三章 5

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 道具を片付けた初老の医者は気の毒そうにエイリルを見た。

「骨は大丈夫ですが、おそらく腱に異常があります」

「どれくらいで治りますか?」

 怪我の手当は一通り教わったので、答えはなんとなくわかっていたが、エイリルは尋ねた。医者はますます眉を下げる。

「きちんと治療をすれば、杖で歩けるようにはなるでしょう。ですが、元に戻るかというのは……難しいと言わざるを得ません」

「……そうですか」

「ここでできるのは応急処置だけです。早くもっと大きな町の医者に診せて、治療して貰ってください。それまでは安静に」

「はい。ありがとうございました」

 会釈をして医者は出て行った。一人残されたエイリルは、息をついて右膝に手を遣る。手当てされたことによって痛みは和らいだものの、立てるかどうかはわからない。

(大きな町のって、腕のいいお医者ならってことかな……)

 結局自力では立ち上がれなかったエイリルは、医務室に運び込まれて手当を受けた。右膝には大袈裟なくらい包帯が巻かれている。

 王都になら高名な医者はいるだろうが、診療代も高額に違いない。収入のあてがないエイリルには払える気がしない。

(……歩けないんだもの、兵士になれるわけがない。ましてや、近衛兵なんて)

 元々気が進まず、決心したのは国民権が欲しいという不純な動機からだたが、いざ諦めなければならないとなると残念に思う。見習いでいたのは一月ほどだが、皆よくしてくれたし、訓練も、大変ではあったが楽しかった。ことの顛末をラストに伝えなければと思うと、今から暗澹たる気分になる。

「……よし」

 ここで延々座っているわけにも行かない。一つ頷き、エイリルは診療台に伸ばしたまま上げていた右足をゆっくりと動かした。それだけでも痛んで顔を顰める。包帯の上から膝をさすっていると、扉が叩かれた。

「はい、どうぞ」

 返事をすると、遠慮がちに扉が開いてイオが入ってきた。診療台に半身を起こしているエイリルを見て心配そうな顔になる。

「大丈夫か?」

「うん。でも、当分は安静にって」

「だろうな。あいつ……もう勝負はついてたのに。絶対わざとだ」

「……そんなことないよ。エラ、あの後凄く慌ててたし、医務室までついてきてくれたもの」

「今はどこにいるんだよ。慌てる演技も、しないと故意に怪我させたって思われる」

「演技だなんて……」

 試合が終わっても舞台に戻ってこないエイリルに気付いたシルエラは、大層焦った様子だった。故意だとは思いたくない。

「大体、そんな酷い怪我じゃないから。お医者様は、すぐ歩けるだろうって」

 イオは顔を顰めて息をついた。

「嘘つけ。外で医者に話聞いた。元に戻るかわからないって言ってたぞ」

「聞いたの?」

「姉を心配する弟を装ったらあっさり」

 知られてしまったのかと、エイリルは誤魔化し笑いを浮かべる。

「……あは」

「笑い事じゃないだろ。治らないと近衛隊にも戻れなくなるんだぞ? あんたがいなくなれば、あいつが近衛隊に入る可能性が上がる」

 イオは目を逸らしたいことを容赦なく突き付けてくる。

 エイリルが候補から消えれば、代わりにシルエラ、もしくはマリアをという話になるのは自然だ。結局こうなるようになっていたのだと、エイリルは両手を握り締めた。無理矢理笑顔を作る。

「……仕方ないよ。それにね、わたしよりエラやマリアさんの方が兵士に向いてると思うんだ」

「あんたな……一生残るかも知れない怪我させられて、なんだよそれ」

「事故だってば。大丈夫、膝以外は元気だもの。近衛兵になれなくてもなんとかなるよ」

「そんなこと言ったって……」

 一旦口を噤んだイオは随分躊躇う様子を見せてから呟く。

「なんでおれに治せって言わないんだ」

「治せ、って……怪我?」

 首肯するイオへ、何故そんなことを言うのだろうとエイリルは首をかしげた。

「だってイオくん、あんまり魔法を使いたくないでしょ」

「……は」

 顰め面だったイオはきょとんとした顔になった。本当にわけがわからないというふうに言う。

「使いたくないのはそうだけど……、おれがそう思うのとあんたの怪我を治すの、なんの関係があるんだ?」

「関係あるよ。無理強いしたくないもの」

「おれの意思なんて、どうでも」

「よくない!」

 言葉の途中で強く遮ると、イオは僅かに目を見張った。己の存在の軽さを疑わない言葉に哀しくなって、エイリルは目を伏せる。

「大声出してごめん。……そりゃ、王様の命令とか、王子様の言うこととか、逆らえないこともあるかも知れないけど……いやなことは、いやって言っていいんだよ」

 自分の意思などどうでもいいと言う少年は、まだたったの十二歳だ。いろいろなものを諦めていい年ではない。王子の守り役という立場で己の意見を主張するのは難しいかもしれないが、それならその役目から解かれている時くらい―――自分の前でくらい、我が儘を言ってほしいとエイリルは思う。

 しばらく無言で考えていたイオは、顔を上げて口を開いた。

「……いやだ」

「うん、わかった」

「違う。あの女が近衛隊に入るのは絶対いやだ。あんたかマリアに近衛兵になって貰わないと困る。だから……治す」

 続いた言葉を聞いてエイリルは目を見開く。

「……いいの?」

「あんたが嫌じゃなければな。完治まで何週間もかかる怪我があっという間に治るのは、おれが言うのもなんだが、大分気持ち悪いぞ」

「気持ち悪いなんて思わない。……ありがとう」

 告げれば、イオは戸惑った様子で顔を背けた。

「……礼は、ちゃんと治ってから貰う。宿に戻ってからでいいか?」

「うん。怪我したのにいきなり普通に歩いてたら、変に思われるものね」

 立ち上がろうと動かすと右膝に激痛が走り、エイリルはバランスを崩した。咄嗟に椅子に手をついて、なんとか診察台から落ちるのは免れる。

「リル!」

「っ……平気」

 長座に戻って、無意識に詰めていた息を吐き出す。膝は痛むのだが、嬉しさで頬が緩むのを抑えられなくて、エイリルは片手で口元を覆った。気遣わしげだったイオが怪訝な顔になる。

「なんだよ、ニヤニヤして」

「え? えへへ、イオくん、今わたしのことリルって呼んでくれたなと思って」

「……へ?」

 イオは束の間ぽかんとして、次の瞬間一気に耳まで赤くなった。それを隠すように顔を伏せる。

「い……いきなり、だったから。……悪い」

「ううん。嬉しい」

「そんなことより! ……立てないくらい痛むのか?」

「え、う、ううん、今のはちょっと、びっくりしちゃって」

 慌てて首を左右に振り、エイリルは注意深く左足を床に下ろした。それだけでは痛みが増すことはなく、ほっと息をつく。しかし右足を動かすことができずにエイリルは固まった。やはり、少しでも力がかかると痛い。杖か何かないだろうかと見回すが、そう都合良く置かれているわけもない。

(……どうしよう)

 途方に暮れているとつとイオが動き、扉に鍵をかけた。振り返ってエイリルを制する。

「そのまま」

「でも」

「いいから。歩けないんじゃ帰れないだろ。足を引きずる振りくらいできるよな?」

「うん……多分」

 演技には自信がなかったがそれを言っても始まらないと思い、曖昧に頷いてエイリルは診療台に座り直した。戻ってきたイオが正面に置かれたい椅子に腰掛け、エイリルの右膝に片手を伸ばして目を閉じる。

「―――…」

 イオが低く二言、三言呟くと、翳された掌が淡く光り出した。すると患部がじわりと熱を帯び、エイリルは小さく喉を鳴らした。強まる光に比例して熱も上がり、消えると同時に冷める。気がつけば、痛みはすっかりなくなっていた。

「……どうだ?」

 手を引っ込めたイオが心配そうに首をかしげ、エイリルは頷いて恐る恐る右足を曲げ伸ばししてみた。覚悟していた痛みは訪れず、ゆっくりと立ち上がる。両足で立っても痛むことはなく、右足が動かしづらいということもない。完全に元に戻っている。

「痛くない……」

「よかった」

 微かに笑んで立ち上がったイオにエイリルは思わず抱きついた。

「ありがとう!」

 安心したら涙が出そうになって、イオの頭に頬を押しつける。もう二度と元のようには歩けないかも知れないということで、実はとても落ち込んでいたのだと今更ながら気付く。イオが治してくれなかったら、きっと絶望するしかなかった。

「ちょ、胸っ……く、苦しい!」

「あ、ごめん。つい」

 エイリルが腕を解くと、イオは肩で息をしながら後退って距離を取った。よほど苦しかったのか、顔が赤らんでいる。

「あんなに痛かったのに……凄い、イオくん」

「そんなことない。今回はたまたま……魔法だって、万能じゃないんだ」

「でも、わたしは助かったもの。本当にありがとう。イオくんがいてくれてよかった」

 イオは一瞬動きを止めると、双眸を一杯に見開いた。それから目を泳がせ、くるりと踵を返す。

「……つ、杖みたいなの探してくる」

 ぼそぼそと言ってイオは医務室を出て行った。もし誰かきて立っているところを見られたら不審に思われるだろうから、エイリルは再び診療台に腰を下ろす。

(王都に着くくらいまでは痛い振りしたほうがいいのかな?)

 大会が終わるまでは留まるつもりだ。シルエラは帰りも別行動なのだろうかと考えて、そういえば今何回戦まで進んでいるのかが気になった。脚の心配がなくなった途端に別のことを考えている己に気付き、現金のものだと一人で苦笑する。イオには感謝してもし切れない。

 再び扉が叩かれ、イオにしては戻るのが早いと重いながら、エイリルは返事をする。

「どうぞ」

 入ってきたのはマリアだった。彼女は気遣わしげにエイリルを見る。

「大丈夫ですか? お医者様に、随分酷い怪我だと聞きました」

「ええ、でも、きちんと治療すれば治るって聞いたので、大丈夫です」

 医者がどこまで話したかわからないので、エイリルは言葉を濁した。マリアの愁眉は開かない。

「勝負とは言え、シルエラさんはやり過ぎです。膝を蹴り抜くなんて、どうなるか考えなくてもわかるのに……酷い」

 珍しく強い語調のマリアに驚いたが、自分のために怒ってくれているのだと思うと、エイリルは嬉しくなってしまう。

「ありがとう、マリアさん。でも、エラもわざとじゃないみたいですし。事故ですよ」

「事故って……リルちゃんは人が好すぎです」

「そんなことありません。エラ、お世話になった人が見にきてくれたから、張り切っちゃったのかも」

「お世話になった人?」

「ええ、昨日町でエラ会ったときに一緒にいたんですけど」

 シルエラと一緒にいた美女のことを掻い摘んで説明すると、マリアはどういう顔をすればいいか迷っているような、なんともいえない表情になった。

「エラ、そのことマリアさんには話さなかったんですか?」

「ええ、今初めて聞きました。そうですか、お世話になった女性が……」

 呟いてから一つ息をついて、マリアは首をかしげた。

「立てますか? 宿までご一緒します」

「あ、今、イオくんが杖を探しに行ってくれてて」

「イオくんが?」

 目を見開くマリアへ、エイリルは頷く。

「だから、マリアさんはエラの方に行ってあげてください。わたしたちの誰も試合を見てなかったら、それはそれで拗ねちゃいそうですから」

 冗談めかして言えば、マリアはまだ心配そうだったが、やがて了承して医務室を出て行った。

(エラ、勝ち進んでるといいけど)

 本戦は今日中に終わるのを予定されているが、試合が長引けば翌日に持ち越されることもあるという。

 去年の結果を越えるには優勝しかない。ラストの面子のためにも頑張って欲しいと、エイリルはシルエラの勝利を祈った。

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