第14話 英次再び北へ

 9月の上旬、英次と和也は久しぶりに吉祥寺で待ち合わせた。日曜日の昼間ということもあり、街は人であふれかえっていた。最近、駅前は老朽化した建物が整理され、古くから営業している飲食店も味気ないビルの一角に移され、吉祥寺らしい街並みが変化しつつあるが、やはり新旧の店舗が共存し溶け合って、他の街にはない文化を形成している。

二人は高校生の頃、放課後になると必ずといっていいほど通い詰めていた喫茶店があった。同好会には部室がないので、部室代わりにしていたのだ。デパートの裏側に広がる狭い路地を何度か曲がると、レンガ造りの二階建ての建物が見えてくる。昔の習慣で見上げると、「ウッドストック」の看板は、色あせて赤い塗料が剥げていたが、思い出の象徴のように変わらずそこにかかっていた。和也はこの店のアイスココアが大好きで、毎回注文する。英次はたいがいアイスティーだったが、たまに和也につきあって、ココアを注文した。

翔子との一件について電話で話して以来、二人は話をする機会がなかった。和也が憔悴しているのではないかと心配していたが、見た目は意外と元気そうなので、英次はいつもの調子で話し始めた。

「講習が終わったので、休暇を取ってもよいという許可が下りたよ。」

「いつごろ行くんだ?」

 和也はアイスココアの生クリームをかき混ぜながら聞いてきた。

「来週だ。連休もあるし、ちょうどよいかと思ってね。」

 和也はクリームの溶けた上澄みをすするように一口飲むと、うーんと一瞬考え込んでからストローを離した。

「今回は俺も行くかな。大学はまだ休みだし。」

「本当か。そうしてくれたら助かるよ。」

 英次の表情が和らいだ。和也とは高校卒業以来、一度も一緒に調査へは出かけていない。和也は再びストローで濃いココアを吸い上げては味わうように目をつぶってみたり、生クリームをかきまわしたりしている。

「いや、俺は北じゃなく、紀伊に行ったほうがよいかもしれないな。」

「紀伊?」

「そうだ。ほら、例の『光狐』の伝説だよ。覚えているか。」

 昨年の秋、和也に『光狐』に関する記事を示され、その後、塾に尋ねてきた広川学園の窪田からも紀伊に伝わる同様の伝説の話を聞いて以来、そのことについて直接現地で調べる機会を持たなかった。忘れていたわけではないが、平日は塾での仕事が忙しく、さらに夏前にはシュリーとの再会という大きな出来事もあり、フォックスに関する細かな関連調査にまで気が回らなかったのである。

「やっぱり、フォックスと関係があるんだろうか。」

 英次は和也と一緒に北へ行きたかったので、少し不満げな口調になった。

「わからんさ。でも、広くあたってみることも必要かもしれない。情報が少ない分、想像力と以前の調査の時の情報のみでフォックスを見ようとしているだろう?あの存在はそんなに狭い目で見ても理解できないのじゃないかと思ってね。まあ、紀伊というのも歴史の深い地域だし、一度も行ったことがないから好奇心もあってね。おまえが北で調査するのと同時進行で、紀伊を調べてみるよ。その場でわかったことがあれば、メールや電話を入れる。しかし便利な時代になったよな。」

 確かに、高校生の頃には今のようにモバイル機器のようなものは全くなかった。事前の情報収集とその場での直感がすべてだったのだ。今はどんな山奥に行っても、携帯やノートパソコンで情報収集や伝達ができる。和也と自分が別の場所で調査をしながら確認しあえるのもフォックス調査の進展につながるかもしれない。

 英次は少しでも多くのフォックスにつながる情報がほしかった。芦川の提案で「希少生物を守るためのNPO」を将来的に立ち上げることを決め、設立趣意書をまとめはじめていたのだ。和也にも発起人として名を連ねてもらうことになっていた。大学に勤める彼の存在は、NPO設立にとって大きな力になる。英次はこれまでまとめてきた資料を逐次和也に渡してきた。

「俺の方はできるだけ協力するから。研究室の学生も興味を示している者が何人かいるんだ。申請が通ったら他の研究室にも声をかけられるだろう。」

 二人は来週の調査旅行について打ち合わせを始めた。

「英次は、前回の層雲峡付近で再度フォックスの棲息を確認する。もし今回存在だけでも確かめられれば、フォックスは年間を通して一定の地域に住み着いている可能性が強い。」

「しかし、なぜ今までは冬しか考えられなかったのかな。」

「おまえが思い込んでいたから、それ以外は考えられなかったな。」

「何だよ、俺のせいか。」

 こうやって学生時代のように語り合っていると、時の流れの早さと共に、年を経ても変わらないものがあることを実感する。分別を持つべき大人が、現実離れした夢物語を語ることを阻止しようとする思考が起きないわけではない。しかし、守るべきものがあまりない英次にとって、今はそんなことはどうでもよかった。

「そういえば、英次の塾に来た私立の先生は、紀伊のどのへんで『光狐』の話を聞いたって?」

「たしか、天川とか十津川と言っていたような気がする。」

「あの記事と同一地域か。」

 和也は紀伊半島の地図を取り出して広げた。

「ずいぶんと奥地だなあ。」

 地図上でも山川ばかりの地形が読み取れる。

「うん。この地域は修験道のメッカだろ。」

「今でも修行者は多いのか。」

「詳しくはないが、天川などは観光客だけでなく修験者の宿もまだまだ多いらしいぞ。」

 英次は、修験者という言葉とフォックスのイメージが全く結びつかず、次元の違う話のように聞こえた。

「しかしな、英次。行き詰るときは必ずといっていいほど、全く結びつきのないと思われるところに答えが見つかることもあるのさ。」

「じゃあ、和也はそこに何か答えがあると思うのか。」

「わからんさ。でもこの時期に入ってきた情報はすべて検証する価値がある。」

「すべて?」

「そうだ。お前がフォックスを探し出したから、いろんな情報が飛び込んでくる。お前は磁石みたいなもんだ。」

 英次は、春先の旅行で桜井少年からも似たようなことを言われたことを思い出した。

「フォックスはもともとそこに居るのかもしれないが、お前のように強く探そうという熱意を持つ奴が現れないと、誰にも見えない。そんな気がする。」

 和也の言い方も謎かけのようだ。

「とにかく、俺は紀伊に行ってみるよ。別に無駄足だってかまやしない。それと、今度の旅から帰ったら、もう一度翔子と話をして、それでもだめだったら、婚約を解消しようと思う。」

 和也は唐突に翔子との話を持ち出してきた。決意のこもった言葉だった。今日、和也に会うまでは、翔子とのことがどうなったのか気にはなっていた。しかし、この1時間ほどの間、英次はすっかりそのことを忘れていたのだ。不意打ちをくらったような気分だった。

「翔子さんとは…。」

「会っていない。連絡もあまり取っていない。」

 どこかで翔子は和也の元に戻ったと楽観的な考えを抱いていた。英次は和也から視線をそらした。

「お前が責任を感じることじゃないだろう。俺が翔子のことを思っている気持ちは変わらないよ。でも、よく考えると、一番は、翔子に幸せになってほしい。だから、俺と居ても幸せになれないなら、それは仕方がない。」

 それは昔から変わらない和也のやさしさなのかもしれない。何が最善なのかということを常に考える。英次もいつもそんな和也に助けられてきた。しかし英次の本音は、和也にも幸せになってほしい。先日のシュリーの様子では、彼女に対して特別な感情はないように見えた。翔子があきらめて、和也の元に戻るのを待つしかないのだろうか。

「まあ、一人旅にでも出て、気持ちを癒してくるさ。お前は北へ、俺は西へ行って、フォックスの正体をつかもう。」

 和也はさばさばとした口調で、逆に英次をなぐさめるように笑顔すら浮かべながらそう言うと、残りのアイスココアを最後まで飲みきった。

 

出発の日、英次と和也は羽田で再度打ち合わせをした。

「じゃあな。何かあったら連絡するから、携帯は電源入れとけよ。」

「わかった。でも紀伊の山奥で電波通じるのか。」

「どうかな、まあ同じ日本国内だからなんとかなるだろ。」

 和也は笑いながら科学者らしからぬ冗談を言う。

 英次は旭川空港へ、和也は南紀白浜空港へ向かってチェックインした。ほぼ同時刻の出発だったので、二人はスケジュールを確認しあい、何もなくとも一日の終わりには連絡を取り合うことを約束した。

「白浜空港からはレンタカーを借りて動くとするよ。窪田先生から紀伊の情報をたくさんもらったんだ。助かったよ。」

 和也は二日前に広川学園の窪田に会いに行った。

「紀伊半島は房総半島や伊豆半島よりも大きいからね。山道だし車で移動しても相当に時間がかかるらしい。」

「台風のシーズンだから、気をつけろよ。天気予報でも南の海で台風が発生したと言ってたぞ。」

「無茶はしないさ。でも山がちな分、温泉も多いし、海に近いところは魚介が旨いらしいから楽しみだな。」

「桜井君みたいなこと言うなよ。調査目的なんだから。」

「ははは、楽しみもないとね。昔のような体力もないから、温泉につかりながら休み休み行くさ。」

「記録だけはきちんとしておいてくれよ。」

「わかってるって。」

出発の時間が近づき、二人はそれぞれのゲートに向かって別れた。


 空港を降りると、すでに初秋の風が通り抜けていくのを感じた。空港の周囲には、収穫真っ最中の作物が実る広大な農地が地平線まで広がっている。このあたりが一面白い雪で覆われる日も近い。

 英次は深呼吸をした。この時期の北海道の空気は様々な収穫の香りを乗せて味わい深い。

 前回、大樹と共に冬の終わりに訪ねたときには、フォックスの声を近くに聞きながら、その姿をはっきりと確認することはできなかった。英次は、季節を変えて、果たしてフォックスが姿を現すのかどうか確信が持てないまま、あえてこの時期を選んだ。北海道は美しい紅葉の時期を迎えている。そんな半分観光を目的として訪れることも、たまにはいいのではないか、というリラックスした気分も起こっていた。かつてはそんな余裕はまるでなかった。桜井少年の影響もあったが、フォックスと一生関わっていくと決めてからは、肩の力が抜けて、調査自体を楽しめるようになってきた。

 今回は目的地が決まっていたため、旭川空港から入り層雲峡を目指すことにした。空港でレンタカーを借り、まずは旭川市街に一泊する。旭川は北海道の中では札幌の次に大きな都市である。最近は日本一の来場者数を誇る動物園目当ての観光客で年中にぎわっている。前回の旅で、大樹少年にせがまれ、その動物園に行った。英次は動物を見世物にすること自体に反対で、あまり感心しなかったが、今の北海道にとっては大きな観光スポットになっていることは確かだ。

 英次は旭川駅近くのビジネスホテルにチェックインし、夕食を取るため外に出た。市街はビルが立ち並び、札幌の景観とあまり変わらない。便利な地方都市といった印象だ。

 市庁舎の建物が道を挟んで左手に見えた。何気なくその建物を見上げると、大きな縦長の幕が壁にかかっており「日本一のリゾートを旭川に!」という文字が書かれているのが目に入った。

(大きなホテル建設でもするのかな。バブル期でもあるまいし。困窮している自治体があるんだから、そういうところに人を呼んだほうがいいと思うけどな。)

 あまり興味のないまま、おいしいラーメン屋でもないかと、そのまま歩き続けた。

(最近は外国人も北海道によく来るんだな。)

 地図を持ちながら歩いている観光客らしき日本人に混じって、外国人の姿も多く目にした。中国や韓国からの観光客が増えたことは日本のどこに居ても感じられるが、欧米を始め、ロシアやオーストラリアといった地域からも観光客が訪れてくる。客寄せのため、純日本風のお店でも英語の案内ができるところが増えた。

 英次はガイドブックに載っていたと思しきラーメン屋を見つけて中に入った。カウンターは一杯になっており、後ろの待合の席に座った。ここにも外国人観光客が来ていて、目の前のカウンター席に座っている英語の会話が漏れ聞こえてきた。男性二人はしゃべりながら、時折、厨房の店員に片言の日本語で話しかけたりしていた。英次は珍しさもあって、待っている間、彼らのやりとりを何となく聞いていた。

「このラーメンはソイソース味ですよ。」

「そうだね。アメリカでも日本食が流行っているから、それくらいはわかるさ。僕は結構この味が好きなんだ。日本食はヘルシーでいいね。」

「ラーメンはヘルシーとはいえませんよ。脂が多いですから。」

「この程度の分量なら大丈夫さ。」

 一人はカウンターに姿勢よく座りながら、箸を器用に使いこなしていた。もう一人は、箸には慣れていないようで、もっぱらスープを飲みながら、ラーメンをかき込むように食べている。こちらの男性の地位が上なのではないか、と英次は推測した。ラーメンを食べるには不向きな上質のスーツを着ており、時折汁が飛ぶのを気にしながらハンカチで胸元を拭いている。

「市長はこの街で開発のイニシアチブを持ちたいようだけど、僕はもう少し奥地がよいと思っている。しかし一枚かんでもらうのもメリットが高いよ。ここの空港が入り口になるのは決定だからね。」

「奥地になればなるほど、空港からの交通手段は考える必要がありますよ。」

「そうだね。若干奥地だとしても、行く意味がある場所にしなければならないということだ。」

「CEO、層雲峡に貴重な資源が眠っているらしいという噂ですが、春先に国の調査が入って、どうも確実らしいということがわかったそうですよ。」

「レアアースでも採れるというのか。」

「詳細はわかりませんが、今後、大掛かりな調査が入るようです。」

「こっちの事業に影響がなければいいが。」

 その時、カウンターの端の席が空いて、英次の順番が来た。英次は外国人とは反対側のカウンター席に誘導された。早口ですべてを聞き取れたわけではないが、先程の市庁舎にかかっていたリゾート開発事業と関連する人物なのかもしれない、と英次は考えた。まもなく外国人二人はラーメンを食べ終え、代金と定員が断るのを制して、チップに一万円を置いて店を出て行った。

「店長、今の外国人って、例のリゾート開発会社の社長だろ?」

 常連らしい中年の男がカウンター越しに話している。

「そうなんすか。俺はよく知らないですね。今日初めて来たお客さんですよ。」

 角刈りに鉢巻をした若い店主が答えた。

「でもリゾート開発の話は本格的になったんすね。もしそうならばうちも出店させてほしいな。」

「それはいいね。カジノで儲けて、旭家のラーメンを食べるのも悪くないね。」

 中年の男は店主の意見に笑って同意した。

(リゾート地にはカジノも入るのか。)

 英次はラーメンのスープをすすりながら、なんとなくその会話を聞いていた。

 

翌日から層雲峡での調査を行うことにしていた。この時期は紅葉狩りの観光客が多く、英次は主に夕方から夜中にかけて調査をすることにした。昼間は北泉閣の女将、上田美智子の厚意で、温泉に入れてもらい、昼食や仮眠まで取らせてくれることになった。内心、英次は美智子に会えることを楽しみにしていた。

二日目の夜、十五夜に近い月が紅葉に覆われた山肌を照らし、英次はいつもよりも気分が上気するのを感じていた。なぜか腹の底からわくわくとこみ上げてくるものがある。英次は気力に満ちているのを感じ、体力に任せてどんどん山を登っていった。春先に大樹少年がフォックスの光が消えたのを目撃した小高い丘が見える場所に辿り着いた。英次は、二、三十メートルほど離れた岩に腰掛けて、今たどってきた道が月の光に照らし出されている光景を眺めた。昼間と違って美しい赤や黄の色は見えないが、どこまでも続く低い木々の背に月光が注がれ、黒々とした輪郭がおぼろげに浮かび上がる。9月の北海道は冬支度の時期に差し掛かっており、夜中ともなれば気温はぐっと下がる。しかし、今日は月の光もやわらかく、いつもよりも温かく感じた。月明かりに切り取られた景色は、闇の中にいる英次を安心させた。いや、闇の中にいることで英次はなぜか安心感を覚えていた。他には誰一人居ない場所で、自分がたった一人、フォックスを探すためにここにいるということに幸福を感じていた。

小高い丘の肌に月明かりが白く差し込むのを見た。英次はその時が来るのを予感した。そしてそれは前触れなく突然に訪れた。

フォックスは、丘の裏側から声も挙げずそっと現れた。まるで英次が何者であるかを確認するかのように、山陰から顔を出したように見えた。英次は動かなかった。そのままフォックスをじっと見つめていた。そして心の中で(会いに来たよ)と静かに語りかけた。

白い毛並み、手足と尾の先が金色に染められて、全身から蛍のように発光するフォックス。その瞳は相変わらず翡翠のように青緑色の中に金の光を帯びて輝き、何を見つめているのかわからなかった。英次が心の中で語りかけた瞬間、フォックスはそれに答えるかのように、長い首を天に仰いで「ヒューン」と一声鳴いた。その声は、近くにいる英次に遠慮するかのように、静かに抑えた声だった。フォックスは英次に向かって歩いてきた。そして英次の5メートルほど手前で立ち止まり、翡翠の目で英次を見つめた。その表情は動物のものとは思えなかった。英次は人間と同じように豊かな表情をフォックスの表情の中に見た。それは慈悲深い愛情にあふれた母の表情であった。もし、桜井少年だったら、フォックスのもの言いたげな表情を読み取って、人間の言葉として語ってくれたかもしれない。しかし英次にはそういった能力は持たされていなかった。それでも、フォックスが何かを語りたくて、英次のそばにこうしてじっと佇んでいるのだ、ということだけは理解した。

長い時が流れた。フォックスは英次を見つめ続け、英次もフォックスを見つめ続けた。長い間会わなかった最愛の恋人に突然遭遇したかのような、もしくは、まるで亡き母に再び夢の中で会うことができたような、懐かしくそして切ない感情がこみ上げてきた。英次はいつの間にか、涙があふれ止まらなくなっているのに気付いた。とめどもなく涙はあふれてくる。フォックスは、そんな英次の顔をやさしい表情で見つめ続けていた。


英次はふと空気が変わるのを感じて目覚めた。朝靄の中に徐々に太陽の光が差し込んでくる。空の青さが宇宙につながる奥深い青から透明の青に変わり、そしてうっすらとミルクを溶かし込んだように朝の空の色に変化していく。

いつの間に眠ってしまったのだろうか。英次は岩の上にうずくまるように横たわっていた。泣いたせいか気分はすっきりしているが、頬のあたりが突っ張った感じがする。英次は岩から起き上がり、あたりを見渡した。靄は徐々に晴れて、朝日に照らし出された紅葉の山肌が錦色を帯びて光り輝き始めた。英次はその光景に息を呑んだ。昨夜のフォックスもこの世のものとは思えない美しさだったが、目の前の見慣れたはずの紅葉の燃え立つ様が直接英次に迫ってきた。英次は、ゆっくりと立ち上がり、紅葉の中に身を沈めながら歩き出した。

英次が下っていく道の先に一人の人物が歩いてくるのが見えた。英次は歩調を変えずに歩き続けた。その姿を確認したのは、お互いの距離が数十メートルに縮まった頃だろう。山から朝日が昇り、その人物を照らし出した。彼は少しまぶしそうに朝日の方向に左手をかざした。腕にかかったクリスタルのブレスレットが光を反射し、英次から見るときらきらと輝いて見えた。彼の髪の色は紅葉と同化して区別がつかなかった。なぜ、こんなにも動作の一つ一つが絵になるような人物がいるのだろう、まるでファッションモデルの撮影現場みたいだ、と英次は思った。

シュリーは前方から下ってくる人物が英次であることになかなか気付かなかった。英次は昨夜フォックスと出会ったように、ここでシュリーに会うこともなぜか予感をしていた。それを自然と受け止めることができていた。

立ち止まって動かないシュリーの元へ、英次から近づいていった。

「フォックスに会うことができました。」

 英次は自然と笑みがこぼれ、そして嬉しそうに声を出して笑っていた。

「やはり、あなたはフォックスの恩人ですね。」

 シュリーは笑っている英次を涼やかな目つきで不思議そうに眺めている。

「彼の言うとおりだ。フォックスが現れるときには、あなたも現れる。」

 今の英次にとっては、シュリーがなぜここにいるかという問いは愚問だった。そんなことはどうでもよかった。

「フォックスはどうしていた。」

 シュリーはやっと口を開いた。

「あの小高い丘の裏側から現れました。」

 英次は場所を指し示すと、シュリーを誘うように再び元の方向に歩き出した。シュリーも英次のあとをついていく。

 朝日がさらに高くなり、見渡せる風景の全部を照らし出した。清澄な空気が、紅葉を黄金色に燃え立たたせるエネルギーとなり、山全体に行き渡っていく。

 二人は、昨夜英次が過ごした岩場に到着し、さらに丘の近くまで進んだ。

「フォックスは、ここから顔を出したのです。」

 英次は丘の裏側に回って、シュリーの方に向かって昨夜のフォックスを再現してみせた。丘の裏側はしばらく土肌の出た幅の狭い道が続いていたが、その先は谷間になっており、行き止まりだった。シュリーは裏側を確かめるように覗き込んだ。道幅は狭くなっており、丘の肌に生えている蝦夷松の枝につかまりながら先に進んだ。

「気をつけてください。」

 英次がシュリーに声をかけた。シュリーは谷間の壁に足場となる場所を確認しながら、数メートル降下した。シュリーの体半分が谷の影に見えなくなった。

「そこでちょっと待っていてくれ。ここに洞窟の入り口のような穴があいている。」

「大丈夫ですか。」

「大丈夫だ。それほど急ではない。」


 シュリーは谷の斜面に斜めに掘り込まれている空間に入っていった。180センチを越えるシュリーの身長でも、その横穴を滑り降り、地に足が着くまでさらに1メートル近くはあった。入口は狭いが、中の空間は人一人ならば歩ける幅があった。さすがに天井は低くなっているので、シュリーは腰を屈めながら前進した。しばらくは外の光が差し込んで周囲の様子が見えていたが、さらに進むと真っ暗な空間が広がっていた。シュリーは迷ったが、両側の土の壁に手をあてながら先に進んだ。

 10メートルほど進んだとき、シュリーは前方からちらちらとゆれる光が差し込んでくることに気付いた。その光を目指してさらに進むと、光はしだいに膨張するようにシュリーに向かって伸びてくるように見えた。太陽光線とは全く違う、緑色を帯びた人工の光のようだった。

「これは、何だ。」

 さらに10メートルほど進み、光の源が見えてきたとき、思わずシュリーは声を挙げていた。土のトンネルは突然大きな空間につながり、そこには翡翠色の光の洪水が広がっていた。暗闇を通ってきた目には刺激が強く、シュリーは胸元のポケットからサングラスを取り出した。

 目が慣れるまでにはしばらく時間がかかった。サングラス越しにあたりの様子が識別できるようになったころ、シュリーは光の洪水の中へ入っていった。足元には鋭い先端を上部に向けて光と同色の鉱石がいくつも伸びだしていた。シュリーはその隙間を縫って、歩き出した。ドーム状の空間は学校の体育館が一つ入るほどの大きさがあった。その床といわず天井といわず、そこかしこにまるで水晶のような鉱物がびっしりと覆いつくし、その一つ一つが呼吸するリズムのように光を明滅させていた。これほどの光が覆い尽くしているにもかかわらず、周囲の温度にそれほどの変化はないように思われた。シュリーは一番近くに伸びている鉱物の先端に右手で触れた。その途端、発光している光が生き物のように、シュリーの右手を包み込み、そして右腕から肩に向かって昇り始めた。シュリーは思わず手を離し、宙で手を振り払って光から逃れようとした。光はシュリーの手の動きに合わせてゆったりと空中に広がった。この様子を誰かが傍で見ていたならばよかったかもしれない。シュリーは右手の光だけに気を取られていたが、すでに全身がフォックスのように光の膜に包まれていた。右手は強く発光し、彼が舞台でスポットライトを浴びているときよりも派手な演出のように見えた。

 かすかにドームの中で音が聴こえた。シュリーは全身の感覚を研ぎ澄ました。音はだんだんと大きくなってくる。はじめはオーケストラのチューニングのように聴こえた倍音の波が、だんだんと短いフレーズをなし、そして一つの曲を演奏し始めた。自分の作曲したバラードであることに気付くまで、そう時間はかからなかった。しかし、音の源がどこにあり、その楽器が何であるのかは全く検討がつかない。ドームの中には一つの楽器も見当たらず、音色は音楽の世界に長く生きてきたシュリーも言い当てることができないものだった。帰ったら一番にこの音を奏でる楽器を探すか、自分でつくりたいと思うほどに美しい音色だった。誰かが楽器を演奏し、それを聴いているというのではなく、自分自身の中で時々やってくるインスピレーションが、そのまま何かに反応して鳴り響いている理想の音源のように感じられた。曲はミュージカル「Fox Tail」のテーマ曲でもあるバラードだが、意識を集中させるほどに強く大きく響き、今度は音の洪水が押し寄せてきた。しだいに気分が高揚し、自らはコントロールできずに、歓喜が満ちてくるような快感を覚えた。音楽を聴いて感情が変化し喜怒哀楽が沸き上がる感覚とは違う。今聴いている「音楽」は、身体を構成する細胞にまで音が浸み込んで、活力を与え、新しく生まれ変わるようにさえ思われた。「ヒーリング」という言葉が使われるが、そのような入門的で穏やかなものでもない。もっと直接的で体験的な奇跡のようにさえ思う。

しばらくの間、シュリーはその音色で自分の曲を再現するにはどうしたらよいか、ということを分析し考えていた。音には一つの雑音もなく、このドームの中では正確な音程を放っていた。あたりは光と音に満ち溢れ、美しさを通り越して、人間の感覚の許容量を越え、飽和状態にさせてしまう力を持っていた。シュリーは心地よさから一転して息苦しくなり、思わず音を遮断するために耳をふさいだ。しかし音は小さくならない。シュリーは心の中で音が止まるようにと念じた。すると音は鳴り止んだ。

 音は止んだが、胸の苦しさは強くなっていった。フォックスをかばって銃弾に倒れたときと同じような苦しみがわきあがってくるのを感じた。同時に左腕の古傷が痛んだ。銃弾を受けた後の焼け付くような身体的なダメージまでも追体験しているようだった。意識はさらに遡り、十代の時に家を出、ロック音楽に転向した頃の荒んだ心の状況がよみがえってきた。家族や世の中への不満や自分自身の存在そのものに向けた否定的な思い、嫉妬や憎悪といったものが噴出して止まらなくなった。

(まいったな。)

 シュリーは年齢を重ねても基本的に解決していないものもあるということを実感し、自嘲的な気分に投げ込まれた。この苦しみが続くことで、シュリーの意識はしだいに薄らいだ。彼は無意識のうちに、再び近くの鉱石の先端に触れ、力いっぱい手前に引き寄せた。それは氷砂糖のように先端から折れ、シュリーの掌にそのかけらが落ちた。また、薄れる意識の中で、ドームの反対側の壁に目を向けた。シュリーの視線の方向にフォックスが佇んでいた。実物か幻か分からぬうちに、フォックスの後方の壁面がゆがむのが見えた。その中にフォックスの姿も溶け込み、さらに形をゆがめていった。ゆがみの中央に真っ暗な空間が生じた。こちらの光の世界とは対極の闇の世界のように見えた。まるで死の世界につながる廊のようだ。人影がぼんやりと、しだいに像を結んだ。シュリーは像の中心に浮かび上がった男の顔に見覚えがあった。男もシュリーを見た。相手はシュリーを認識すると驚きの表情を浮かべた。シュリーは男が誰であるかを思い出そうとしながら、ついにその場に倒れ伏した。


 シュリーが崖の横穴に入って行ってから三十分が経過した。英次はだんだんと不安になってきた。その時突然ジャケットのポケットに入っていた携帯が大きく振動した。不意のことに驚き急いで、電話に出た。相手は和也だった。

「おい、俺だ。今、シュリーが現れた。」

 英次は耳を疑った。

「何言っているんだ。和也。」

「シュリーが目の前の祠の奥に見えたんだ。」

「ちょっと待ってくれ。シュリーはこっちにいるんだぞ。」

「こっちって?」

「今、前回フォックスの光を見た場所にいる。昨夜フォックスに遭遇した。フォックスが現れたあたりに崖の横穴があって、さっきシュリーがその中に入っていったんだ。」

「何だって。じゃあ俺は幻でも見たってのか。でもあれはシュリーだ。間違えっこない。彼もこちらを……。」

 突然途切れた。

「おい、和也、もしもし、和也聞こえるか。」

 掛け直したが「電波の届かないところ…」というアナウンスが流れただけだった。

 英次は不安にかられて、横穴めがけて飛び込んだ。思ったよりも深い穴で、滑り台のように尻をついてすべり込むような格好になった。地に足がつくと、外からさしこむ光だけを頼りに前に進んだ。薄暗く周りがよく見えない。壁に手をつきながら進む。数メートル進むと、両側の壁が離れ、空間に広がりが感じられた。手元に明かりがないため、それ以上進むのは憚られた。一歩足を踏み出すと、何かやわらかいものを蹴ったようだった。英次はかがんで恐る恐る手で確認した。それは人間の背中のようだった。

「シュリー?兄さん?」

 手で何度かさすったが反応がない。英次は慌てて手探りでシュリーの肩から顔のあたりを触った。脈は大丈夫だ。息もしている。英次はシュリーを担ぎ上げると洞穴の入口へと引きずって行った。外の光がシュリーの横顔を照らし出した。シュリーはぐったりとして声がけにも全く反応を示さない。シュリーの左手に何かが握られているのに気付いた。指の間から光が漏れている。しかし今はそれどころではない。英次は斜めに入り込んだ横穴からどのようにシュリーを救い出すか思案した。外は崖になっていて、まともに出たら二人とも転落してしまう。やむなく一度シュリーを横穴の出口付近に横たわらせると、英次は外に出て人を探すことにした。運良く写真を撮っている旅行者が近くにいた。英次は事情を話すとすぐさま現場に駆けつけてくれた。その旅行者は山登りに慣れている様子で、リュックからロープを取り出すと、横穴に入り、シュリーの身体に巻きつけて自分が背負う形で救い出してくれた。そして街までシュリーを運ぶのを手伝ってくれた。

「本当にありがとうございました。」

「すぐに医者に見せたほうがよいでしょう。気を失っているだけの様子に見えますが、もしかすると頭などを打っているのかもしれません。」

 英次は何度も礼を言って、旅行者と別れた。そして、北泉閣に助けを求めた。女将は驚いて、すぐに救急車を呼んでくれた。

 運ばれた病院は偶然にも以前シュリーが入院した北斗医院だった。ほどなく英次は担当医に呼ばれた。

「失礼ですが、ご家族の方ですか。」

「親類の者です。本人の国籍はフランスです。」

「検査の結果、特に異常は見当たりません。ただ意識が戻るまで入院をする必要があります。」

 英次はほっと胸をなでおろした。

「ご本人の左手にこれが握られていました。」

 担当医は数センチほどの大きさの宝石のような塊を英次に差し出した。

「これは?」

「お心当たりありませんか。」

 洞窟の中でシュリーの手元がほのかに光っているのを思い出した。担当医も珍しそうに眺めている。

「何でしょう。美しい石ですね。」

「ええ。」

 英次はそれを受け取ると、入院手続きのためにロビーに向かった。手続きカウンターには一人の外国人女性が英語でまくしたてていた。ステファニーだった。

「だから、言っているでしょ。シュリー・ユステールの病室はどこなの。」

 英次はステファニーの元に駆け寄った。

「こんにちは。シュリーなら無事です。」

 ステファニーは、英次のほうを振り返った。そしてすぐに安心しきった顔に変わった。

「あなたは、ツヅキさんね。よかった。シュリーがなかなか戻らないから、車で町に行ったら、救急車に運び込まれるところだったのよ。その後を追いかけてきたの。」

「しばらく入院になりそうです。異常はないとのことですが、意識がまだ戻っていません。」

「そうなのね。入院手続きは?」

「これからです。」

「それはこちらでやるわ。すぐに連絡をしなければ。」

「連絡って?」

「会社よ。」

 ステファニーは英次に満足な答えを与えず、すぐに携帯電話をかけるために、足早に外へ出て行った。英次は日本語のわからないステファニーに代わって、受付に事情を話した。

 シュリーはすぐに個室に移された。ステファニーはシュリーの身の回りのものを準備するため、旭川のホテルに一度戻ることになった。英次はシュリーの様子を確認してから、こちらも気がかりな和也に電話をした。呼び出し音はするが、何度鳴らしても和也は出ない。

「どうしちまったんだ。」

和也が言っていた(祠の奥に見えたんだ…)という言葉が頭から離れない。冗談には聞こえなかった。不安がこみあげてくる。メールも送ってみたが、いくら待っても和也からの返事は届かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る