一章 1-1

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 エイリルは目の前に広がる景色を、飽かず眺めていた。

 城は小高い丘の上に建てられているので、塔からは城下の風景が一望できる。

 まず目に入るのは「天壌大樹てんじょうたいじゅ」や「世界樹」などの異名をとる巨木。世に唯一無二の存在である大樹は、遠近感を狂わされるほど大きい。その幹は城一つ、枝葉の下には町ひとつを飲み込んで余りある。

 大樹から視線を下に滑らせると、町並みはすぐに途切れて、細く伸びる街道もやがて緑に溶ける。眼下に広がる平原は所々に木々が生い茂る濃く深い緑を抱え、地平でようやく霞んだ。晴れれば草を風が渡って緑の海と化すだろう。

 美しすぎて現実味がない。―――つい昨日まで、自分は今いる場所を遠くから見上げていた。

(まだ信じられない……)

 ラストが勧誘にきたのが半月前。そのときに彼女が近衛隊の隊長なのだと聞き、開いた口が塞がらなかったのは記憶に新しい。

 エイリルがラストについて知っていたのは、女将ヒルダの友人だということだけで、住まいや職業、年齢などは知らず、また、いてみようとも思わなかった。ラストというのが愛称で、正式にはラスティーヌという名だということもそのとき知ったくらいだ。

(本当に、なんでわたしなんだろう?)

 ラストとのやり取りを思い出し、エイリルは一人で首を捻った。



「単刀直入に言うわね。リルちゃん、近衛兵になってみない?」

「……は?」

 なかなか言葉が頭に浸透してこず、エイリルは目を瞬く。

「このえ……え? どういうことですか?」

 ぽかんとしているエイリルがおかしかったのか、ラストはくすりと笑った。

「そのままの意味よ。実はわたし、近衛隊の隊長なの。女の子が一人、近々退役しなくちゃならなくなって、その補充が必要なのよ」

「……補充」

「兵士というと男の仕事という感じだけれど、女も必要なの。特に近衛兵はね。この国に王女様はまだいないけれど、王妃様をお守りするには女のほうが都合がいいから。だからリルちゃんはどうかしらって」

「はあ……はあ!?」

 ようやく頭の中での咀嚼が終わり、エイリルは声を上げた。しかしラストは眉一つ動かさず、にこにこと笑みを絶やさない。

「わたしがですか? どうして!」

「一年間見てきて為人ひととなりは知っているもの。向いていると思うわ」

「兵士さんですよね? 戦うんですよね? わたし、昔に教わった護身術くらいしか……」

「そう? でもリルちゃん、足腰が強いわよね。踊り子さんだったんでしょう? ヴィンブラド一座だったかしら」

 ヴィンブラド一座で舞い手をしていたのはたしかだが、ラストに話したことがあっただろうかと、エイリルは首をかしげる。誰に何の話をしたのか、細かく覚えているわけではないので、きっと以前に話したのだろう。

「戦闘に関しては訓練でどうとでもなるわ。こういうことは人柄が重要なの」

「人柄……ですか」

「陛下のお側近くにお仕えするのだもの、信用できる人じゃないとね」

「そうは言っても……わたしは、信用を得られないと思います」

「どうしてそう思うの?」

「身元を証明できませんから。それに、家もありません」

 ラストは知らないから言っているのだと、エイリルは肩と声の音量を落とした。

 エイリルは己の身分を証明するものを何一つ持たない。一年前ヒルダに拾われるまでは、定住すらしていなかった。

 しかしラストは揺らがない。

「家や肩書きは一定の物差しにはなるわね。でも、それがその人の人格まで決めることはないわ。名門とされる血筋からでも落伍者は出るし、その逆もある。だから、この国の近衛兵に求められるのは、家柄とか身分とか、そういうものじゃないのよ」

 ラストの言わんとしていることはわかる。けれど、納得はできない。自分よりももっと身元も素性もしっかりして、人柄もよく、身体能力に秀でる女性がいるだろうとエイリルは思う。

「それで、お願いがあるんだけど……リルちゃんの身元をちょっと調べさせて貰ってもいいかしら」

 調べた上で話を持ってきたのではないのかと、エイリルは目を瞬いた。

(先に調べてみて、話す手間を省こうとは考えなかったのかな……)

 おそらく、断ればこの話はなかったことになるだろう。そして、調査を承諾してもラストの求める水準に届かなければ、やはり取り消されるに違いない。

「労働条件の話をしましょうか」

 エイリルが答え倦ねているのを見てか、ラストは唐突に話を変えた。

「衣食住の心配はないわ。制服が貸与されるし、食事は食堂があるの。結構美味しいわよ、ここには負けるけど。しばらくは兵舎に住んで貰うことになるわね。副隊長以上なら、望めば王城に部屋をいただけるわ。俸禄ほうろくはお金」

「そうですか」

 エイリルは現在、衣食住には今は困っていない。紅翠亭に住み込みで働いて、きちんと賃金を貰っている。住み込みの店員は他にも何人かいて、様々な入れ替わるときもある。エイリルも、なるべく早く出て行かなければと考えている。恩人の店に何かが起きる前に。

「それと……そうそう、リルちゃんはこの国の出身ではないのよね。なら、近衛隊に入れば国民権が貰えるわ」

「え……」

 行き倒れ同然だった自分を助けてくれて、その上住まいと仕事まで与えてくれたヒルダには、感謝してもし切れない。だが、国民権には心が動いてしまった。

 エイリルは、六つの頃に両親を亡くした。最早、両親の顔も自分が生まれた場所も、朧にしか思い出せない。

 引き取られた先では持て余されて売られ、以来、一つ所に長期間留まったことはなく、家族と呼べる存在もいない。故に、帰る家と待ってくれている人のいる暮らしには、どうしようもなく憧れた。

「最初は仮のもので、正式な国民権は三年間務めることが条件。その間に退役すれば無効に、罪を犯すようなことがあれば剥奪されて二度と与えられることはないけれど」

 説明を続けるラストの話を聞いていると、目の前に湯気を上げるカップが差し出される。顔を上げれば、ヒルダが二人分のお茶を持ってきてくれたところだった。

「なんだい、ラストはうちの看板娘を引き抜きに来たのかい」

「そうよ、今度はうちの看板娘になって貰おうと思って」

「困ったもんだね。―――はい、リルちゃん」

「ありがとうございます」

 カップを受け取り、エイリルは首を左右に振った。

「ラストさん、ありがたいお話しですけど、やっぱり……わたしはまだ、女将さんになんのご恩返しもできていないのに……」

「こら」

 こつん、とエイリルの頭を軽く叩き、ヒルダは呆れた様子で片手を腰に当てる。

「あたしは見返りを期待してあんたを助けたんじゃないよ、失礼だね。断る口実にしないでおくれ」

「……すみません」

 見透かされている、とエイリルは俯いた。頭の中では話を受ける理由と断る理由を同時に探し、自分でもどうしたいのかよくわからない。分不相応な、とてもいい話だとは思う。しかし、今の生活を捨てる勇気も出ない。

「あたしだって、リルちゃんには長く働いて欲しいよ。元気だし、よく気がつくし、お客さんからも人気だしね」

「そんな……そんなことありません」

「謙遜はおよし。そういうふうに、自覚と自信がないが困りものだ。とにかく、リルちゃんをここに縛り付けようっていうんじゃない。あんたは好きなところに行けるし、行っていいんだよ」

「女将さん……」

 諭すように言われてエイリルはヒルダを見上げた。女将は悪戯めいた笑みを浮かべる。

「まあ、うちにいたんじゃ国民権をぽんと貰えるようなことはないだろうね。この国は、移民に関してはちょっと厳しいんだ。お国柄仕方がないんだろうけどさ」

 そのことはエイリルも知っている。

 ヒルダに拾われて二月くらい経った頃、身体もすっかり回復して生活も落ち着いたので、エイリルは国民権を得ることができないかとこっそり城へ赴いたことがある。

 懇切丁寧に説明してくれた役人によると、移民の手続きには以前住んでいた国の発行する居住証明が必要で、それがあっても状況によっては許可が下りない場合もあるという。居住証明はおろか、いつどこにいたのかも定かではないエイリルは、諦めざるを得なかった。六つまで育った場所には、籍のようなものが残っているのかもしれないが、それも思い出せないのではどうしようもない。

(隠さなきゃいけないような過去はない……そもそも、わたしに素性なんてないようなものだもの)

 調べるだけ調べて貰って、それでも弾かれなかったときはもう一度考えようと、エイリルは身元調査を承諾した。お茶を飲んでいたラストは、カップを下ろしてほっとしたように笑みを浮かべる。

「ありがとう。調査の結果には十日くらいかかると思うの。だからそのときに答えを聞かせて。―――お邪魔したわね、ヒルダ。お茶をありがとう」

「はいよ。今度はお客として来とくれ」

 二人でラストを見送って、扉を閉めたヒルダが神妙な面持ちで振り返る。

「好きなところに行って、好きなときに戻っておいで。勿論残ってもいい。決めるのはリルちゃんだよ」

「……はい。ありがとうございます」

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