二章 3

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 ぽつりぽつりと幌を叩いた雨音は、あっという間に勢いを増した。

(雨……)

 ラストにレゾリーヴ行きを言い渡されてから二日後、エイリルとイオは車上の人となっていた。

 遠くない記憶が蘇り、エイリルはふるりと身体を震えさせた。隣に座っているイオが顔を上げる。

「寒いか?」

「ううん、大丈夫。ちょっと……」

「ちょっと?」

「……なんだろ、久しぶりの遠出だから緊張してるのかも」

 エイリルたち一行が襲われた日も雨で、馬車に乗っていた。あれ以来、馬車に乗るのが怖くて避けていたので、今回ほぼ一年ぶりに馬車で移動している。

 正直なところ未だ躊躇われるのだが、馬に乗れないイオを延々歩かせるわけにもいかず、馬車を使うことにしたのだ。

「ふうん……」

 イオはそれ以上何も言わず顔を正面に戻したが、ふと何かに気付いた様子で首を巡らせた。朝一番の便だったせいか、客はエイリルとイオの他には中年の男性が一人だけである。座席などはない幌馬車なので、男性は前方に、エイリルたちは後方に固まって座っている。

「どうかした?」

「いや……」

 イオはかぶりを振ったが、すぐにまたぴくりと幌を見上げる。同じように見上げてみてもエイリルには何も見えず、なんだろうと首を捻ったとき、微かに太鼓のような音が聞こえた。

「ん? 雷かな?」

 エイリルが呟くと同時にイオがぱっと振り返り、それを後悔するかのように眉を寄せて顔を正面に戻した。その横顔は強張っており、雷が怖いとまではいかなくとも苦手なのだろう。

 少し考えてエイリルは荷物から上着を引っ張り出した。もう仲春だが、冷えることもあるかも知れないと持ってきた丈の長いものだ。袖を通さずに羽織り、イオにいざり寄る。

「えい」

「うお!?」

 頭から被せるように後ろから抱きつけば、イオは声を上げて身を捩った。それでもエイリルが放さないと、驚いた顔で振り返る。

「な、ななな? 何すんだいきなり!」

「やっぱり寒くなっちゃって。くっついてたほうが暖かいじゃない?」

「おれは温石じゃない!」

「少しの間だけ。雨が止むまででいいから、お願い」

「……止むまでだぞ」

 不服そうだったが小さく頷き、イオはぷいと顔を背けた。立ち膝でいたエイリルは腕を解いて、イオに身体を寄せて座り直す。一枚の上着を二人で羽織るのは窮屈で、少年は居心地悪そうに身動みじろぎしていたが、やがて諦めたのか大人しくなった。

 雷はどんどん近付いてくる。今進んでいる街道は周囲にちらほらと背の高い木が生えているため、馬車に落ちることはまずないだろうが、ごろごろという低い音が聞こえる度にイオの肩が揺れる。イオの耳を塞いでやろうかと思ったが、それをしたら今度こそ逃げられそうなので、エイリルはイオの頭に頬を寄せた。

 イオの身体は温かい。寒くなってきたというのはただの口実のつもりだったのに、なんだかほっとしてしまって、己も無意識のうちに怯えていたことに気付く。

(……早く通り過ぎちゃえばいいのに)

 馬車と雷雨に過去が重なる。一度目は両親を亡くし、二度目は仲間を失った。どうしても、三度目の何かがある気がしてならない。

 不安ばかりが膨らんでいく気がして、エイリルは強く目を閉じた。祈るように己に言い聞かせる。

(大丈夫。不安になるとその心配ごとを引き寄せちゃうもの。アールヴレズルは治安がいいって聞いたし、きっと大丈夫)

「……ル。おい、エイリル」

 イオの声が耳に入り、エイリルは我に返った。慌てて返事をする。

「何?」

「……重いんだけど」

「あ、ああ、ごめん!」

 いつの間にか寄りかかってしまっていたらしい。頭を上げると、イオはやれやれとでも言いたげに息をついた。その瞬間、閃光と同時に轟音が鳴り、細い肩がびくりと跳ねる。鳴り止んでから、ばつが悪そうに窺ってくるのには気付かないふりをして、エイルルは殊更に明るい声を出した。

「ねえ、わたしのことはリルって呼んで。親しい人はみんなそう呼んでくれるんだ」

「……おれは別にあんたと親しくないけど」

「え」

 まさか反論されるとは思わず、目を瞬いた。

「そだね……」

 エイリルとしてはすっかり友達のような感覚でいたのだが、イオは違ったらしい。相手の気持ちを考えず、早合点してしまうのは自分の悪い癖だ。こうしてくっついているのも、馴れ馴れしすぎると苦々しく思われているのだろうかと、今ようやく思い至る。

「ごめんね」

 エイリルは少しだけ身体を離した。戸惑った様子でイオが見上げてくる。

「わたし、すぐ調子に乗っちゃうから。嫌だったら言ってね」

「あ……」

 イオの言葉の途中で馬車が大きく揺れた。馬のいななきとそれを宥める御者の声も聞こえて、エイリルは息を飲む。

 雷にも怯えなかった馬が怯える何かが近付いてきているのかもしれない。旅をしているとき、危険を真っ先に察知するのはいつも馬だった。

「何かあったのかね?」

 前の方に座っていた男性が御者へ声をかけるが、御者は馬を宥めるのに必死のようで明確な返事はない。エイリルは徐々に早くなる鼓動を落ち着けようと胸元を押さえ、垂らされている戸布を捲って幌の後ろから外を覗いてみた。疎らだった木々はいつの間にか密生しており、遠くの木立の間に黒い影が見え隠れしている。

(……何あれ)

 まさか、という驚きと、やはり、という諦めが交錯し、胸がつかえたようになる。馬が怯えてしまっているせいで馬車の揺れが酷く、そのうちに影に追いつかれてしまうだろう。

 すくんでいる場合ではない。見習いとはいえ近衛兵―――武官である自分が皆を守らなければならない。

(わたしにできる……?)

 戦闘訓練は受けたが、実戦経験はまだない。しかも相手は十中八九獣、悪くすれば危険種だ。通用するかはやってみないとわからない。

(倒すことはできなくても、追い払う……囮になるくらいなら)

 覚悟を決め、エイリルは荷物から剣を外した。護身用にとラストから渡されたものだが、まさか使うことになるとは思わなかった。

 エイリルの様子に気付いたイオが振り返る。

「……何する気だ」

「イオくん、わたしが降りたら御者さんに、全速力で馬車を走らせてくれるよう言って貰える?」

「は? 何言って……」

「時間を稼ぐ。先に行ってて」

「あんた一人で? 無茶だ!」

「少しでも戦えるのはわたししかいないもの。―――お願いね」

「待て!」

 布を跳ね上げて飛び降りようとした瞬間、イオにしがみつかれてエイリルはつんのめった。危うく幌に顔をぶつけそうになる。

「は、放して、間に合わなくなっちゃう!」

「……おれが」

 独白めいた呟きを落とし、イオは小さく喉を鳴らした。それから、思い切ったように言う。

「おれがなんとかする。あんたは、御者とおっさんの気を引いて、御者には馬車を走らせるように言ってくれ」

「なんとかするって、どうやって?」

「忘れたのか? おれは……」

 イオが途中で言い淀み、エイリルは僅かに目を見開く。―――彼は、魔法を使うつもりなのだ。

 見上げてくる緑色の双眸には迷いがある。おそらくイオは魔法を使いたくないはずだ。それなのにやると言ってくれるのは、エイリルが頼りなく、自分で手を下した方が確実だと考えたからだろう。己に力があれば、せめて迫りくるものに対処できるならば、イオにこんな申し出をさせずに済んだ。

「やっぱり駄目。反撃でもされたら」

「そんなヘマしない。おれなら降りなくてもやれる」

「そうじゃないよ。心配なの、イオくんが」

 睨むような表情だったイオが、息を飲んで目を見開いた。そして、首を左右に振ると顔を伏せる。

「大丈夫だ。あんたが心配するようなことは起きない。早くしないと追いつかれるぞ」

 エイリルは歯を食いしばって振り返った。影は先程よりも増え、大きくなっている気がする。自分一人で手に負える数ではないと、無力感を覚えて剣を握り締める。

「……わかった、お願い。でも無茶はしないで。約束だよ」

 イオは一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐに頷いて後方を睨んだ。エイリルは剣を手にしたまま、転ばないように姿勢を低くして前へ向かう。

「お怪我はありませんか」

 声をかければ、荷物と柱にしがみついていた男性は眉を寄せてエイリルを見上げた。

「私は平気だ。お嬢さんこそ、立ってないで座りなさい。危ないよ」

「ええ。―――御者さん、馬車の速度を上げられますか? 後ろから何かきてます。魔物かも」

「なんだって!?」

 必死の形相で振り返った御者は、裏返った声を上げて手綱を打った。馬が嘶いて走り出すと馬車の揺れが更に大きくなり、さすがに立っていられなくなったエイリルは床に手と片膝をついた。刹那、後方で雷を十も束ねたような光が閃き、思わず目を庇う。

「な、なんだ今のは! 雷か? 落ちたのか?」

 泡を食った様子で周囲を見回す男性を置いて、エイリルは這うようにしてイオの許へ戻った。イオは小さな身体を隅に収めるように片膝を立てて座っている。荷物は転がって逆の隅へ行っていた。

「大丈夫?」

「ああ。目眩ましのつもりだったけど、驚いて逃げてった。多分、ただの獣だな」

「そうじゃなくて、イオくんが。怪我とか、気分が悪いとか、ない?」

 通じなかったらしいと付け加えると、イオはきょとんとしてから首を左右に振った。

「……ない」

「そう、よかった。ありがとう」

「何が?」

「追い払ってくれて。本当は、わたしがやらなきゃならなかったのに」

「そんなの……できる奴がやればいいだけだ。おれとしては、あんたを置いてって一人であの女に会うほうが……、だから、気にするな」

 半ば俯き、ぼそぼそと言い訳じみたことを言うイオの頭を衝動的に撫でて、エイリルは慌てて手を引っ込めた。顔を上げたイオが眉を顰めるのを見て、何か言われる前にと口を開く。

「そうだ、もう大丈夫だって御者さんに教えぎゅ」

 馬車の揺れのせいで舌を噛んでしまい、エイリルは両手で口元を押さえた。目を丸くしたイオは顔を背けてイオは肩を震わせていたが、やがて堪りかねたように吹き出す。

「えぎゅって……えぎゅって、どういう……くくく」

(あ、笑った)

 初めて顔を合わせてからこちら、イオが笑うのを初めて見た気がする。舌は涙が滲むほど痛かったが、イオが笑ってくれたからいいかとエイリルも笑った。

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