第13話 シュリーの魔法
「松田さん、7月号の記事読んだよ。ずいぶん無難にまとめたね。」
発売直前の雑誌を手に、山本が翔子のデスクにやってきた。結局シュリーの出自に関する情報はすべて削ぎ落とした。和也から真相を聞かされ、この件について簡単に記事にはできないと判断した。
和也から何度か連絡が入ったものの、締め切りが迫っていることを口実に会うことを拒んだ。内心どこかで、シュリーから再び連絡が入ることを期待している自分がいて、和也と向き合うのが怖い。かといって自分から婚約を破棄するほどの勇気も出ない。
「少なくともアメリカで音楽活動を続けていたことは書いてもよかったと思うよ。彼もそれを隠すつもりはなさそうだったけどな。」
翔子もそれはわかっていた。でも、今の翔子にはシュリーに関する新しい情報を記事にする積極的な気持ちは湧いてこなかった。
「山本くん、北海道にいる幻の生物って知ってる?」
翔子は話題を変えようと、唐突に思い出したように聞いた。
「幻の生物?ツチノコみたいな?」
「うーん、ツチノコじゃないと思うんだけど。」
「それと、シュリー・ユステールが関係しているの?」
翔子は再び黙ってしまった。
「シュリーが札幌での伝説のコンサートの後、北海道で入院するまでに、幻の生物を探していた、とか?」
「すごいなあ。山本くんは。何でも結びついちゃうのね。」
「イギリスのネス湖のネッシーみたいに、北海道なら屈斜路湖のクッシーかな。シュリーがそんなことに興味持つかあ?」
「そうね。確かに。」
山本と話しているうちに気が晴れてきた。シュリーに会わずにいれば、やはり別世界の人間のように感じられる。会っているときだけ、魔法にかかってしまうのかもしれない。
「北海道といえば、最近、かなり大規模なリゾート開発が計画されているという情報が入ってきたよ。」
「ふーん。」
翔子はさして興味もなく相槌を打つ。
「アメリカのS&F社を知ってる?」
「知ってるわよ。うちの会社のパソコンにも入っているじゃない。」
「そう。世界でも有数のソフトウェアメーカーだけど、最近はいろんな分野に進出している。インターネットコンテンツ事業でも業績をあげているね。僕もよく音楽ダウンロードなんかを利用するけど、便利。何枚もCDを買わなくて済むから。」
「それで、その会社がどうしたの?」
「さっき話した北海道のリゾート開発事業をS&F社が進めているらしい。」
「へえ、外国企業が日本に進出するの?手広くやるのね。」
「しかも、S&F社は『Fox Tail』のスポンサー企業なんだよ。」
「え?」
「北海道、S&F社、アメリカ企業、『Fox Tail』、シュリー・ユステール、これって何かを感じない?シュリーはアメリカに渡って、どんな音楽活動を展開していたのか、もっと調べてみたい。そして、さっき君が言っていた『幻の生物』との関連もね。ところで、7月号はもうシュリーに渡しに行った?」
「まだ渡していないわ。」
「僕が行ってもいいかな。君が構わなければ。」
願ってもないことだった。
「ええ。助かるわ。」
「『Fox Tail』は明日、千秋楽だ。アポなしだけど、楽屋に訪ねてみようと思う。」
「松田さん、受付にお客様がいらしています。」
その日の夕方のことだった。内線で呼び出され、翔子は1階の受付に向かった。ロビー前の待合のソファに一人の男性が背を向けて座っていた。
「英次…さん。」
英次は立ち上がると、会釈をした。
「お忙しいところ申し訳ありません。できれば少しお話がしたいのですが、お時間いただけないでしょうか。」
思いがけない訪問だった。翔子は黙ってうなずいた。和也から何かを聞いて来たのかも知れない。
二人は、正面玄関を出ると、すぐ近くの喫茶店に入った。
「翔子さん、和也とはうまくいっていますか。」
英次の問いかけは率直だったが、声には遠慮が感じられた。
「最近、私の仕事が忙しくて、あまり会うことができないんです。」
「そうでしたか。彼とは時々電話で話をするのですが、あまりに元気がないので心配です。冗談で『ふられそうなんだ』とも言っていたので、驚きました。」
翔子は英次の顔をまともに見ることができなかった。目の前の英次がシュリーの弟であることをどうしても意識してしまう。
「翔子さん、和也に聞いたことがあるかもしれませんが、僕たちは十代の頃、ある夢を追い続けていました。」
英次はフォックスについて語り始めた。
「美しい光を放つ真っ白なキツネを探しに北海道へ調査に行ったのです。僕たちはそのキツネをフォックスと呼んでいました。調査には高校の同好会のメンバーが参加し、旅の途中で、ある一人の外国人が調査に加わったのです。彼はフランス人でした。今思えば、彼は孤独な青年だったのですが、僕は彼の反抗的で自暴自棄な性格や、わざと人を怒らせるような行動を取るところが嫌いで、ぶつかってばかりいました。でも仲間たちは彼の不思議な魅力に惹きつけられて、常に彼に注目していました。僕の方が孤立しているような気分になりましたよ。特に和也は彼をかばい続けました。それは最初からその人物が誰であるかを知っていたからです。」
翔子は顔を上げた。自分が知らない、彼らの過去の話を聞くことで、気持ちを整理する糸口がみつかるかもしれないという淡い期待を抱いた。
「彼は当時すでに世界的にも有名なミュージシャンでした。僕はご存知の通り、音楽には疎いところがあったので、最初は彼が誰なのかわからなかった。そしてまた彼が自分の人生にとって重要な人物であることもそのときは知る由もありませんでした。」
隠すことなくありのままに話したいというまっすぐな気持ちが伝わってくる。
「シュリーは類まれな音楽的才能と生まれつきのスター性を持って、十代のときから成功しました。でもそれは表向きのことであって、生い立ちには悲しく辛いことも多かった。僕たちが出会った頃は、シュリーが高い評価を受けた時期だったけれど、彼にとっては最も心が満たされない辛い時期でもあったのです。だからあのようなふるまいをしたのだ、と後になってから少しずつ理解することができるようになりました。
この間『Fox Tail』の舞台を観に行ったでしょう。彼は20年前と外見的にはほとんど変わらなかった。僕は驚きました。まさかあの場所で彼と再会することになるとは思わなかったから。心の準備ができていなかったのです。彼が現れることで、なぜか自分の存在が脅かされるのではないか、という危機感のようなものがあったのです。
フォックス探しの旅でもいつの間にかシュリーは重要なポジションを占めていて、フォックスまで奪われてしまう、というような子どもじみた嫉妬を感じました。それほど彼の存在感は大きい。世界中に多くのファンを持つほどの人物なのだから当然なのだけれど。」
翔子は英次の中にシュリーとの共通点を探していた。しかし二人を兄弟として結びつける目立った要素はないように思われた。
「シュリーが兄であると知ったとき、今まであたりまえだと思っていた世界が崩れていくのを感じました。兄との結びつきを説明してくれる母もすでに他界していて、僕にとってシュリーは一番近い、たった一人の家族になりうる存在だったのだけれども、どうしても受け入れることができなかった。僕たちの前から彼がいなくなり、音楽の世界からも名前を消し、生存すらわからなくなって、僕は正直ほっとしていました。しかし、結局それは僕自身の人生を否定することにもつながったのです。フォックスに向き合うたび、必ずシュリーの影がつきまとい、ついに僕はフォックスを追うことをやめてしまった。
でもフォックスをめぐる僕の人生をずっと見守り続けてくれた親友がいた。それが和也です。僕の人生の重要な時期にはいつも彼がいてくれた。僕がシュリーを受け入れられずにいれば、彼が橋渡しをしてくれる。無理を強いずに、しかし確実に僕に必要なことを教えてくれる。今回もそうでした。シュリーが日本にやってくることは予測していなかったけれど、僕がシュリーに会うべきだということを和也は強く感じていた。そのために彼が動いたことで、翔子さん、あなたを巻き込んでしまった。僕がシュリーとの関係をもっと前に解決していたらこんな状況にはならなかったかもしれない。」
自分を責める英次に驚いて翔子は口を挟もうとした。しかし英次がそれを遮った。
「お願いです、翔子さん、和也を捨てるようなことはしないでください。こんなことを頼むことが馬鹿げていることはよくわかります。あなたが本気でシュリーのことを思ってしまったのなら仕方がない。でもそれが一時的な思いであるならば、和也のところに戻ってください。」
強い懇願の気持ちをこめながら英次は翔子に頭を下げた。
「なぜ、英次さんも和也もそんなに優しいの。」
翔子の声が震えている。
「わかっているの。これは一時的な魔法のようなものだってことくらい…。でも解けたかと思うと再び呪文が聞こえてくる。」
シュリーを別の世界の人間として捉えるには、近すぎるのだ。自分がこうやって翔子に会いに来たことも、かえって追い詰める結果になっている。英次はそれ以上の言葉を告げることができなかった。
「ごめんなさい。英次さん。今は自分自身の気持ちがよくわからなくて、何を言うこともできません。和也にも本当に申し訳ないと思っています。お願いです。もう少しだけ時間をください。」
和也と翔子は傍から見ても、二人でいることが自然で、理想の関係を築いているように思えた。それが簡単に崩れてしまったことに、英次はショックを受けていた。シュリーは自分自身が翔子にどんな影響を与えたかをよくわかっていないのではないか。もし知っていたならば、そこにどんな理由があろうとも彼の行為は許しがたい。先日の訪問で自分自身が抱えていたシュリーへのわだかまりは氷解したように思われたが、和也と翔子の関係が崩壊すれば、これからの関係を築いていくのは難しくなるだろうと英次は感じていた。
『Fox Tail』千秋楽は大成功のうちに終わった。2ヶ月の公演はすべてソールドアウト。その間、シュリー・ユステールの名前は20年の時を経て、再び日本の音楽業界でも注目されだした。複数の雑誌が「ギアー」を取り上げ、公演期間中には複数の新聞に舞台の批評が掲載された。それはほとんどが高い評価を与えていた。最後の舞台挨拶においても、シュリーの登場に会場中から大きな歓声が沸き起こった。
1階席の中段に幾人かの外国人が並んで座っていた。時折左右の人物と言葉を交わしながら観劇する一人の人物に山本は見覚えがあった。S&F社のCEOスティーブ・ロードだ。スティーブは、秋から始まるプロジェクトの進行のために来日していた。山本の席からはスティーブたちの様子がよく見えた。舞台挨拶にシュリーが出てきたとき、スティーブは両手を頭上に大きく差し出して今までの出演者に対してよりもさらに大きな拍手を送っているのが見えた。やはり彼らには何かつながりがある、と山本は確信した。
舞台終了後、山本はアポなしだったので、楽屋前の廊下でチャンスを伺っていた。しかし、閉館時間が過ぎ、ホールの職員に退場を促され、仕方がなくホールの裏口で待つことにした。そこには多くのファンたちがお目当ての役者を待ち続けていた。しばらくして、シュリー・ユステールとステファニーが扉の前に現れた。数人の若い女性がシュリーを取り囲み、花や贈り物を渡している様子が見えた。シュリーはサインに応じ、ファンたちに握手をしながら、日本語で「ありがとう」とお礼を言っている。しばらく様子を伺ってから、山本はファンたちの後ろから声をかけた。
「ユステールさん、『エンターテイナー』7月号をお持ちしました。」
シュリーは、すぐに山本に気付いた。
「わざわざありがとう。」
「少しだけ、取材をさせてください。お疲れのところ申し訳ないのですが。」
シュリーはファンの輪の中から抜け出し、山本の方に歩み寄った。
「アメリカ滞在中の音楽活動についてもう少し詳しくお尋ねしたいのです。」
ファンの中には英語を解するものもいるらしく、山本の質問に興味を示すささやき声が聞こえてきた。
「どんなことでしょう。」
「アメリカに渡ってから音楽活動を再開するまでに何年かの間があるようですが、その間は何をなさっていたのでしょうか。完全な充電期間と捉えて考えてよろしいですか。」
「そのようなものですね。」
シュリーは軽く笑いながら答えた。
「92年に女性シンガーのプロデュース及び楽曲提供でアルバムがプラチナディスクになりました。その時にグラミー賞候補になられたわけですが、辞退をされましたね。その理由を教えてください。」
周りで驚きの声が挙がった。シュリーが別名で音楽活動を行い、グラミー候補になったことなど、日本はもちろんのこと現地アメリカでも知られていない事実だった。
「そのようなことがあったかどうか記憶があいまいですね。」
シュリーの口元は笑っていたが、翡翠色の瞳は冷たい光を宿している。
「お答えになりたくないのですね。その翌年からは、毎年1、2枚のアルバム製作に携わってらっしゃいますよね。当時私は最もアメリカの音楽に興味を抱いていた時期だったので、気に入ったアルバムを輸入版で購入していました。その中に偶然あなたが手がけたと思われるアルバムが7枚も入っていたのです。最近聞きなおして驚きました。意識して聴きなおせば、やはりあなたの曲だと納得がいきます。先日のインタビューでは、あなたが『ギアー』と完全に離れたところで活動をされたかったのが、この長期間に渡る失踪の理由とお聞きしましたが、別に何か理由があるのではないでしょうか。」
「ブラボー!ずいぶんと鋭いところをついてくる記者だね。」
突然山本の背後から拍手と共に一人の男が近づいてきた。さきほどホール内で見かけた人物だった。
「シュリー、すごいじゃないか。君が隠れて仕事をしようとしても、世間は放ってはおかない。僕の言っている通りだろう。」
「あなたは?」
山本は男の正体を確認したかった。
「失礼、君が注目している優れた才能を持つ人物の友人です。彼がアメリカに渡って以来、懇意にさせてもらっている。」
「私の記憶違いでなければ、あなたはS&F社のCEO、スティーブ・ロードさんですよね。」
「これは驚いた。僕のことを覚えていてくれるなんて光栄だな。」
「日本でも有名な企業ですから。スティーブさんにもお聞きしたいことがあります。」
「何でしょう。答えられないこともありますよ。」
「私が入手した情報では、北海道地区に大規模なリゾート開発が行われると聞きました。S&F社が大きく関わっているとも。」
「そんなうわさがあるのですか。」
「事実ではないのでしょうか。」
「もしそのような事実があれば、必ず記者会見を行いますよ。」
山本は食い下がった。
「その開発プロジェクトにシュリー・ユステール氏は関わっているのでしょうか。」
「彼は、僕の長年の友人ですし、すばらしい才能を持っている。もし彼の力が生かせる分野があるならば、ぜひとも協力して欲しいと思っているよ。」
スティーブは山本の真剣な様子に、つい本音に近いところを漏らした。
「CEO、それは…。」
ステファニーは、スティーブの発言を制しようとした。
(この女性はS&F社の人間か…。)
山本は彼女の口調から察した。
「あなたの会社のプロジェクトが日本にとって有益なものであるならば、ぜひとも正式な発表を早めにお願いしたいですね。」
「日本は、わが社の製品の大きな市場だからね、もちろんそのようなことがあれば、全力を尽くすつもりだよ。」
ステファニーの心配をよそに、彼は片目をつぶって、含みのある言葉を山本に返した。
山本はシュリー達の後ろ姿を見送りながら、見えないところで何か大きな動きが起こる予感がした。今はおぼろげな点と点の情報でしかないが、誰も気付いていないところで線として結び付けようとする見えざる手が働いているのではないか。いずれにせよ、もっと細かく調べてみなければ輪郭が見えてこない。山本はオフィスビルの立ち並ぶ大通りを走り渡り、タクシーをつかまえると、夜が更けていくのにも構わず、編集部に急ぎ帰ることにした。
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