したのは、神出鬼没の国王を捉まえるためかもな。俺たちも行くぞ。隊長から聞いてるだろうが、これから妃殿下と王子殿下に拝謁する」
「はい」
エイリルはロヴァルに続いて階段を下りた。
宰相を始め、国王の側近たちや、近衛隊の面々とは既に顔合わせが済んでいる。非番などで登城していなかった者とは後日引き合わせるとのことだった。おそらく、エイリルが今日挨拶して回ったのは、近衛兵の顔ぶれを知っていないといけない人々なのだろう。
ラストには、最後に国王と王妃、王子に謁見を
(アールヴレズル王国の王様は気さくなのね……)
無論、エイリルが国王という存在に会うのはこれが初めてなので、一般的な国王というのがどういうものなのか知る由もない。しかしアールヴレズルの国王は、お
同じような造りの廊下を何度も曲がりながら歩き、エイリルがどこをどう進んできたのかわからなくなった頃、先頭を行く国王がようやく足を止めた。扉の両脇を守っていた近衛兵が頭を下げて扉を開く。
最後尾のエイリルは部屋に入りながらおっかなびっくり見回した。
大窓の外には広い露台が見える。中央に大きなテーブルと椅子が置かれ、他には調度品が置かれている棚がある。椅子の一つにはお腹の大きな美しい女性が腰掛けて、その傍らにラストと、五歳くらいの男の子が立っている。
「父様!」
駆け寄った男の子を受け止めた国王は、そのまま高く抱き上げた。
「いい子にしていたかい、リーフ」
「はい、今日のお勉強は終わりました! 音楽の先生に褒められたんですよ」
「それはよかったね。リーフは音楽が好きかい?」
「好きです。お歌が特に」
「そうか、じゃあ今度一緒にリーフの好きな歌を歌おうか」
「本当ですか?」
「ああ、約束だ」
そのまま歌い出しそうな国王を、女性がやんわりと
「あなた、皆さんが困っていますわよ」
「おっと、すまない。紹介してくれ、ラスト」
リーフを下ろした国王へ、ラストは一礼する。
「御意。―――彼女はエイリル。今日からの近衛兵見習いとして入りました」
「え……エイリルと申します。精一杯お勤めいたします」
ラストに促されたエイリルは、声の震えを必死で抑えながら名乗った。「隊長」の顔をしているラストは口調も雰囲気もがらりと変わり、ますます緊張する。
「エイリル、このかたはフィアラル妃殿下。そちらは第一王子のリーフズラシル殿下だ。それと、リーフズラシル殿下の守り役のイオ」
ラストに言われて初めて、エイリルは部屋の隅に控えている少年の存在に気付いた。十を幾つか越えたくらいの黒髪の少年は、ちらりとエイリルを見て無言で会釈をした。エイリルも黙礼を返す。
その様子を見たフィアラルはおっとりと微笑んだ。顔立ちが美しいのもさることながら、笑った面差しがどことなくラストに似ている。こんな美人が何人もいていいのかと、エイリルは思わず感嘆のため息をつきそうになった。
(わたしなんかがここにいていいのかな……)
身辺調査は問題なかったと聞いたが、何がどう問題なかったのか、エイリルにはわからない。弾かれなかったことに驚いているうちにラストに口説き落とされ、あれよあれよという間に見習いとして入ることが決まってしまった。
ラストは、近衛兵になるのに家や血筋は関係ないと言っていた。自分のようなな素性のはっきりしない小娘が身元調査で弾かれないのだから、本当に家や血筋は関係ない―――とはまではいかなくとも、影響が少ないのだろうと思うことにする。
「見習いの期間はおよそ二月後の夏至、鎮樹の大祭までです。若輩者ゆえ、お目にかかるときは、何卒、寛大な
「ラストのお眼鏡に叶ったのなら大丈夫でしょう。よろしくね、エイリルさん。新しい女の子が入ると聞いて楽しみにしていたのよ。期待しているわ」
フィアラルに言葉をかけられたエイリルは慌てて姿勢を正し、ばね仕掛けの人形のように頭を下げた。
「は、はい! 頑張ります!」
すると、国王の笑い声が降ってくる。
「そんなに
「まあ、あなたったら。いつも怒らせるのはどなたですの?」
「誰だろう。リーフかな?」
「僕は母様を怒らせたりしません! 怒らせているのは父様ではないですか、この間だって……」
「わかった、言わないでくれ。父様が悪かった」
国王一家を見て、エイリルは少々切なくなった。憧憬や羨望とはまた違う。膨れる息子を宥める父と微笑ましく見守る母という光景は、エイリルにはもう二度と手に入らないものだ。
「では、これにて御前失礼を」
ラストに促され、エイリルは一礼して部屋を出た。背後で扉が閉まり、ほっと息をつく。振り返ったラストが小さく笑った。
「そんなに緊張することはないのに。陛下も仰っていたでしょう? いつものリルちゃんで大丈夫よ」
「いえ、でも……国王陛下や王妃様にお目にかかるのは緊張しますよ。初めてですし」
ラストと並んで歩きながら、エイリルは気になったことを尋ねる。
「あの、王妃様とラストさ……じゃない、隊長って、少し似てませんか?」
「
「え」
思いがけない答えに思わず見上げると、ラストは悪戯めいた笑みを浮かべた。
「わたしの母と妃殿下のお母様が姉妹なのよ。似ているところもあるかも知れないわね」
「じゃ、じゃあ隊長も王家に縁が……?」
「遡ればそうだけれど、今はまったく関係ないわ。とはいえ、わたしが近衛隊長なのは、妃殿下の存在が大きいでしょうね」
「そんなことないですよ! ラストさんが隊長なのは、ラストさんの力です」
「ありがとう」
ラストに微笑まれ、勢い込んでいたエイリルは目を瞬いた。考えなしに言ってしまったことを後悔する。
「……すみません、生意気を。わたしこそ、ここにいるのはラストさんのおかげなのに」
「そんなことないわ。近衛兵に最も求められるのは潔白さなの」
「潔白?」
「陛下を
「なるほど。身元調査をすり抜けちゃうことはないんですか?」
「アールヴレズルの諜報部は、砂漠でなくした指輪すら見つけ出すわよ」
にこにこと言われて、エイリルはそれ以上追求するのをやめた。ラストがそこまで言うのなら、掻い潜るのは不可能に近いのだろう。
「さて、兵舎へ行きましょうか。今日はそこで終りね。初日は疲れたでしょう」
「はい。でも、まだ信じられません。まるで魔法みたい」
お伽噺ではよくある話だ。苦労をしている主人公の前に魔法使いや魔女が現れて、一夜にしてお金持ちになったり、王様やお姫様になったりする。だが、エイリルは不幸な主人公でもないし、魔法使いの知り合いもいない。大昔は本物の魔法使いがいたらしいが、今は物語の中の存在だけになって久しい。
ラストは小さく笑った。
「魔法ね。言い得て妙だわ」
「そうですか?」
「アールヴレズルは、世界に唯一の大樹を
「ええ。記録にある限り世界最古の国だから、アールヴレズルの初代国王は
「へえ……知りませんでした。大樹と話ができたから、ここに国を創ったんでしょうか?」
興味本位の疑問を口にすると、ラストは謎めいた笑みを浮かべた。
「―――というような、アールヴレズルの神話や歴史も学ぶことになるから、覚悟しておいてね」
思いがけないことを言われてエイリルは言葉に詰まる。辛うじて読み書きはできるが、読書や座学は昔から苦手だ。だが、そうも言っていられないらしい。
「……はい。頑張ります」
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