五章 3

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 突然体調が悪化することもなく、兵舎の自室に戻っていいと言われたエイリルは、のんびりと廊下を歩いていた。まずは適当に散歩をしろと医者に言われたので、気の向くまま遠回りをしている。

 もうすぐ午後のお茶の時間になろうかという時分、薄い雲がかかっているが空気は乾いて、時折涼しい風が吹き抜けていく。散歩にはもってこいだ。

 まだ激しい運動は控えるよう言われている。当分の間は医務室に通わなくてはならない。しかし、少しずつ慣らして、問題ないとなったら見習いに復帰させてくれるとラストが約束してくれた。復帰させてくれと取り縋ってでも頼もうと思っていたエイリルは心底安堵した。自分など切り捨ててしまった方が早いし楽だろうに、ありがたいことだ。

 エイリルは今、医者の助手が洗濯しておいてくれた近衛兵の制服を着て、同じく保管しておいてくれた剣を腰に吊っているのだが、それすら重く感じる。

(十日間殆ど寝てたものね。随分なまってるな)

 こうして歩くのも物凄く久しぶりの気がして、しばらく散歩を続けたい気分だが、無理はするな、絶対にするな、どうなっても知らないぞと医者にしつこいほど念を押されたので、疲れない程度にしようと思っている。

 あまり足を向けたことがない一角までやってきて、なんとなく周囲が騒がしいことにエイリルは眉を顰めた。

「……の女……」

「―――…を捜せ」

「早く医者を……」

 言い交わしながら兵士たちの一団が通り過ぎて行く。

(何かあったの……?)

 妙な胸騒ぎを覚え、兵士がきたのとは逆方向に進んで行くと、いよいよ騒ぎは大きくなる。怒号が飛び交い、文官武官問わず右往左往している人々の中から、エイリルは事情を知っていそうな人間を捉まえた。

「すみません、何か……」

「ええ? 知らないなら邪魔しないで……あれ、近衛兵さん? もう情報が?」

 迷惑そうな顔をした文官が制服に気付いてころりと態度を変えたので、見習いだということは伏せて重ねて尋ねた。

「何があったんですか」

「逃げたんです、逆賊の女が。見張りを殺して」

 エイリルは息を飲んだ。―――現在、「逆賊の女」と呼ばれるのは一人しかいない。

「……どこへ?」

「それがわかったら苦労はしませんよ、東の方へ向かったという目撃談があるくらいです。手が空いているなら捜索を手伝っ……あ、ちょっと!」

 いてもたってもいられずエイリルは駆け出した。窓から外を窺い、東の方角を探る。

 城内には何千という兵士がいる。ここで逃げ出してもすぐに出入り口を固められて、見つかって抵抗すればその場で殺されてしまうかも知れない。それがわからないほどシルエラは愚かではないはずだ。しかし、先程の文官は見張りを殺したと言っていた。

(どうしてなの、エラ……どうしてそこまで)

 シルエラの行きそうな場所に心当たりなどない。目撃されたという東へ向かって闇雲に走るが、すぐに息が上がってしまう。エイリルは壁に手をついて上体を支え、肩で息をした。

 陽が傾きつつあるため、あたりは薄暗い。人気もなく、こちらは外れだったかとエイリルは踵を返した。そして、背後に立つ亡霊のような人影に目を見張る。

「……っ!」

 亡霊は右手を振り上げ、エイリルは咄嗟に仰け反ってそれを躱した。切っ先が前髪を掠める。

「あっ……」

 鈍った身体では踏みとどまれず尻餅をつくと、銀髪を振り乱した亡霊の顔が目に入った。

「エラ!」

 幽鬼のようなシルエラは無感動にエイリルを見下ろし、胸を蹴りつけた。衝撃で息ができず、エイリルは声もなく倒れ込む。

 仰向けになったエイリルの肩を押さえつけたシルエラは、再び右手を振りかぶった。喉元目がけて振り下ろされるそれをすんでの所で受け止め、押し合いになる。

「ど、うして、エラ……!」

「どうしてですって?」

 ク、と喉の奥で笑ったシルエラの頬には赤い飛沫がついている。おそらくは見張りを手に掛けたときのものだろう。両手は手枷がはまったままで、手にしている短剣は見張りの持ち物を奪ったのに違いない。どちらも赤いもので汚れていた

「国王を殺せば妻にしてくださるって仰ったの。約束だって。あたしは領主の妻になるのよ」

 亡霊かと見紛うような姿の中、双眸だけが炯々けいけいと、狂気じみた光を宿している。

「そんな……そんなの、ヴェストリ公だって、捕まったのに……」

「あたしが助けるわ、国王を殺した後でね。でも、その前にあんたを殺しておかないと。また邪魔するんでしょ? これまで何度も何度も何度も、あたしの邪魔ばっかり!」

 シルエラの手に更に力が籠もり、押し返すエイリル腕が震える。

「邪魔なんて、してない……!」

「嘘ばっかり。あたしが欲しいものはみんなあんたが横取りしていったじゃない。座長の付き人役も、師匠も、他にもたくさん、全部!」

「それ、は……」

 座長の付き人は劇場で一番の新入りがやる決まりだったし、踊りの師匠が多く稽古してくれたのはエイリルが特別下手だったからだ。なんでも人より上手くできて、踊りが一番だったから舞い手をやっていたシルエラとは違う。

 しかし、訴えても彼女の耳には入らないようだった。

「言い訳はやめなさいよ。劇場に火をつけたの、あんたじゃないの? あたしたちが襲われたのもあんたのせいでしょ。知ってるわよ、親は事故死、その後に売られた娼館も強盗に襲われて潰れたんですってね。全部あんたのせいよ。あんたが悪いものを呼び込んだのよ!」

「そんな、こと……」

「それなのに自分はのうのうと生き延びて、ちゃっかり近衛兵の見習いですって? あの後あたしがどんな思いをしたかも知らないで! なんであんたなの? そこにいるのはあたしでしょ? 相応しいのはあたし! あたしは努力してきたわ、死ぬほど! へらへら笑ってみんなのご機嫌取りばっかりで、楽に生きてたあんたとは違う!」

「楽、に、なんか……わたし、だって……」

「あんたが悪いのよ、一生歩けないくらいで許してあげようと思ったのに。どうせあの化け物をたぶらかして治させたんでしょう? その上、殺しても生き返ってくるなんて……あんたも立派な化け物よ!」

 エイリルは耳を疑った。

「まさか……膝……、わざと……?」

「当たり前でしょ、莫迦じゃないの?」

「なん、で……」

「ハ! 決まってるでしょ、あたしは昔からあんたが嫌いだった! 大っ嫌い! 何されても大丈夫ってにやにやして、気持ち悪いのよ! なのに、みんなあんたのことばっかり! お荷物が、媚びてちやほやされて、いい気になってんじゃないわよ!」

 シルエラは履き捨て、刃に更に力がかかる。

「あんたさえいなければ……、死ねばいいのにってずっと思ってた! あたしの前から消えてしまえってね! もういい加減に消えなさいよ!!」

 刃が喉に近付く。両腕は震えて、全体重をかけてくるシルエラを支え切れない。歯を食い縛っているので、言葉を返すこともできない。刃先がぷつりと皮を裂く感覚がした。今度こそ駄目かも知れないと目を閉じた瞬間、

「ハガラズ!」

 唐突に聞こえたイオの声と共に周囲の空気が一気に冷えて、エイリルは思わず目を開けた。自分の手だけを避けてシルエラの両腕と刃を氷が覆っているのを見て、瞠目する。

「な……!」

 驚きの声を上げたシルエラは力を緩めた。その隙にエイリルは彼女を押しのけて転がる。シルエラは床に短剣を叩き付けて刃の氷を砕くと、身体を翻してイオに飛びかかった。

「この……化け物がああああああ!!」

「イオくん!!」

 エイリルは跳ね起きて剣を抜いた。魔法を放とうとしたイオが間に合わずに蹴り飛ばされて壁に叩き付けられる。

 エイリルはシルエラの肩を狙って剣を振り下ろした。シルエラは身体を捻り、氷ったままの両腕を上げてそれを受け止める。剣は囮だ。エイリルはがら空きになったシルエラの胴へ膝を叩き込んだ。

「がっ……」

 潰れたような声を上げてシルエラはがくりと膝を折った。

「く……死ね、化け物、どもめ……」

 最後まで呪詛を吐き、シルエラは床に伏した。剣を取り落としたエイリルも、その傍らにへたり込む。身体が酷く重い。

「大丈夫か?」

 肩を押さえたイオが足を引きずりながら近付いてきて、エイリルは振り返った。

「わたしは平気。イオくんこそ……」

 問う前に、膝をついたイオにかぶりを振って止められた。

「……無理するなよ。こんなときまで」

 気遣わしげな声音で言われて、鼻の奥がつんと痛くなった。視界が滲んですぐに決壊する。溢れたものが頬を伝い、エイリルは慌てて両手で頬を擦った。両目も拭って、なんとか涙を止める。

「リル……」

「大丈夫……、大丈夫よ」

 エイリルは他に方法を知らない。哀しいとき、苦しいとき、辛いとき、己に大丈夫だと言い聞かせてやり過ごしてきた。泣いても何も解決しないどころか、往々にして状況は悪化したし、慰めてくれる人などいなかった。

 瞬きを繰り返して涙を飛ばしていると、不意に頭を撫でられた。驚いて顔を上げれば、困ったような、自分の行動に戸惑っているような顔をしたイオがぱっと手を引っ込める。

「おれが熱出したとき、リルがこうしてくれたから……」

 少年の不器用な優しさが、冷たいもので一杯になっていた胸に小さな温もりを灯してくれる。今一人だったらきっと、みっともなく泣き喚いていた。

「……ありがとう」

 無理矢理笑みを浮かべると、イオは痛みを堪えるような表情で目を伏せた。

 やがて、異変に気付いた兵士たちが駆けつけてくる。

「いたぞ、こっちだ!」

「君たち、襲われたのか? 怪我はないか?」

「はい、わたしは……」

 兵士を見上げて応えようとしたエイリルは、酷い目眩を覚えて額を押さえた。目の前が暗くなり、蹲る。

「おい、大丈夫か?」

「なんだこの氷」

「あれっ、なんで近衛兵が……」

「―――…」

 兵士たちの声が遠くなり、エイリルの記憶は一旦そこで途切れる。

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