第10話 ミュージカルの初日
英次は和也から受け取った『Fox Tail』のチケットをカレンダー脇の壁にピンで留めた。
(4月20日か…。一体どんなミュージカルなんだ。)
英次はパソコンで『Fox Tail』を検索した。瞬く間に多くの検索結果が画面に現れた。現在上演されているドイツのサイトにアクセスし、舞台の様子などを収めた画像一覧を次々とクリックした。その中に、和也がドイツで購入した『Fox Tail』のCDジャケットと同じ写真があった。ユステール社のショーウインドウに飾ってあった、スワロフスキーのFoxを中心に据えた白い背景のジャケットだ。英次は、画像を拡大してみた。クリスタルの胴のほっそりとしたFoxは、翡翠の目と金箔が埋め込まれた手足と尾を持っている。和也がパリで見たFoxの置物の話を思い出した。これを果たしてシュリーがジャケットに採用したのかどうかはわからない。しかしこれはまさしく本物のFoxを模したものに他ならなかった。「シュリーもFoxを忘れられずにいる」と言った和也の言葉は本当なのかもしれないという思いと、だからそれが今の自分とどう関係するのか、というシュリーに対する受け入れがたい思いが交差する。なぜ自分はここまで兄のシュリーにこだわり、受け入れられないのか、それは以前出会った時からの長い間の悩みでもあった。
父母を失い、自分にはFoxを追いかける夢だけが心の支えとなっていた時期に、血が繋がっているという兄が突然現れた。そしてその兄も愛情に満たされない時期を長く経ていたために、英次に対して屈折した愛情表現しかできなかった。しかもシュリーは音楽の世界での成功者であり、その父ユステールも不動の社会的地位を築いている。
英次の周りの者たちは自然とシュリーに惹きつけられた。英次は自分の世界に踏み込んできた兄の存在に対して煩わしさと反発しか感じられなかった。さらに、「Foxを流れ弾から救う」という英雄的行為さえシュリーに割り当てられた役目だったことに英次は嫉妬していたのだ。今考えれば、くだらない対抗意識だったのかもしれない。それでも、ふと、母は先に生んだシュリーと自分とのどちらを愛していただろうか、と考えたことがある。もちろん英次自身は母に多くの愛情を受けて育った思い出しかない。しかし、母が事故に巻き込まれる直前に会っていたのは兄のシュリーだったという事実を知ったとき、英次は母に裏切られた思いがした。そしてこのことが後々、女性に対する疑心を生み出す直接の原因となっているのは確かなのだ。
(まあ、しかしずいぶんと長い時間が流れた…)
そんな若い頃の思いも今はだいぶ客観的に捉えることができるようになった。
英次はかすかにためらいの気持ちを持ちながら、「シュリー・ユステール」を検索にかけてみた。
こちらも多くの検索結果が出てきた。ほとんどが元「ギアー」のメンバーとしての紹介内容だった。その中に、『Fox Tail』の音楽監修者としての英語版のサイトがあった。英次はそれにアクセスした。
はじめに『Fox Tail』の内容紹介があり、ブロードウェイでの公演のブログが続いていた。ブロードウェイの公演は昨年から始まっており、人気も上々の様子だった。何枚かの画像をたどっていくと、「Sully・Huster」というタイトルの画像が現れた。英次は思い切ってそれを開いた。そこには、舞台上で役者に囲まれ観客に向かって挨拶をしているシュリーの様子が写し出された。舞台下からの撮影ではあるが、はっきりと今のシュリーの姿が現れたのだ。英次は息を呑んだ。シュリーは20年前の姿と全く変わっていないように見えた。腰の辺りまであった長い髪は肩の下に下がる程度に短くなっていたが、細くしなやかな体型は40歳を過ぎた男性とは思えなかった。昔はロックスターらしい黒革の上下だったが、画像ではダークグレーのスーツを身につけている。やはりどこか彼の父親であるユステール氏に似ている。日本に何度も来日している父ユステールは、多くの雑誌がインタビュー記事を載せている。英次はたまにそれらの記事を読んだことがあったが、品の良いスーツに身を包み、いつもロマンスグレーという言葉が最も似合うアングルで写真に収められていた。
英次はシュリーが少なくとも生きて元気そうであることを画像でも確認することができ、この点については長年の気がかりな思いが消えて安心した。失踪直後はユステール氏と連絡を取り合い、日本国内でシュリーを探し続けた。特に成田空港へは何度も足を運んだ。しかし半年たってもシュリーは見つからなかった。英次は大学受験を控えていたこともあり、シュリーの捜索を断念した。それ以来今日まで自分からシュリーの消息を求めることはなかった。たまたまあの時お互いの人生が交錯してしまったが、兄弟とはいえ生きる場所は全く違うのであって、無理をして再会する必要はない、と画面を眺めながら英次は考えていた。
ミュージカルの初日、和也は翔子と6時に有楽町で待ち合わせて軽く食事をとった。
「和也の大好きなミュージカルがいよいよ観られるわね。」
「うーん、その表現はいまひとつ正確じゃないなあ。俺はミュージカルにはあまり興味ないわけ。音楽を聴きに行くためにミュージカルを観に行くんだよな。」
「はいはい、わかっています。『ギアー』ワールドに浸りたいわけよね。」
「まあね。」
「じゃあ、今日の舞台は特別だもの、やっぱり楽しみね。」
翔子は含み笑いをした。
「なんだよ。もちろん楽しみさ。その言い方、今日の舞台は何か特別な仕掛けでもあるのかい。」
「あら、わかっているくせに。和也にとっては幸せな舞台なんじゃない。」
二人は、食事を済ませると東京劇場へ向かった。
「英次さんとは、劇場前で待ち合わせ?」
「いや、ぎりぎりになりそうだから先に入っていてくれって連絡があったよ。」
「英次さんにお会いするのは二度目ね。式の時にはスピーチをお願いするんでしょ。」
「ああ。あいつは中学校からの親友だからな。そのつもりだよ。」
「いいわね、男の友情は長く続くのね。」
東京劇場は演劇やミュージカルの中でも常に一流の演目が公演される伝統ある劇場として有名だ。昭和の初期に作られたレンガ造りの重厚な建物の中にある。二人が劇場に到着すると、入口付近には人があふれていた。圧倒的に女性が多い。しかし中には自分と同世代とおぼしき男性もいて、きっと音楽目当てに違いない、と和也は心の中で決めつけた。ロビーに入ると、ミュージカルの関連グッズを売っているカウンターに多くの客が群がっていた。ドイツとは比べものにならないほど種類が多い。特に日本人役者に関する商品が多いようだ。
和也はパンフレットを一部購入した。ドイツ版のパンフレットも何十ページにも及ぶ分厚いものだったが、日本語訳版は日本キャストの紹介も加えているため、さらに厚く重たかった。和也はすぐに音楽の紹介ページを探した。冊子の中ほどにシュリーに関する紹介記事が載せられていた。
「作曲・音楽監修 シュリー・ユステール 1964年6月19日フランス生まれ 幼少の頃よりクラシック音楽に親しみ、パリの国立音楽高等学院ピアノ科に学ぶ。その後、ロック音楽に転向、クラシックの影響を大きく受けた独自のロック音楽を作り上げる。1982年、ロックグループ『ギアー』に参加、デビュー。シュリー・ユステールの参加でグループの音楽性は大きく転換した。アルバム『シャドウズ』が全英1位を獲得、その後アメリカでも発売されアルバムチャートで15週連続の1位を獲得、全世界で1500万枚のセールスを記録。『シャドウズ』の楽曲はすべてシュリーが作詞作曲を担当。彼の壮大なスケールの音楽と甘いルックスは、多くのファンを魅了した。日本へはワールドツアー85の最終公演のため来日している。父親は世界的に有名なブランド『ユステール』の創始者、ジャン・デニ・ユステール氏。『Fox Tail』の舞台音楽は、アルバム『シャドウズ』からの抜粋と未発表の楽曲により構成されている。緻密で芸術性の高い舞台演出に並び、『Fox Tail』の大ヒットはこの音楽の魅力によるところが大きい。」
二人はホールの中に入り、座席を探した。舞台に対して中央通路に面した左側10列目の舞台に近い席だった。
「さすが、翔子、いい席だな。」
「でしょ。感謝してよ。」
和也と翔子は後から来る英次の席を通路側に確保して座った。舞台はドイツで観たときよりも近く、オーケストラピットもよく見える。音楽を堪能したい和也にとっては最高の席だった。開演5分前のベルが鳴った。英次はまだ到着しない。館内に上演中の諸注意などのアナウンスが流れ始めた。
「さっきの話だけど、初日を希望したのは、舞台挨拶があるからでしょ。」
翔子は和也に耳打ちした。和也は翔子の言葉を聞いてもピンとこなかった。
「舞台挨拶はやっぱり最後よね。和也はそれが一番楽しみなんじゃない?」
和也は舞台挨拶の意味を頭の中で考えた。
「舞台挨拶って、役者とかがしゃべることだろ?映画の封切みたいに。」
「そうよ、あたりまえじゃない。それで製作者や音楽監修者が紹介されるのよ。」
「え?」
「あら、知らなかったの?それが目当てで初日を選んだんじゃないの?」
和也は頭の中がパニックになった。その時、中央の通路を係員に誘導されながら英次がやっと到着した。
「ごめん。遅くなって。あ、翔子さんこんばんは。今日はチケットを取ってくださってありがとうございます。」
翔子は笑顔で会釈をした。和也は英次の顔を見つめたまま何も言えず、動揺し続けていた。
「なんだよ。和也。」
その時、開演のベルが鳴り、英次は舞台に向き直って姿勢を整えた。
(やばい。どうしたらいいんだ。俺のせいじゃないぞ。)
和也は思った。
(いや、これも運命か。)
オーケストラピットの指揮者が頭の上から指揮棒を振り下ろすと、和也の大好きな曲「シャドウズ」がホールの中に鳴り響いてミュージカルの幕が上がった。
ミュージカルの前半が終了し、20分間の休憩に入った。三人はロビーでワインを頼み、背の高い丸テーブルを囲んで乾杯した。
「和也の言ったとおり、舞台は楽しいし、音楽もすごいわね。」
翔子は前半の感想を述べ始めた。
「英次さんも『ギアー』のファンだったのかしら。私は最近まで洋楽のロックなんかぜんぜん興味なかったのですけれども、和也に少しずつCD借りて聞くようになったの。」
「いや、僕も和也にレコード借りてた派ですよ。」
英次は笑いながら翔子の質問に答えた。
「やっぱり?無理やり、『いいから聴け』って感じだったんじゃない?」
「そうそう。当時はよくわからなくてね。聴いた振りして返したのも多かったな。」
英次と翔子はワインの酔いも手伝ってか、二人で盛り上がっている。しかし、和也は無言のままだ。
「和也、なんか大人しいな。感動しすぎて言葉が出ないのか。」
和也は英次の顔を無言で眺めた。和也は舞台の前半、集中することができなかった。音楽もどこか素通りしていくような感じがした。
「どうしたのよ、和也。なんだか変よ。」
「悪い、ちょっとトイレへ行って来る。」
和也は二人を残して、ゆるやかなスロープの廊下を下っていった。もし舞台挨拶にシュリーが現れたら、英次はどうなるのだろうか。舞台から近い席であることも気になった。伝えておいたほうがよいのだろうか。そして翔子が英次に舞台挨拶のことを言ってしまうのではないかと心配になり引き返した。
二人は相変わらずワイングラスを傾けながら談笑している様子だった。和也が近づいても二人は気づかなかった。
「僕は本当に安心しましたよ。翔子さんみたいな人が和也の傍にいてくれて。」
「そうですか。私のほうが、和也に救われていることが多いんです。こんなにお互い忙しくて、でも和也だから安心して付き合っていられるのだと思います。あせったり、疑ったり、絶対にしないから。」
英次は、翔子の言っていることが良く理解できた。
「それより和也は気持ちの面で英次さんに頼っているみたい。この間も、『あいつがいなかったら、俺はこうして研究を続けてこられなかった』って言っていたのよ。」
「それは逆ですね。僕が今まで和也に励まされ続けてきたんです。翔子さんと同じようなことを僕も感じている。和也はいい奴です。本当に。だから二人で幸せになってください。」
「ありがとうございます。」
舞台後半の開始5分前を告げるベルが鳴った。
英次は舞台を観ながら、漠然と考えていた。
(なぜ、フォックスに対する情熱が冷めたのだろうか。)
今、再びフォックス探しを開始したとはいえ、以前のように無条件で夢中になれる情熱は甦ってはいない。やはり大人になってしまえば、十代の頃の夢物語が心から消え去ってしまうものなのだろうか。自分にとって未知だったことの一部を知ることによって、広がりを感じられなくなり、世界が狭くなっていく。知ったつもりのことが多くなる。その奥深さや広さを感受する力が失われてしまうのだろうか。この世界の広さも宇宙の広がりも自分が決めてしまった枠の中で捉えるようになってしまった。本当はそれ以外にも世界が広がっているのに、認められなくなっていた。だからフォックスを追いかけなくなり、シュリーを遠ざけたのかもしれない。英次はシュリーの音楽に包まれながら、少し前であればおそらく受け入れられなかったことも、今は受け入れられるのではないか、といったようなことを感じていた。
和也がドイツで観たクライマックスが近づいてきた。演出はほとんどドイツ版のままで、白い煙が立ちこめ、客席に漂ってきた。和也たちが座っている10列目あたりは座席の高さまで煙が昇ってくる。和也は英次を横目で見た。英次はリラックスした表情で舞台を観ているようだった。そして、Foxが天に昇って光に包まれるシーンで、英次の目に涙が光っているのを見た。
観客は総立ちとなり、カーテンコールを迎えた。役者たちがお辞儀をしながら挨拶し、拍手と歓声が延々と続く。そして最後に明日から始まる日本人キャスト版の人気役者が二人出てきた。場内からは女性の歓声が上がった。主演の西原直之目当てのようである。
「皆様、本日は『Fox Tail』日本公演の初日にお越しいただきまして、まことにありがとうございます。初日のオリジナルキャスト版はいかがでしたでしょうか。ヨーロッパで大ヒットのロングラン公演、現在ではブロードウェイ公演も順調なこのミュージカル、明日からは我々日本人キャスト版もお楽しみいただけます。いやあ、立花さん、我々も頑張らなきゃ、ですよね。」
「ええ、西原さん、いやいやデーモン様、我々の舞台が本家に負けないよう心して明日を迎えましょう。それでは、次にこの舞台の原作者ジッター・マイセンさんをご紹介いたします。」
場内から拍手が沸き起こった。そして、舞台の奥から中背の気の良さそうな男性がにこやかに現れた。舞台の中央、西原と立花の間に立って、二人と握手を交わし、客席に向かって深々と頭を下げた。マイセンは歓声に応えるように右手で客席の人々に手を振りながら、奥に戻って行った。
「さて、次は立花さんの青春時代のあこがれの人ですよ。」
「いやあ、この舞台に立ててよかったー。今日は眠れませんよ、きっと。」
オーケストラピットでは指揮者が指揮棒を振り下ろし、再度「シャドウズ」の冒頭が演奏された。和也は両手を握り締めた。
「『Fox Tail』の音楽監修者であり、伝説的ロックバンド元『ギアー』のシュリー・ユステール!」
紹介する西原の声には力が入っていた。流れる「シャドウズ」のワンフレーズが終わりかけた頃、シュリーが舞台に現れた。和也はその姿を認めた後、思わず下を向いてしまった。
「あーーもう感激です。大好きな音楽で作られたミュージカルで演じることができて、さらにその作曲者であるシュリーと同じ舞台に立てるなんて…。」
その時、和也は右側の空気が動いたような気がした。ふと顔を上げると、自分の周りの観客がざわざわとささやいている。和也は隣に英次がいないことに気づいた。
英次は、シュリーが舞台に現れると同時にふらふらと立ち上がり、通路を下っていた。シュリーは、司会役の西原と立花がシュリーの方を向いて熱烈に歓迎している声に導かれ、舞台の前方に歩いてきたが、途中で客席の通路を歩いてくる人物に気づいた。シュリーは一瞬足を止め、その人物を見つめた。和也は英次の行動に気づき、すぐに英次の後を追って、通路に飛び出した。そして英次の肩に手をかけ、その歩みを止めた。英次はそれ以上進まなかった。シュリーは英次を認識し、二人は視線を合わせた。しかしシュリーはやはり舞台においてはプロである。一瞬の戸惑いを観客に知られぬままに、会場から沸き起こる歓声と拍手に向かって右手を大きく広げると次に胸にその手をあて、中世の貴公子のように足を屈めて挨拶をした。そして、一瞬にして会場中の視線を自分に集めた。シュリーは十分に歓声に応えたことを確認すると、司会役の二人と握手を交わし、そして客席に背を向け、舞台を後にした。
英次は通路に立ち尽くし、シュリーの背中を視線で追った。和也も英次の肩に手を置きながら、シュリーの後ろ姿を見つめていた。
「いやあ、なんであんなに格好いいんだろう。昔とぜんぜん変わっていませんよ。シュリーは。」
「またまた、オーバーな。立花さんが洋楽好きで、『ギアー』の大ファンだったということは知っていますけどね。ほら、あの方たちも『ギアー』のファンでしょ。興奮して通路まで出てきちゃった。」
会場に笑いが起こった。
「英次、戻ろう。」
和也は英次に声をかけた。英次はその言葉に促されて、重たい足取りで座席に戻った。翔子は、何事が起こったのかと二人を見つめた。しかし二人から漂ってくるのは深刻な空気で、声をかけることすらできない気がした。
初日の舞台は大成功のうちに幕を閉じた。三人はロビーに出た。
「よかったら楽屋に行ってみない?うちの編集が取材に入っているの。」
さきほどから黙りこんでしまった二人に向かって翔子は声をかけた。和也は英次の様子を窺った。英次はすっかり打ちひしがれたような様子で黙っている。
「わりぃ、翔子、お前ひとりで行ってくれるかな。俺、ちょっと英次と話あるから。」
翔子もそれ以上は何も言わなかった。和也は詳しい説明なしに英次を連れて足早にその場を立ち去ってしまった。翔子は一人取り残され、仕方なしに出演者が控える楽屋へ向かった。
大勢の人が行きかう廊下を通りながら、自社の担当者を探した。
「翔子ちゃん、こっちです。」
同じ編集部の同僚が翔子を先に見つけてくれた。
「こんばんは。取材はできそう?」
同僚の太田は、手でOKサインを出した。
「頼みがあるんだけど、僕は明日から始まる日本キャストの主演者にインタビューするので、オリジナル版の主演者と、今日舞台挨拶に出たジッター・マイセン、シュリー・ユステールのインタビューをお願いできないかな。英語でいけると思うから。」
翔子は留学経験があり、英語は堪能である。
「あーあ、今日は仕事抜きで来たのにー。」
「明日のランチ、翔子ちゃんの好きなあのカツサンドおごるから。」
「ほんと?じゃあいいわよ。メインは日本人キャストだから、軽くでいい?」
「もちろん、お任せで。日本の観客の感想なども聞いておいて。」
翔子は、出演者の楽屋に向かった。主演の役者たちは他社の取材にも囲まれていて順番が回ってくるのに時間がかかりそうだった。翔子は、まず原作者のジッター・マイセンに取材を申し入れた。マイセンは快く取材に応じてくれた。10分程度の取材で、『Fox Tail』着想の経緯やヨーロッパ、アメリカでの成功についての感想、日本人へのメッセージなどを聞くことができた。
廊下に出ると、隣のドアから人が出てきた。やはり他社の取材人のようだ。閉められたドアに貼ってある表示には、「Sully・Huster」とあった。
(先にこちらから取材させてもらおう。もう、和也ったら一緒に来れば会えたのに。)
翔子は、ドアをノックした。しばらくして中から背の高いマネージャーらしき女性が顔を出した。
「すみません、雑誌社の者ですが、シュリー・ユステールさんにぜひ取材をさせていただきたいのですが。」
翔子は英字の名刺を差し出した。女性はそれを受け取ると、しばらく待つように翔子に告げて、再びドアを閉めた。1分ほど待たされて、ドアが開いた。
「どうぞ、お入りになって。取材を受けます。」
「ありがとうございます。」
楽屋に入って右手は全面鏡張りで白い化粧台や洗面台が設置されていた。奥にはカーテンで仕切られ、一段高くなった着替え室があった。シュリーは着替え室横に置かれている丸テーブルの側の椅子に腰掛けていた。シュリーは立ち上がり、翔子に椅子を勧めた。間近にシュリーと対面し、翔子は緊張した。日本版主演の立花が言っていたように、シュリーは一瞬で人の注目を集めるスター性がある。一言で言って「カッコいい」男なのだ。翔子は鼓動が早まり、顔が紅潮するのを感じた。
「取材を受けてくださって、ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
初めて聞くシュリーの声は落ち着きのあるやわらかな声だった。
「『Fox Tail』はヨーロッパではロングラン、ブロードウェイでも好評ですが、その要因にはユステールさんの音楽によるところが大きいとお聞きしています。そのことについて、どうお考えですか。」
シュリーは、取材向きの微笑を湛えながら、長い人差し指をあごにあてて、少し考え込むと答えた。
「私の音楽はすべて、あったもの、に過ぎません。この時代になって、すばらしい原作と出会いコラボレーションした結果、新しい表現として世の中に受け入れられたのでしょう。」
「ユステールさんの音楽は、クラシックの影響が大きいと聞いています。今日も舞台を観て、音楽の壮大さやメロディーの豊かさに感動しました。」
「それはどうもありがとう。私がクラシックに影響を受けているのは事実です。幼いときからピアノを弾き続けて、一時は演奏者を目指していた時期もあります。」
「なぜ、クラシックから対極的なロックへ転向されたのですか。」
シュリーは何度も聞かれたその質問には、事実とは違う答えを述べることに終始してきた。
「クラシックとロックは私の中では同質のものです。ちょっとした表現手段の違いにすぎないのです。」
本当の理由は、母、恵子の死がきっかけとなった。だが、シュリーが方向転換したことは、ロックミュージックの歴史にとって、新たな音楽世界が生み出されたという意味では、幸いなことだったのかもしれない。
すべての取材が終わって、劇場を出た時にはすでに十時を回っていた。携帯に和也からのメールが入っている。英次と共に先に帰ったようだ。
(シュリー・ユステールに興味が湧いてきたわ。和也の気持ちがわかるような気がする。彼について明日早速調べてみよう。)
舞台挨拶のときに起きた英次と和也の奇妙な行動についてはすっかり忘れて、翔子はシュリー・ユステールのことで頭が一杯になっていた。
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