第15話 光と闇の世界で
熊野に入るには、いくつかのルートがある。伊勢方面から入ることもできるし、奈良の吉野から熊野に直接入る方法もあったが、窪田の助言で和也は南紀白浜から入ることにした。白浜の近くにある南方熊楠の博物館にも寄りたかったのだ。自分と畑は違うが、特異で幅広い分野の研究者として著名な熊楠には以前から関心を抱いていた。
南紀の空は高い。台風が来るなど全く予想できないほどに、空は澄み渡って太陽は輝いていた。飛行機雲が細く長くどこまでも消えることなく続き、より空の高さを感じさせた。白浜はリゾート地のため、多くの観光客が訪れるが、紀伊半島自体が太古から貴人たちの避暑地であり、巡礼の地として存在し続けてきた。和也は空港でレンタカーを借り、早速出発した。とりあえず南方熊楠博物館に向かうことだけ決まっており、あとは気の向くまま直感で動こうと考えていた。そのため今夜の宿すら決めていない。連休なので、有名なホテルは満室だろう。ここは冬場の北海道のように寒さ対策も必要ない。車さえあればどこでも寝られる、と気軽な一人旅だ。
熊楠博物館の駐車場には、様々な地域のナンバープレートが見られた。連休中ということもあり、遠出してくる人々も少なくないようだ。和也は車を留め、早速館内を見学することにした。近代の学者には気概を持った大学者が多い。熊楠も激動の時代に信念を貫いた、そうした学者の一人だった。和也は時々思う。歴史上に名を残す昔の偉人たちは、なぜ命を懸けて自分の使命を果たすことができたのだろうか。今の自分たちは快適な生活が最も優先であり、信念や使命といったことは後回しである。それだけ平和な時代だからということであろうが。自分自身を振り返れば、それでも「この道しかない」という気持ちで進んできたのは確かだ。しかし、国運を背負うような時代とは違い、やはりどこか使命感に欠け、自分だけのために研究を続けてきたような気もする。
和也は比較的一人での行動を好む。若い頃から平気でどこでも一人で放浪する癖があった。大学時代、英次には内緒でシュリーを探しに海外へ行った時も一人だった。
紀伊半島に来たのは初めてのことだったが、空気が自分に合うのか、なぜか初めてとは思えなかった。どちらの方面に向かえばよいのか、自然に判断することができる。一日目は海沿いを走り続け、夕方近くになって那智勝浦に到着した。今夜はこの付近で宿をとろうと決めた。和也はまず町の温泉を探した。ここには昔のお伽話と同じ名前の有名な温泉旅館がある。最初は温泉だけ入るつもりだったが、フロントで訪ねると運よく部屋が空いているという。和也は泊まることに決め、チェックインした。まずは温泉だ。洞窟のような岩に囲まれた温泉に浸って運転の疲れを癒す。浴衣に着替え、施設内のすし屋で刺身を魚に日本酒でも飲めば、確かにこの世のすべてを忘れて極楽気分だ。その夜、和也は東京で起こっていることや旅の目的も忘れてぐっすりと眠ることができた。
深い眠りの中で夢を見た。木々が豊かに覆い茂った山の奥に小さな集落が見える。古びた小屋が点在し、厩らしき離れの外に一頭の馬がつながれていた。小さな子どもたちが木の棒を持って走り回っている。母親たちだろうか、女たちが畑仕事をしたり、川から水を汲み上げたりしている。集落の中心には比較的立派な造りの屋敷があった。屋敷の前には十数人の男たちが木刀を持って掛け声をかけながら鍛錬している。まるでテレビの時代劇だ。一糸乱れぬ男たちの動きの前で木刀を肩に置きながら指導している鋭い目をした一人の男がいた。和也はその人物にはっきりと見覚えがあった。和也の意識はその男に注がれた。そして男が次にとろうとしている言動が手に取るように理解できた。和也はふと目を閉じその男が次に言う言葉をつぶやいた。
「戦の時は近い。気を抜かず鍛錬せよ。」
その言葉を言い終わったとたん、和也は自分の身体が急降下するような感覚にとらわれた。
「うわっ。」
和也は大声を挙げて夢から覚めた。いつの間にか夜が明け、和室に朝の日差しが細長い青と黄色の筋となって差し込んでいる。
「なんだ。夢か。」
夢というにはあまりにも鮮明で、脈が速くなっているのがわかる。あのまま落ち続けたらどうなっていたのだろうか。それにしても夢の中に出てきた男が気になる。自分が見た夢とはいえ、なぜ自分は彼の言動をはっきりと予測することができたのだろうか。布団の上でもやもやと夢の内容をたどっていたが、しばらくして頭の中もすっきりと晴れてきたので、和也はそのまま起き上がった。夢見のわりには、身体の調子はすこぶる良いのだった。
那智勝浦から瀞峡沿いを遡りつつ、和也は車がやっと入れる山間の道を進み続けた。目的地は十津川・天川の付近である。そこに伝わる「光狐」の伝承を確認する。旅立つ前、和也は英次から紹介を受け、窪田を訪ねて「光狐」に関する伝承地域の詳細を教えてもらった。しかし三十年も前の情報のため、現在の住民がそれを知っているかどうかはわからない。
紀伊の山林は豊かで緑が濃い。北海道の雄大で比較的平坦な大自然に比べ、紀伊は平地が狭く急斜面に覆われているが、日本古来の自然がそのまま残っているようにも思える。両者は歴史的にも対極をなしている。紀伊は神の領域であり、修行の場であり、都に近い分、表舞台である中央の歴史に絡みながらその闇を引き受けてきた場所である。北海道は蝦夷の極地であり、内地の人間がアイヌの領地に入り込み、この百数十年の間に作り上げられてきた新天地なのだ。和也は北海道に行くといつも解放感を味わうことができた。しかしなぜか初めて訪れたはずのこの地には懐かしさを覚える。それは歴史の長さと濃さから生まれる空気が、奥底に眠る日本人としての自覚を呼び覚ますからなのかもしれない。
地図上ではそれほどの距離ではないのに、走っても走っても同じところにとどまっているような錯覚に陥る。誰かが雑誌記事に書いていたことを思い出す。「天川は特別な土地だから誰もが行き着くことができる場所ではない…。」たしか有名な歌手か誰かだったように記憶している。その言葉通り、むやみに行けるような気楽な道ではなかった。
ようやく集落らしい場所が見えてきた。Y字路に郵便局があった。和也は車を停めて、郵便局に入った。はがきと熊野古道の記念切手を買うと、思い立って翔子に送ることにした。「元気ですか。今熊野にいます。」という簡単な文面だったが、窓口に差し出すと、局員が9月20日付けの消印を押して見せてくれた。「天川」の風景がスタンプには描かれている。
「ちょっとお聞きしたいのですが、このあたりに『光狐』というものの伝承があると聞いたのですが、ご存知ですか。」
受付に座っていたのは三十前後の若い男性局員だった。
「『光狐』ですか…。私は知りませんが、郷土資料館に行けばわかるかもしれませんね。」
局員は丁寧に郷土資料館への地図を書いてくれた。ここからはそれほど遠くなさそうだ。
和也はさっそく資料館へと向かった。平屋の公民館の一部を利用し、土地の歴史などを展示している小さな資料館だった。中は閑散としていて見学者はおろか係員もいない。薄暗い廊下を通って解放された引き戸の入口から、最初の順路になっている部屋に入った。
紀伊半島の風土と植生などが紹介されたコーナーから歴史時代順に展示品が並べられている。和也はそれらを順に目で追いながら、『光狐』に関するものがないか探した。ふと、一つの展示物に目を留めた。それは狐の面だった。鎌倉時代から室町時代の展示ブースには能楽の紹介とともにいくつかの面が飾られていた。狐の面はところどころが剥げており、時代を感じさせる年季の入ったものだったが、耳の部分にはおそらく金箔がほどこされていた形跡が残っている。北のフォックスも耳は金色に輝いている。それを連想させ、「光狐」と関係があるだろうか、としばらく眺めていた。
和也は背後にふと人気を感じて振り返った。そして瞬時に寒気に襲われた。そこには、神主が着るような白い装束を身につけた男が立っていた。うつむいており、顔が見えない。和也は声を出そうとしたが、金縛りにあったように動けなくなった。
「翠殿、お待ち申し上げておりました。」
男は和也の前に跪き頭を垂れた。
「準備は整いました。あとはご判断をいただくだけです。」
何を言っているのか、和也には全くわからない。ただ男の周囲から有無を言わさぬ強い空気が伝わってくるのを感じた。すると突然、さきほどの狐の面が音を立てて下に落ちた。和也はとっさに音のした方向へ身体を向けた。金縛りが解け、視線を戻したときには、男は消えていた。和也は全身に震えを覚え、資料館の外へと飛び出した。
昨夜の夢といい、今の出来事といい、和也はこの先に進んでよいのかどうか躊躇した。何か取り返しのつかぬことが起こるのではないかという漠然とした不安が湧き上がってくる。しかし、和也は科学者である。非現実的なことも物理的な根拠を持って存在している、と客観視することで平静を取り戻した。
だが不可思議なことが続いた。車のキーを数度回してもエンジンがかからない。その間しだいにあたりが暗くなり、大きな雨粒が落ちてきた。雨は一瞬にして雨煙を立ち上らせるほど激しく降り始めた。和也はそのまま車に閉じ込められる格好になった。台風がいよいよ天候に影響しはじめたのか。それとも豪雨地帯の紀伊半島はいつもそうなのか。あきらめてしばらく待つことにした。携帯を取り出し英次に電話をかけたが圏外でかからない。宿がとれないことも想定して、車にはいくらかの水や食料を積み込んでいた。和也は仕方なく車中で遅い昼食をすませた。
一時間後雨はやみ、再び晴れ上がった。エンジンをかけてみると、すんなりと快音を鳴らした。和也は何か眼に見えないものの影響を感じながら、ルートを元に戻し車を走らせ始めた。しかし、今度はハンドル操作が思うようにいかなくなった。ほとんどが一本道ではあったが、分岐点に来ると、和也が思った方向へはハンドルを切ることができない。まるで何者かが車の行く方向を操作しているようにしか思えない。そしておかしなことに前後にも対向車線にも一台の車も通っていないことに気付いた。
導かれるままに和也はある山のふもとに到着した。そこでエンストを起こしたように、再びエンジンがかからなくなったのである。外に出ると、まるで誘うかのように小さな石のプレートが設置されているのが目に付いた。そこには「光狐の石碑」と書かれ、矢印は山の方向を示していた。これから山を登るには遅く、すでに辺りは薄暮に覆われていた。和也は再び観念して車中で一夜を明かすことにした。
紀伊の夜は闇が深い。それは山の連なる自然の深さだけから感じられるものではなかった。歴史の影に埋もれた人々の情念を引き受けている地であるという認識が一層闇の深さをもたらすのだ。そしてそれらを浄化するのは古代から信じられてきた、この地に宿る神秘の力だけなのかもしれない。しかし和也はこんなにも深い闇に囲まれて恐怖を感じないことに不思議な感興をもよおしていた。現代的、人工的な都市生活を基準にすると、両者が同じ日本の中に存在することが驚きでならない。しかしそれもまた重ねてきた歴史の結果である。
静かに夜は明けた。和也は熟睡こそできなかったが、心地よいまどろみの中で今までになく意識が研ぎ澄まされ、多くのインスピレーションのようなものを得ることができた。東京に残してきた研究課題を今ならすんなりと解けるような気にもなる。
和也は車外に出ると朝の清澄な気を吸い込み、山道を登り始めた。
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