第16話 和也の記憶
シュリーが入院して三日後のことだった。病室に突然二人のアメリカ人が入ってきた。そのうちの一人は旭川のラーメン屋で見かけた上品なスーツの男だった。
「シュリー、どうしてしまったんだ。」
男は大げさなゼスチャーで頭を抱えて、シュリーの枕元に駆け寄った。
「早く意識を回復してくれよ。相談したいことがたくさんあるのに。」
もう一人の秘書らしき男は黙ってその様子を見守っていた。ひとしきり嘆き終わると、男は突然立ち上がり壁際に遠慮していた英次の方をふりかえった。
「君が第一発見者か。」
突然の質問に英次はとまどった。そのときステファニーが病室に戻ってきた。
「スティーブ、来てくださったのね。」
「ステファニー、シュリーの容態は?一体何が起こったんだ。」
「意識が戻らないの。身体機能は全く正常だと医師は言うのだけれど…。」
「くそっ、この一番大事なときに彼に倒れられるとは。こんな田舎じゃなく、サッポロの大病院に入院したほうがよいのではないか。」
男の騒ぐ様子はどこか演じているようで本心が見えない。なぜか胡散臭さを感じてしまう。次の瞬間には表情がすっかり変わって、平静に戻っている。
「ステファニー、シュリーが手に持っていたという物質だが、こちらで預かって解析にかけることにしたよ。」
「ああ、あの美しい宝石ね。」
発見時の状況を英次がステファニーに話したとき、シュリーが手にしていた翡翠色の物質を見せた。二人は美しい宝石のような物質が何であるかをあれこれと話し合ったが結論は出なかった。ステファニーは上司に報告するためそれを預かりたいと言った。それが何であるかを調べられるかもしれないということだったので、委ねることにしたのだ。
「既知の宝石ではないかもしれません。現在専門の研究チームに預けてあります。まもなく結果がでるでしょう。」
秘書らしき男は、ジョンと呼ばれた。
「スティーブ、紹介するわ。こちら、エイジよ。エイジ・ツヅキ。シュリーの古くからの友人なの。彼を助けて、病院まで運んでくれたのよ。」
「そうだったのか。初めまして、S&F社のスティーブ・ロードです。」
英次は、その名を聞いて驚いた。英次の前職はIT関連企業である。急成長したS&F社についてはもちろん知っていた。しかしそのCEOという最高の地位にある立場のスティーブの顔と名前は今初めて一致した。
「S&F社の…。」
「驚かれるのも無理はないわね。世界トップクラスの企業経営者がこんなところに現れるとは思わないわ。エイジ、スティーブとシュリーは仲良しなのよ。」
ステファニーの「仲良し」という言葉には、含みがあるように聞こえた。
「君はシュリーとはいつから知り合いなの。」
スティーブは人懐こい笑顔で英次に聞いた。
「そうですね。二十年も前になるかと思います。」
「二十年?」
「ええ、彼が『ギアー』の時代の…。」
「そうか、わかったぞ。君はギアーのファンクラブに入っていたのか。」
英次は答えなかった。
「それは古いね。ギアーのコンサートに行ったことがあるかい。」
「ええ、あります。」
「僕も大ファンだった。学生時代にはバンドを組んでアマチュアで活動したこともあったんだよ。まあ、彼のようには才能がないことを早くに見極めて卒業したがね。」
和也が音楽の話をする時のように、目の前の大企業のCEOも勢い込んで音楽の話をし始めた。ギターを弾くまねをするスティーブはまるで少年のようだった。
「それにしても一刻でも早く意識を回復するように僕も祈っている。彼がいないと僕は本当に困ってしまうんだ。」
スティーブは再び嘆きのポーズをとった。なんとも感情の起伏が激しい人物のようだ。スティーブは英次に何度も「彼を頼む」と言って、帰っていった。
シュリーの意識が回復したのは、入院してから一週間が経過した早朝だった。この日シュリーの意識が回復しない場合は、一度東京に戻ろうと考えていた矢先のことだった。
「わかりますか。英次です。」
静かに目を開けたシュリーは英次を認識し、だまってうなずいた。そして小さな声で言った。
「長い夢を見ていた。」
それ以上は語らなかったが、英次はシュリーの意識が回復したことをステファニーに連絡するため、外に出た。ステファニーにはすぐに連絡が取れた。留守電には一件のメッセージが入っているのに気づいた。
「英次さん、至急連絡をください。和也が紀伊の山中で保護されました。私はこれから現地に向かいます。」
慌てた様子の翔子からの伝言だった。英次はすぐに翔子に折り返した。
「翔子さん、英次です。今、留守電を聞いて。申し訳ない。」
携帯の向こうから翔子のほっとしたような声が聞こえてきた。翔子の話によると、昨日の夕方、山のふもとでうずくまっている和也が発見され警察に保護された。和也は自分の名前や住所を言うことができなかった。警察は身につけていた携帯電話から最初に英次に連絡をしたがつながらず、翔子に連絡をし、身元が判明した。現在病院で傷などの手当を受けたが、翔子が駆けつけても、和也は全く反応しない。病院では一時的な記憶障害ではないか、と言っている。東京の病院を紹介されたので、今日これから和也を連れて東京に戻るという。
「英次さん、今どこにいらっしゃるの。できれば、私たちが東京についたらなるべく早く来てほしいの。私一人でどうしたらよいのか…。」
「翔子さん、落ち着いて。僕もなるべく早く東京に戻ります。今、北海道です。和也と僕は同時に出発して、北海道と紀伊に向かったんです。」
なぜ和也が紀伊の山中に一週間もいたのか。何度連絡してもつながらず、シュリーの傍についている間、和也に何が起こっていたのか。病室へ戻る足取りは重たかった。
「どうした。顔色が悪い。」
シュリーは様子が違う英次を気遣った。
「いえ、大丈夫です。あなたこそ大丈夫ですか。」
「カズヤはどうしている。」
シュリーは突然和也のことを口にした。英次の顔には明らかに動揺の色が浮かんだ。
「何かあったのか。」
英次は答えることができなかった。
「信じないかもしれないが、私は和也に会った。」
英次はシュリーが横穴に入ってしばらくした後、和也から電話あったことを思い出した。あの時和也はシュリーが居た、と言った。
「カズヤに何かあったなら、私はもう大丈夫だから行きなさい。」
「兄さん。」
英次の声は消え入りそうだった。
「私も体力が戻ったら、すぐに東京に行く。その時にまた話そう。」
英次の連絡を受けて駆けつけたステファニーに後を任せ、英次は空港に急いだ。
和也はすでに自分の勤める大学の付属病院に入院していた。英次は空港からすぐに駆けつけたが、翔子の言うとおり、病室に入っても和也は全く反応しなかった。視線は目の前の人物を判断できずにどこか遠くを見つめている。
「和也、俺だ。わかるか。」
やっとシュリーの意識が回復したというのに、今度は和也がおかしくなってしまった。英次はこの状況を受け入れがたく困惑した。
「ずっとこんな様子なんです。」
翔子は英次に耳打ちをした。一体何が起こったのか。英次は和也とシュリーの身に起きたことを、関連付けずに考えることは難しいような気がした。シュリーは和也に会った、と言っている。和也も電話で同じことを言っていた。
「和也が発見されたときのことを教えていただけますか。」
廊下に出た英次と翔子は長椅子に腰掛けた。
「発見されたのは、奈良県の天川村というところです。」
天川に行くことは英次も聞いていた。
「ある山のふもとで村の人に発見されたということでした。でも、和也が借りたレンタカーはそこから十数キロ離れた場所に放置されていたそうです。その車は三日ほど前に不審車として警察に届けられていました。」
「記憶以外は問題ないのですね。」
「検査の結果、今のところ告げられているのはそのことだけです。」
「翔子さん、実はシュリーがこの一週間意識不明だったのです。」
翔子はシュリーという言葉を聞いて顔色を変えた。
「今朝、意識を回復したのです。一週間前、僕は北海道の層雲峡付近で調査をしていました。そこに偶然シュリーが来たのです。彼はフォックスが現れた場所の近くにあった横穴に入り、そこで倒れました。その時ちょうど和也は僕の携帯に電話をかけてきた。そしてこう言いました。『今、シュリーが現れた』と。」
翔子は英次の話がのみこめず、何もコメントできずに黙って聞いていた。
「僕とシュリーは北海道に居て、和也は紀伊に居た。和也はシュリーを見た、という。そして今朝、シュリーが目を覚まして『信じられないかもしれないが、和也に会った』と言ったのです。」
「それって。」
「シュリーが意識不明の夢の中で和也に会った、という意味なのか、それとも倒れる直前に、和也がシュリーを見たのと同じように現実に見た、という意味なのかはわかりません。体力が回復したらシュリーもすぐにこちらに来ると言っています。」
翔子はうつむいた。まだ完全にシュリーへのこだわりが消えたわけではない。
「僕らがしっかりしないとだめですね。彼らに何が起こったのか。」
「フォックスに関係があるのですか。」
「わかりません。でも二人ともフォックスの情報をつかむためにとった行動によって、このような状況を招きました。だから全く関係ないわけではないのでしょう。僕は一度自宅に帰って出直してきます。交代で彼に付き添うことにしましょう。」
「あなたは僕のことを知っているのですか。」
和也が英次に語りかけたのは、それから二日後の夕方のことだった。このとき、和也の目は英次に焦点をあわせていた。
「そうだよ。君と僕は二十年以上前から知り合いなんだ。」
「そうですか。」
感情を表すことなく、和也はつぶやいた。
「全く覚えていない?」
英次はなるべくおだやかに聞いた。和也はしばらく考え込んた。
「思い出そうと努力すれば思い出せるような気がする。でも思い出したくないことまで思い出しそうで怖いです。」
そばにいた翔子がはっとしたように和也を見た。英次も翔子の心情を察した。今、和也が思い出したくないこととは翔子との関係についてなのかもしれない。
「無理せず、自然に思い出すことだけ受け止めてごらんよ。そんなに悪いことばかりじゃないはずさ。」
英次は努めていつもどおりに接するようにした。こんなにも生気を失っている和也を見るのは初めてのことだった。記憶を失っている友人に自分たちの共通の思い出を語ってもよいものなのか、英次は迷いながら、和也が質問してくる言葉に少しだけ関連させて話すように心がけた。
「僕はどんな人間だったのですか。」
和也は答えに窮するような質問をしてくる。
「君は周りの人間の気持ちを明るくさせる根っからの前向き人間だよ。いつも僕はそれに励まされてきた。」
「そうですか。じゃあ今は逆の立場にいるわけですね。」
「まあね。今まで散々こちらが迷惑かけてきたから、今回は僕が君に返さなければならない番だよ。」
和也はかすかに微笑んだ。見ず知らずの人間に世話をされていることが心苦しかったのだろう。英次の言葉で少しは安心したようだ。
数日が経過し、シュリーから退院の連絡が入った。東京に戻るという。
「カズヤの様子は?」
「記憶を全く失っている状態です。どんな言葉をかけてよいか迷いながら話をしています。」
「そちらに着いたら、カズヤに会いたい。」
「ええ、あなたに会えば何かきっかけが得られるかもしれません。」
シュリーが病院にやってきたのは、翌日の午後のことだった。外見的には顔色も戻り元気そうに見えた。和也はこの背の高い外国人が入ってきたことで、一瞬おびえたような表情を見せたが、次にはじっと様子を観察するように見つめ続けた。そして、彼が持っていた楽器ケースのようなものを見ると興味をそそられたのか、それは何か、と聞いた。
「カズヤ、元気か。これはリュートという楽器だ。」
「リュート?」
英次もはじめて聞く名前だった。シュリーはケースの中からギターのような楽器を取り出した。胴の部分はギターよりもふっくらと丸みを帯びている。リュートとは、日本の琵琶の原型ともいわれている楽器だ。
シュリーはベッドの傍に寄ると、リュートを爪弾き始めた。そして静かに唄いはじめた。和也はしばらくリュートを見つめていたが、目を閉じてその音色に聴き入るような様子を見せた。シュリーが作曲したものに比べるといかにも日本風の落ち着いたメロディーだ。西洋的な音楽とは大きく違う印象を英次は受けた。
「昨日の戦の勝利により、帝からお言葉をいただいた。」
リュートの音に重なるように、突然、和也が言い放った。英次は驚いてベッドの上の和也を見た。和也は目を開け、まるで前方に何者かがいるように、宙をにらみつけていた。
「帝は続けて勝利することにより、京に再び上るつもりでおられる。戦はまだまだ続くだろう。われらの帝がこの国唯一の帝であることを敵に認めさせるまで気を抜いてはならない。」
さきほどまでの気弱な和也とは一転して、鋭い眼光を持つ野武士のような容貌の和也がそこにいた。英次の驚きをよそに、シュリーはリュートを奏で続けた。
「皆の者、今宵はくつろぐがよい。大塔様よりお許しをいただいた。勝利の酒で祝うとしよう。」
和也はそう言うと右手を高く掲げ前に突き出した。そして右肩からゆっくりとベッドの上に倒れこむとそのまま意識を失った。
「和也、和也、大丈夫か。」
英次はその様子に慌ててナースコールを押そうとした。
「エイジ、おそらく彼は大丈夫だ。そのままで。」
シュリーが英次を制した。英次は和也の顔を覗き込む。寝息をたてて眠っている。
「一体、何が起こったのです。」
シュリーはリュートをケースにしまうと、ベッドに近寄り、和也に毛布をかけた。
「説明する。一緒に来てくれ。」
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