第12話 兄弟の再会

 翔子は抜け殻のようになって、シュリーの部屋を後にした。階下に下り、セキュリティードアを潜り抜けた。

「翔子!」

 目の前には和也が立っていた。

「和也…。なんで。」

「レストランで見かけて、それで…。」

 翔子は血の気が引いていくのを感じた。そして和也から逃れるようにその場を走り去ろうとした。

「待って、翔子!」

 和也の声が追ってくる。翔子は振り向かず、回転ドアから外に駆け出すと、すぐさまタクシーに乗り込んでその場を立ち去った。


 その夜、和也は散々迷ったあげく、翔子の住むマンションに向かった。会ってもらえないことも予想したが、翔子はドアを開け、玄関先に和也が入ることを拒まなかった。ただ、うつむいたまま視線を合わせようとしなかった。

「昼間は驚かして、ごめん。」

 和也の声はいつも通り、翔子をいたわるように優しかった。

「でも、僕たちは婚約しているんだ。事情を教えてくれないか。」

 翔子は黙ったままだった。

「一緒にいたのは、シュリー・ユステールだよね。彼の取材のために訪ねたんだよね。」

 翔子は小さくうなずいた。

「それなら、いいんだ。」

 翔子は唇を硬く結んだまま黙っていた。しばらくすると彼女の頬から涙が零れ落ちた。

「どうしたの。最近連絡していなかったから、今日は二人が一緒のところを見て動揺してしまったんだ。君を信じなかった僕が悪い。」

「違うの。ごめん、和也、あなたと結婚する資格ない。」

 今度は和也が黙る番だった。翔子は堰を切ったように話し出した。

「私、シュリーのこと調べて、彼の母親が日本人だと思い込んで、インタビューするつもりで訪ねたの。話を聞いているうちに、彼のことを取材の対象として見ているのではなくて、違う気持ちを持ってしまっているのに気づいたの。私、婚約しているのに、こんな気持ちになってしまって。だからあなたと一緒にいられない…。」

 和也は目の前が真っ白になった。まさか自分が敬愛する人物に翔子が本気で恋をしてしまうことなど思いもよらなかった。和也は思考が混乱し、冷静さを欠いた。そして今まで翔子に語ったことのない話をし始めた。

「シュリーの母親が日本人だということは本当だよ…。」

 翔子は和也の言葉に耳を疑った。

「シュリー・ユステールは、父ジャン・デニ・ユステール氏と君も知っている僕の親友、都築英次の母との間に生まれた。シュリーは英次の血の繋がった兄なんだ…。」

 翔子は、シュリーが「エイジ」と言ったことを思い出した。

(エイジって、英次さん?)

「彼が何を話したか知らないけれども、シュリーが来日して失踪したとき、高校生だった僕たちの前に彼が突然現れた。そして一緒に北海道に渡って、共に過ごしたことがある。」

 シュリーが話していた「幻の生物」を追って北海道に渡った仲間たちというのは、目の前にいる和也や英次を含む人々であることを翔子は知った。

「あっ。」

 翔子は小さな声を挙げた。

「そうだよ、『Fox Tail』の初日に、僕は舞台挨拶でシュリーが出てくることなど予想だにしていなかった。知っていたら、おそらく初日のチケットはお願いしなかったと思う。」

 シュリーが登場したときに、英次が席を立って奇妙な行動をしたことを翔子は思い出した。

「彼らはそれぞれ複雑な家庭環境を背負っていた。そして出会った時うまく心を通わせることができなかった。お互いに兄弟としてどこかで求め合いながらも、それをうまく表現することができなかった。そして先日、本当に久しぶりに二人は再会した。僕も変わらないシュリーを久しぶりに見ることができた。こんな話、君がシュリーに惹かれてしまったことと何の関係もないことはわかっている。でも彼は僕たちと違う世界に住む人間だよ。君の気持ちは僕と同じ、彼の才能や外見の美しさ、カリスマ性に惹かれているということではないの?」

 翔子はうなだれた。そうかもしれない。でもこうやっている間もシュリーのことを考えてしまう。それはどうにもできない。

「翔子、現実を見てほしい。僕はシュリーと争う気など全くない。なぜなら、彼は舞台の上に住む人間だからだ。僕たちのように現実の世界で生きる者と違って、彼らは多くの人々に支持され、その人々に夢を与えるのが仕事なのだよ。だから君が彼に惹き付けられても、僕は何でもない。僕たちの関係に何も影響を与えない。」

 翔子は和也の優しさにさらに涙がこみ上げてきた。

「お願いだから、冷静になって。僕は待つから。君がふだんの君に戻るまで。」

 和也はこれ以上翔子を責めたくなかった。そして翔子を抱きしめたい気持ちを抑えて、静かに部屋から去っていった。


「もしもし、英次か。」

 翔子の家を出て、駅までの道を重たい足取りで歩きながら、和也は携帯のボタンを押していた。

「俺ってだめだな。」

「なんだ、やけに気弱だな。どうした。」

 英次は和也の声がいつになく沈んでいることに気付いた。

「ふられそうだ。翔子に。」

「ええ?まさか。」

「翔子、シュリーに本気で惚れちまったらしい。」

 英次は和也のその言葉を聞いて、過去のことを思い出した。フォックス探しの旅にシュリーが加わったとき、英次は皆を率いるリーダーだった。しかし、そこに存在しているだけで、仲間たちはシュリーを気にし、シュリーに関わりたがった。ひそかにあこがれていた同級生の良子までもが、彼に惹きつけられていることを感じた。英次は彼の存在を疎ましく思った。まだ兄弟であることを知らない時のことである。

 英次は和也にかける言葉がなく、しばらく黙っていた。

「たぶん一時的なものだと思ってはいる。だけど相手があいつじゃ勝ち目はないからなあ。」

 和也はわざと明るい声で笑ってみせる。

「和也、笑い事じゃないだろ。お前の一生がかかっている話だ。」

 シュリーに対する怒りがこみ上げてきた。

「わかっているさ。今は翔子の熱が冷めるのを待つしかない、そう思ってる。」


 英次は電話が終わった後、すぐに塾を後にし、駅に向かった。そして帰宅の人であふれる階段を急いで駆け上がると、ホームに止まっていた中央線の上り電車に飛び乗った。下り列車と違い、車内は比較的空いていたが、座る気持ちにならずそのままドアに寄りかかりながら、外の過ぎ行く明かりをボーっと眺めていた。

 少なからず英次は今回の事態を招いたことに責任を感じていた。もちろん、自分の兄であるということも理由の一つだったが、シュリーとの関係を解決せずにきたことで、無意識のうちに和也に橋渡し役をさせ、結果として翔子がシュリーに関心を持つきっかけを作ってしまったことが一番の原因だと思った。自分がシュリーと直接対話していれば、このようなことは起こらなかったかもしれない。親友が絶望に追いやられる姿だけは絶対に見たくなかった。

 ホテル・TOKYOに到着したときはすでに夜の十一時を回っていた。だが、非常識という考えよりも、心に浮かんだ決意の方が勝っていた。

「シュリー・ユステールさんに急用です。取次ぎをお願いします。」

 英次は自分の名前をフロントに告げた。

 しばらく待たされたが、案内がやってきてセキュリティードアを開けてくれた。

「22階の2201号室になります。」

 

2201号室の呼び鈴を押すと、中からステファニーが出てきた。

「どうぞ。」

 ステファニーは明らかに不機嫌だった。無理もない。夜中の訪問客だ。通されたリビングは壁際のフロアライトだけが点灯していた。大きな窓から美しい東京の夜景が見えた。

「シュリーは、もうすぐ戻るわ。失礼だけどあなたのこと、彼に電話で確認させていただいたの。待ってもらうようにとのことだったわ。」

「こんな夜遅くに申し訳ありません。」

 ステファニーはデスクといくつかの楽器近くにあるライトを点けた。部屋全体が少し明るくなった。

「今、飲み物を持ってくるわ。アルコールの方がいいかしら。」

「いいえ、アルコールは結構です。」

 ステファニーは隣の部屋に入っていった。

 一人残された英次は、再度窓の外を眺めた。いつか仲間たちと北で見た夜景を思い出す。冬の凍てついた空気に街のネオンがゆらめき、寒さを忘れるほど美しかった。

 振り返って部屋の中を見回した。高級ホテルのスイートなど英次にとっては無縁の場所である。おそらく、以前ならば自分とシュリーとのこうした隔たりを感じるたびに、コンプレックスを持ったことだろう。しかし今はそれほど羨みや、自分を卑下する気持ちは起きなかった。会わなかったときよりも、シュリーを遠い存在として実感する。

 英次はふと一台の楽器に目が留まった。ライトの近くでスポットを浴びるように照らされたキーボードは、シュリーがそこに座って長い指で演奏している様子が想像された。英次は楽器の側に近寄った。周りの楽器に比べると型が古く、使い込まれているように見えた。シュリーは世界的なアーチストなのに、自分には音楽的才能は全くといっていいほどないことが滑稽に感じられた。英次は人差し指で鍵盤を二、三押してみた。ぷすぷすと沈み込むだけで音はしない。鍵盤の上にはたくさんのスイッチが配置され、右側には音量調節のダイヤルもついている。楽器メーカーの名前が印刷されているちょうどその上に横長の小さなプレートがあった。「Memento of KEIKO」という文字を見つけ、英次は軽い衝撃を受けた。「KEIKO」とは二人の母の名に違いなかった。亡き母が自分の知らないところでシュリーとの時間を過ごしていたことは、飛行機事故の直前に彼らが会っていたことで知った。しかしそれがどれだけの親しさで過ごされた時間であったのかは、子どもだった英次にとって想像が難しく、あえて深く考えずに過ごしてきた。この楽器がどのような思い出の品であるのか、聞いてみたい気もしたが、自分だけに残っている母との思い出の価値が下がってしまうようにも思う。

 ステファニーがワゴンを押しながらリビングに戻ってきた。ガラスのテーブルの上に、茶器やいくつかの皿が並べられた。ステファニーはティーカップにお茶を注ぎ、英次に声をかけた。

「どうぞ、お座りになって。」

 英次は、ソファーに腰掛けた。

「あの、失礼ですけど。あなたはシュリーとどのようなご関係なの?」

 おそらくシュリーは日本人の弟の存在を周囲の人々にも話していないだろう。長年、アメリカに渡って行方をくらませているくらいだから、プライベートな話は避けているに違いない。

「昔の知人です。以前、来日された頃の。」

「ああ、『ギアー』の時代のお友達なのね。コンサートはご覧になった?」

「ええ。札幌の公演にいきました。」

「羨ましいわ。私はそのころ別のグループに夢中で、『ギアー』には興味がなかったの。今考えればコンサートに行っておけばよかったわ。」

 ステファニーは少し機嫌が直ったようだ。

「シュリー、えっとユステールさんは、今回の来日で、取材を受けることがよくあるのでしょうか。」

 英次は翔子のことを確認したくて、ステファニーに問いかけた。

「そうね、最初は受けていたけれど、このところは、ほとんど断っているわ。一社を除いて。」 

 彼女は再び不機嫌そうな声に戻った。

「特定の記者だけに許可しているの。」

「男性ですか女性ですか。」

「日本人の女性よ。でも何でそんなこと聞くの?」

「いえ特に意味はありません。」

「あなたもプレス関係?」

「違います。」

 リビングの扉が開いた。シュリーが帰ってきた。明らかに急いで帰ってきた様子だった。

「今、帰った。ステファニー悪いが、彼と二人で話をしたい。」

 ステファニーは、後ろを振り返って、「まただわ」といった表情を浮かべると、黙ってソファーを立ち上がり、隣の部屋に入っていった。

 シュリーは一、二歩歩み寄ったが、立ったまま英次を見た。さきほどのキーボードの側にあるライトの明かりがシュリーを照らし出していた。英次はシュリーを見上げた。栗色がかったブロンドの髪は以前よりも短くなった。肩の下にゆるやかなウェーブを湛えている。昔と変わらない引き締まった体つきは体質とはいえおそらく相当な努力をして維持しているのではないかと思わせた。『ギアー』時代のビジュアル系のスタイルではないが、落ち着いた大人の装いも背の高い彼を引き立てる。キーボードを自在に操る長い指先がひときわ白く照らし出される。そして何よりも彼の翡翠色の瞳を見ると、英次はフォックスのことを思い出さずにはいられなくなった。

「久しぶりだな。」

 今回日本に来て初めて日本語を使ったせいか、声がかすれた。

「お久しぶりです。」

 英次は複雑な思いの膜を破るように兄に挨拶をした。

「舞台を観に来てくれるとは思わなかった。」

「木下和也が誘ってくれたんです。彼はあなたの大ファンですから。」

「カズヤは元気か。」

「元気です。」

 英次は何から話せばよいのか、頭の整理がつかなかった。

「日本から居なくなったあと、どこに行っていたのです。」

 かすかに相手を責めるようなニュアンスを含んでいた。

「アメリカに居た。」

「ユステールさんには連絡を取っているのですか。」

「いや、父には連絡をしていない。」

「なぜです。和也がヨーロッパに出張したとき、偶然あなたのミュージカルのことを知って、ドイツの舞台を観に行ったとき、ユステールさんに会ったそうです。」

 シュリーは父が『Fox Tail』を観に行っていることを初めて知った。

「連絡を取ってあげてください。あなたのことを心配しているはずです。」

 それはシュリーを諭すような口調だった。出会ったときの英次は正義感が強く、よくこんな口調でフォックス研究会のメンバーや自分を統率しようとした。そしてわざと場の雰囲気を変えるような発言をして、英次の機嫌を損ねていたことを思い出した。

「フォックスはどうしている。」

 唐突な質問に英次はとまどった。あの台風の夜の夢が思い出される。

「調査を15年ぶりに再開しました。二度と探すまいと決意したときもありましたが、あることがきっかけで…。」

「あること?」

 鮮明な夢の記憶のシュリーと、目の前のシュリーとは別の存在のように感じた。

「フォックスは変わらずに居るのだろうか。」

「はい。でもあの旅以降、実際に確認したことは一度もありませんでした。」

 シュリーは左の二の腕に手を当てた。

「あの時の怪我は大丈夫だったのですか。」

「傷は残ったが大丈夫だった。」

 雪原の上に倒れ、意識を失うまでの間、フォックスの光に包まれ、悲しみや羨みなどの負の感情がくっきりと照らし出されるのを感じた。光は強く、心の闇は深く、そのコントラストに自分自身の存在を引きちぎられ、二度と起き上がることはないのではないかとすら思った。シュリーにとって、あの経験は、これまでの人生の中で最も忘れられないものになっていた。

 こうやってシュリーと話していると、会わなかった時の長さを感じさせない。フォックスを追った時を共有しているせいか、それとも兄弟だからか、今ならば心を開いて話ができる気もした。英次はふと今日訪問した目的を忘れそうになった。そして静かに、しかし決然と尋ねた。

「松田翔子という女性をご存知ですか。」

 英次が告げた名前にシュリーは首をかしげた。

「成文社の記者です。」

「彼女のことか。」

「ご存知なんですね。」

「何度か取材を受けたが。」

 シュリーの言葉には特別な感情を見出せなかった。

「彼女が木下和也の婚約者だということは知っていましたか。」

 シュリーの表情に変化が見えた。

「あなたは彼女をどのように思っているのですか。」

「どう思っている?ただの記者としか思っていないが。」

「彼女は和也に婚約の解消をほのめかしたのです。原因はあなたであるとも言ったそうです。」

 シュリーは無表情に英次を見つめた。

「翔子さんがそこまで言うのは、理由があるのではないかと思ったのです。」

「私は取材を受けただけだ。」

「本当ですね。」

 シュリーは黙ってうなずいた。英次はほっと胸をなでおろした。しかしシュリーは悲しげに肩を落としたように見えた。

「それを聞くためにここに来たのか。」

 英次は答えられなかった。確かに和也から話を聞かなければ、こんな風に衝動的には足を運ばなかったかもしれない。だが本音はシュリーに直接会って話したかった。それを英次は今自覚した。

「それ…だけではありません。」

 英次は語気をやわらげた。

「ずっとあなたに尋ねたいことがありました。」

 シュリーは静かにソファーに歩み寄り、英次の斜め向かいに座った。英次は緊張した。

「あの時、なぜツアーを抜けて私たちのところへ来たのですか。最初からそうしようとして日本にやってきたのですね。」

 英次は、85年のツアーでシュリーが来日したとき、自分を探して訪ねてきた理由を聞きたかったのだ。

 翡翠色の瞳の奥がゆらいだ。そして前置きもなく淡々と話しはじめた。

「パリの街を彼女に案内した時、いろんな話をした。学校のこと、音楽のこと、将来のこと。私には自分の他愛もない日常を語れる友人も家族もいなかった。たった一日だったが、今までの人生で最も楽しい時間だった。その時、彼女は日本に居る息子の話をしてくれた。自分の息子について話す彼女はとても嬉しそうだった。私は彼女が自分の母親でその息子が自分の兄弟だったならばどんなにいいだろうかと思った。」

 もちろん、彼女とは彼らの母、恵子のことである。

「空港に向かう彼女と別れた後、忘れ物を見つけた。私は空港まで車を走らせたが間に合わなかった。忘れ物は送るつもりだった。だがそれはできなくなった。」

 英次は事故当時のことを今でも夢に見ることがある。この世に一人取り残された孤独と恐怖は年齢を重ねても消えることはない。

「私は見てはいけないと思いながら、事故の後どうしても我慢できずに忘れ物を開けた。日本の着物の布でできた小さなポーチの中にはペンダントと写真が入っていた。」

 シュリーはソファーから立ち上がると、デスク上のトレーの中から古い布製の小袋を取り出し、英次の前に置いた。英次はそれに見覚えがあった。小さな蝶の模様がほどこされた長方形の入れ物だった。ホック留めの入れ物は少し古びてはいるが、恵子の手作りと思われる温もりを感じさせた。中には写真とペンダントが入っていた。英次が小学生の頃に父母と三人で旅行をしたときの写真だった。英次は二人に囲まれ幸せそうに笑っている。この頃は何も心配することなく過ごしていた。旅行好きの父は長期の休みに入ると必ず国内旅行に連れて行ってくれた。

留め金に小粒の真珠が飾られた、薄桃色の貝型のロケットペンダントは、母が常に身につけていたのを思い出す。ある時期から、母はそれを身につけなくなったが、おそらく大事にこのポーチに入れて持ち歩いていたのだろう。英次は留め金をそっと外した。横開きに開いたペンダントの中には、右と左に一枚ずつ顔写真が入っていた。右側には英次が幼い頃の顔写真。そして左側には、おかっぱ頭に美しい緑色の瞳をした外国人の子どもの写真が入っていた。まぎれもなくシュリーの幼い頃の写真だった。

「問い詰めても父は何も教えてくれなかった。しかし私はその写真を見てすべてを悟った。私は家を出、それまで通っていた音楽学校にも行かなくなった。そして日本へ行くための資金を稼ぐため、パリの酒場でピアノを弾きながら働いた。」

 英次はシュリーも自分と同じように孤独の時を過ごしていたことを知った。

「『ギアー』のメンバーとしてスカウトされたのはそんな頃だった。マネジャーからは世界ツアーもできるようなビッグネームになる、そんな大きな話しをされ、私は『日本に行くこともあるのだろうか』と尋ねた。日本はアジアの中でも最も発展していて、ロック音楽のファンも多い国だから世界ツアーになれば必ず行くことになる、と言われた。私はその話を真に受けた。実現するまでに4年かかってしまったが…。」

 『ギアー』で全力を傾けて世界ツアーに出るまでの努力をしたことの裏には、こんな彼の純粋な動機があったことに英次は驚いた。

「私は金を得るようになったが、精神的には自分を保つことがやっとだった。酒におぼれ薬にも手を出した。早く日本に行きたかったが周囲の状況がそれを許さなかった。そしてついに世界ツアーが決まった後、私は日本に居る彼女の息子の消息について調べた。成田に着き、自然と私の足は東京に向かった。誰にも止められない、私自身も制御することのできない衝動のままに。」

 その後のことは英次自身もよく知っている。ただ、英次に会いに来たはずのシュリーは、自分に対して好意的には見えず、決して本音を語ることはなかった。フォックス探しに同行することになっても、グループの規律を乱し、英次の神経を故意に逆なでするような言動をしているように思えた。そんなシュリーのことを一番理解し、仲間に迎え入れたのは和也だった。和也の仲裁がなければ、英次はシュリーと真っ向からぶつかり合ったことだろう。

「それをお前に返したいと思った。しかし、あの時はできなかった。」

 若かった彼は、家族や友人たちの愛情に囲まれて生きてきた弟に対する羨みの感情が強かった。

「やっと返すことができる。」

 翡翠の瞳が再びゆらいだ。やさしく慈しみにあふれたその表情をシュリーはこの二十年で得ることができたのだろうか。英次は、ペンダントを手に取り、シュリーの側に寄ると、彼の首元に銀のチェーンを回しかけた。

「これはあなたが持っていて下さい。」

 英次は女性のようにやわらかいシュリーのブロンドの髪にからまないように留め金をかけた。一方、触れた両腕に感じる兄の肩は意外なほどがっちりとしている。離れようとしたとき、英次の背中に強い力が加わり、引き戻されるのを感じた。シュリーは、英次を抱きしめていた。英次は体中の力が抜けていくのを感じた。十代の前半で両親を失ってから今まで、肉親という心の拠り所がなく、常に緊張し続けて生きてきたような気がする。時にはすべてを投げ打って甘えられる場所を求めたが、誰にも満たされることはなかった。彼らは違う人生を生きながら、共通した孤独を持ち続けていた。そしてお互いを兄弟と認め合うことで、その孤独から解放される鍵を外すことができると、どこかで知っていた。

「会いたかった。エイジ、お前に。そして謝りたかった。」

 フォックスに遭遇し、シュリーが消えたあと、英次は自分の中で時の感覚が麻痺しているように感じられることが多くあった。何をしていても実感が伴わず、自分自身の変化を認めることができなくなっていた。成長も発展もない、逆に老化も衰退もない無風の時間だけが流れていく。同世代の者たちは、仕事や昇進、結婚や家族を築くことに当たり前のように取り組んでいるように見える。英次も同じ道を歩んでみた。しかし、彼はどうしてもそれらのことに自分を合わせることができなかった。大人になりきれないとか、欠陥があるとかいった世間的な評価を自分自身に下しながら、いつか諦念とともに楽になる瞬間が来ることを願い過ごしていた。

 今、初めてシュリーの言葉と存在を受け止めることができたような気がする。それと同時に、皮膚を通して伝わってくる言葉にならない思いが、温かなエネルギーとして英次の心を満たしていく。英次は、ふと、フォックスの金色の光のことを思い出した。あの光はこんな温かさだったのだろうか。シュリーはその光の中でどんな気持ちだったのだろうか。

「フォックスは心の闇を照らし出す。あの光で。」

 英次の心を読んだかのように、シュリーのささやき声が聞こえた。

「あれは神の光だ。人智を超えた力を持っている。だからフォックスの存在は守られるべくして守られている。誰もが近寄れるものではない。」

 歌うように語るシュリーの言葉は、英次が今まで考えたことのないフォックスの本性を想像させた。

「神?」

「いや、私がそう思いたかっただけなのかもしれない。光の中で私は抗うことのできない強い感情によって押しつぶされそうになった。それはすべて自分の中に原因があることも瞬時に理解させられた。最後にそれらの感情が光によって浄化され消えていくのを感じた。」

 フォックスの光―遠くから見れば美しい自然の神秘として観賞することができた。神々しいという形容は確かに当てはまってはいるが、その光に具体的な効用のようなものがあるとは想像していなかった。あの時、シュリーだけが直接光に照らされ、その他の者は遠巻きにフォックスとシュリーとを眺めていただけなのだ。あの至近距離にありながら、シュリー以外の者たちは、フォックスの照らし出す光の範囲の中には入らなかった。英次の記憶では、積極的には入ることができなかったというのが正直なところだった。

 英次は再び強い情熱が心に甦ってくるのを感じた。フォックスを探したい。前回は中途半端に終わらせてしまったフォックスの調査を再びすることによって、今度はそこに自分が生きている意味を見出したいと強く思った。フォックスに恋していた頃は体中の感覚がすべて総動員され、何をすべきなのか明確に理解されていた。だから次々と道が開かれていった。その感覚を取り戻したい。フォックスに会いたい。今度は自分が光の中で答えを見つける。

「ありがとう。」

 英次はシュリーに素直に感謝することができた。

「もう一度、しっかりフォックスを探しに行きます。神なのかどうか確認してみます。」

 シュリーは「神」という言葉に笑って答えた。

「神ならば、フォックスに伝えてくれ。私はあなたのしもべである、と。」

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