一章 2
2
翌朝、ラストの執務室へ行くと、ラストの他に近衛兵の青年がいた。エイリルが名を思い出す前に、ラストは青年を示す。
「彼はキルツ・クラーズ。教育係としてついて貰うわ。本当はわたしが見たいのだけれど、時間的に無理そうだから」
キルツはラストをちらりと見た。
「指導教官です、隊長」
「似たようなものじゃない」
「否定します。教育係というのは」
「このとおり融通がきかないけれど、真面目で誠実。武術の腕もたしかよ」
反駁するキルツの言葉は聞かず言うラストへの返答に困り、エイリルは曖昧な笑みを浮かべた。
「キルツ、彼女はエイリルよ。昨日紹介したけれど、改めてよろしくね」
「エイリルです。よろしくお願いします」
エイリルが頭を下げると、キルツは表情を変えずに頷いた。
「じゃあ、キルツ。あとをお願い」
「承知しました。―――こい、エイリル」
キルツが扉へ向かうのを見て、エイリルは慌てて彼を追う。
「失礼します、ラストさん」
「隊長だ」
振り返ったキルツの、必要最低限の言葉が飲み込めず、エイリルは目を瞬いた。さすがに言葉が足りないと思ったか、キルツが付け加える。
「勤務中は隊長と呼べ」
「は、はい。すみません」
ラストは苦笑めいた笑みを浮かべた。
「ね? 融通がきかないでしょう」
「お言葉ですが、隊長」
「わかっているわ、公私は分けないとね。―――わたしもこの後打ち合わせだから、ここは閉めるわ」
立ち上がりながら言うラストに促されて、エイリルはキルツと共に廊下に出た。
「こっちだ」
キルツは迷いのない足取りで進んで行く。
「あの、クラーズさん。これからどこへ……」
「キルツでいい」
「え? あ、はい」
ほぼ初対面なのに名前でいいのかという戸惑いが伝わったか、キルツは歩きながら言う。
「家名ではなく個人名で呼ぶのは、近衛隊の特徴というか、慣習だ。他国では珍しいらしいが、この国の近衛兵の出自はまちまちだから、家や身分は関係なく個々を尊重するという意味を込めているのだそうだ」
「なるほど」
エイリルには家名がないので、その慣習はありがたい。見習いに入るとなったとき、いろいろな書類を書かなければならず、便宜上、適当な家名を名乗ろうかと思ったが、どう取り繕っても調べられれば露見すると、考え直した。ラストはエイリルの背景でなく、個人を買ってくれたのだと信じている。
「みんな、お名前と敬称でいいんですか?」
「大体は。役職で呼ぶのはラスト隊長とロヴァル副長、トーリス補佐くらいだな。あとは、自分の所属する部隊の隊長も隊長と呼ぶか」
「近衛隊はラスト隊長を頂点に、ロヴァル副長とトーリス補佐がいて、その下に更に幾つか部隊があるってことですか?」
「そんなところだ。詳しい話は午後の座学で」
会話は終わりだとばかりに口を噤み、キルツはすたすたと歩いて行く。どこかの部屋に行くのかと思いきや、階段を下りて建物を出た。裏手へ回ってしばらく行くと、演習場らしき場所が見えてくる。多くの兵士たちが訓練しており、城の敷地はどれほど広いのだろうとエイリルは空恐ろしくなってきた。もしかすると、城下町と同じくらいの広さがあるかも知れない。
演習場の端で足を止めたキルツは身体ごと振り返った。今なら質問してもいいだろうかと、エイリルは口を開く。
「あの、ここって」
「見ての通りだ。―――こい」
短く言い、キルツは僅かに重心をずらして身構えた。状況がよくわからないエイリルは、無意味に左右を見回す。
「……え」
「話を聞くより手っ取り早い」
「え。え? 組み手ってことですか?」
「肯定だ。こないならこっちから行くぞ」
「ええ!? ちょっ、ちょっと待っ……ひゃあ!」
問答無用とばかりにキルツは踏み込んで間合いを詰めてくる。エイリルは咄嗟に飛び退いた。逃げ出したくなるのを堪えて声を上げる。
「ほんとに待ってください! わたし、簡単な護身術しか!」
「経験の有無ではなく、今の力を知りたいだけだ」
「そう言われましても! あぶっ、危ない!」
次々と飛んでくる拳や蹴りを、辛うじて避けながら言えば、キルツが微かに笑った。
「組み手で危ないというのは初めて聞いたな。喋る余裕があるならもう少し上げるぞ」
「だっ、そっ、ぬあっ!」
そこから後は文字通り喋る余裕はなくなり、エイリルは必死でキルツの攻撃から逃げ回った。
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