第9話 フォックス・テイル
北海道から戻った翌日、英次は和也と吉祥寺のフレンチビストロで食事をした。
「どうだった。北は。」
「ああ、温暖化の影響か、年々流氷が少なくなっているみたいだな。」
十代の頃は、流氷が接岸する頃にフォックスが現れると考えていた。だから毎年の流氷の状況が気になるのだ。しかし実際、フォックスはずっと内陸の地域に姿を現していた。
「フォックスは層雲峡の近くに棲息しているようだ。この冬は鳴き声が良く聴こえると地元の人たちも言っていたよ。滞在日数は短期だったけれど、今回の調査の収穫は大きかった。」
英次はシュリーが入院した病院の元病院長に会ったことを和也に伝えた。その話題をきっかけに、和也も切り出した。
「シュリーの消息についてだけど。」
自分がヨーロッパから帰って、英次は北海道へ出かけてしまったため、二人はゆっくりとそのことについて話す機会がなかった。英次はスープを飲む手を止めて、顔を上げた。
「シュリーは元気でやっていると思う。あいつの音楽を使ったミュージカルがヨーロッパで大ヒットしている。」
英次は和也と違い、あまり音楽に興味はない。シュリーの音楽も高校時代に和也が聴いていたレコードやテープを無理やり聴かされて知ったくらいだった。和也はプリントアウトされた用紙を一枚取り出して英次の前に置いた。
「『Fox Tail』というタイトルだ。そのミュージカルの日本公演が決まった。東京劇場で2ヶ月間だけ公演される。」
和也が示したのは、新聞社のインターネット配信記事を印刷したものだった。英次は受け取ると、それに目を通した。
―遂に日本公演決定!ウィーン発『Fox Tail』東京劇場にて―ヨーロッパで大ヒット中のミュージカル『Fox Tail』の日本公演が発表された。1999年にオーストリアのウィーンで始まった『Fox Tail』はヨーロッパでロングラン公演を続け、昨年からブロードウェイでも上演中。日本公演では、オリジナルキャスト版と、日本人キャスト版との並行上演。日本人キャストはミュージカル界のスターたちを起用する。オリジナル版との違いを楽しむこともできそうだ。原作はジッター・マイセン、音楽は元「ギアー」のシュリー・ユステール。チケット前売りは3月19日より。
「すばらしいミュージカルだった。もっともドイツ語がわからないからストーリーはいまひとつ理解できなかったけどな。俺は音楽ばかりに意識を集中していたよ。『ギアー』のコンサートを聴きに行ったようだった。ギアー時代に発表されていない曲も使われていたよ。あれは、シュリーがフォックス探しの旅の最中に作曲したものだ。」
和也は目の前の英次の心情に配慮しなければならないとわかっていながら、大ファンである「ギアー」の音楽については知らず饒舌になってしまう。英次は和也の音楽談義につかまったときには黙って最後まで聞く癖がついていた。シュリーの話が絡むときには、和也が最大に気遣って話していることも理解していた。だが、今日の和也には音楽評論よりも伝えたいことがあったのだ。
「俺はミュージカルを観て確信した。シュリーはフォックスを忘れることができずにいる。だからあのミュージカル音楽の仕事をしたのだと思う。英次、お前と同じだ。彼もフォックスに再び会いたいと思っているはずだ。」
英次は興奮気味の和也の言葉をある種のあきらめの心境でもって聞いていた。シュリーが夢に現れた日からなぜかいつも身近にシュリーがいるような気持ちがしていた。生死もわからなかった兄の消息を、今まさに現実に息づいて活動している生きた情報として親友から聞かされ、それを冷静な心持ちで受け止めている。
「だから、お前にも観に行ってほしい。」
和也は興奮の延長で勢い余って言い切った。
「というか、誰が何と言っても観に行くぞ。」
英次は笑い出した。
「何が可笑しいんだ。」
「お前が観たいんだろ。俺は口実か。」
深刻に仕向けようとする和也に対し、英次は拍子抜けするほど自然な様子で微笑みながら答えた。
「なんだよ。俺がせっかく気を遣っているのに。」
「いいんだ。それに、ミュージカルを観るだけで、シュリーに実際に会うわけではないのだから。」
和也は次の言葉を呑み込んだ。成り行き次第ではユステール氏から渡されたシュリーの連絡先を英次に渡そうと準備していたからだ。英次はまだシュリーに会う心の準備はなさそうだった。
「よし。それでは俺がチケットを手配する。行くならばやっぱり初日だな。4月20日だから空けておいてくれよ。」
「わかったよ。でも『ギアー』のアルバムは昔、和也から借りて聴いたきり、よく覚えていないからな。」
「本当にお前って音楽に疎いよな。シュリーと血が繋がっているなんて不思議だよ。いいか、ちゃんとミュージカル行くまでに予習、いや復習しとけよ。」
「やだよ。新鮮な気持ちで観られないじゃないか。」
和也は英次の反応に安心した。全くシュリーの話題が出なかった長い年月を思えばかなり前進したといえる。やはり時の経過は大きい、と和也は勝手に解釈した。
「そういえば、翔子さんとはうまくいっているのか。」
英次は和也に尋ねた。翔子とは、和也のフィアンセのことだ。
「おかげさまで。一応お互いの両親への挨拶は済んでいる。秋には式を挙げることになった。」
「そうか、よかったな。」
「先輩、いろいろ教えてくださいよ。円満の秘訣をね。」
和也は憎まれ口をたたく。
「きついなあ。俺を反面教師にして、いい家庭を築いてくれよ。」
和也は長い間研究に全精力を集中していたせいか、女性には縁遠いところがあった。フィアンセの松田翔子とは、昨年仕事の関係で知り合った。翔子は大手出版社に勤めていて、和也の研究について取材をする機会があった。その縁で付き合いが始まったのだ。気さくで親切な翔子に和也は魅かれた。研究一筋だった和也に、気持ちのゆとりと幅ができたのは翔子の影響が大きい。英次は一度だけ翔子に会ったことがあるが、和也にお似合いのしっかりとした女性だと感じていた。
その時、和也の携帯が鳴った。
「もしもし。今、英次と食事しているところだ。」
電話の相手は翔子だった。
「忙しそうだな。週末は?式場の打ち合わせもあるし。」
「日曜日は完全オフだから大丈夫よ。十時よね。」
携帯の受話器から翔子の声が漏れて聴こえてくる。
「うん。あ、一つ翔子にお願いがあるのだけど、チケットを二枚手配してもらえないかな。」
「チケット?」
「4月にヨーロッッパから来るミュージカルで『Fox Tail』という作品の初日のチケットなんだけれども。東京劇場で公演が決まった。」
「あーそういえば、昨日記者会見があったわね。でもミュージカルに興味があるなんて、初耳。誰と行くの?」
お互い普段は忙しくて、翔子とは映画すら観に行ったことがない。
「実は、英次となんだ…。」
「えー男二人でミュージカル?ちょっと気持ち悪い。」
英次は電話から漏れ聞こえる会話を聞きながら笑った。
「まあ、そう言わずに。このミュージカルを担当している作曲家が俺の大好きな人でね。」
「へえ。和也が音楽好きというのは知っていたけど、ミュージカル音楽までとは思わなかったわ。」
「ミュージカル音楽じゃないの。これはれっきとしたロックなの。」
英次が聞いたことのない甘えた声で、和也は翔子に言い訳する。
「まあよくわかんないけど、わかったわ。初日のチケット二枚ね。手配してみるわ。じゃあ今度の日曜日に。」
和也は携帯を閉じた。
「というわけで、チケットは何とかなりそうだから。」
英次は和也の顔を見ながらニヤニヤ笑っている。
「なんだよ。その笑いは。」
「完全に尻に敷かれるな。和也は。」
「翔子にはかなわないよ。しっかりしているというか、強いというか。」
「でも安心した。和也は女がだめなのかと思ってたからな。」
「どういう意味だよ。」
「研究がすべて、研究室の装置が恋人だろ。」
英次はここぞとばかりに和也にやり返す。
「お前だって似たようなものじゃないか。フォックスを追っていたときは、それしか見えていなかったぞ。」
「確かになあ。フォックスに集中しているときは幸せだった。」
「女性以上か?」
英次は答えずに微笑んだ。良子とうまくいかなかった自分は、和也の幸せを祈ることしかできないというどこか冷めた気持ちがあった。
「はい、『Fox Tail』のチケット、取れたわよ。」
翔子は、和也にチケットの入った封筒を渡した。
「サンキュー。助かった。」
和也はチケットを取り出して確認する。
「あれ、三枚入ってるけど。」
「私も同行させていただくことにしました。」
「えっ。」
「まずかったかしら?」
「いやいや、嬉しいけど、あまり興味なさそうだったから。」
チケットを頼んで以来翔子との間ではミュージカルの話は一度も出なかった。取ることさえ忘れてしまったのではないかと心配していたところなのだ。
「私、この春から異動になったじゃない。それが芸能情報も扱う雑誌の編集部なのよね。」
翔子はこの4月、和也との出会いのきっかけを作ってくれた経済分野の雑誌編集からエンタテイメント系の総合情報誌の編集部に異動になっていた。
「私の得意分野とはいえないのだけど。『Fox Tail』は日本キャストに人気のある役者が出演するでしょ。次回の号に、紹介記事が載るの。」
「へえ、結構注目されているんだね。」
「あら、知らないの?日本人キャストの公演はほぼソールドアウトよ。」
「観てみなきゃわからないけど、あまり日本人キャストのは期待していないなあ。」
「もちろんお取りしたチケットは、オリジナルキャスト版ですよ。私は日を替えて、日本人の公演も観に行くけど。編集部の仲間と。」
「えーずるいなあ。」
「仕事ですもの。」
和也はチケットを改めて眺めた。ドイツで舞台を観たときの感動が蘇ってくる。
「それから、7月号では70年~80年代のロック特集があるのよ。」
和也の目の色が変わった。
「ほんとか?それ絶対買う。」
「和也みたいな30代や40代のおじさんに人気なのよね。これがまた私の不得意分野。あなたにいろいろ教えてもらわなきゃ。」
「おじさんとは失礼だな。最近は団塊の世代を中心に、青春時代に熱中したことを、社会人になっても続けたり再開したりするのが流行っているんだよ。」
「大人になれない大人ってこと?」
「心外だな。いつまでも純粋に熱中できることを持ち続けるのはいいことじゃないか。日本人も豊かになって、余暇を楽しむ余裕が出てきたのさ。」
「家庭を持っても趣味中心は困るわ。」
翔子に釘をさされたようで、和也はそれ以上何も言えなくなった。
「話は変わるけど、『Fox Tail』の音楽監修者も元ロックアーチストよね。」
「その通り。元『ギアー』という伝説的ロックバンドの中心的存在さ。70年代終わりから80年代のロックは、完全にアメリカやイギリスが主流だったのだけれど、このグループはイギリス以外のヨーロッパ出身者が活躍したんだ。シュリー・ユステールというフランス人が中心人物だった。彼がこのバンドの楽曲をほとんど手がけて、大ヒットをいくつも生み出してね。今回のミュージカル音楽はギアーのヒット曲ばかり使われている。」
「ふーん。そうなの。そのグループって来日したことあるの?」
「うん。たった一度、それは最初で最後の公演だった。その後解散してしまったからね。俺たちは札幌の最終公演を観に行ったんだ。あれだけは今でも忘れられないコンサートだよ…。」
和也は完全に自分の世界に入っていた。翔子は和也のいつもの癖に小さなため息をついた。
「そんなに人気あったのに、なぜ『ギアー』は解散したの。」
「なぜって…。」
和也は翔子の質問への答えに窮した。おそらく、どんなロック情報通のライターでも知りえない、シュリー失踪に到るまでの経緯を自分は知っている。しかし今まで一度もそのことについて第三者に語ったことはなかった。
「中心人物だったシュリー・ユステールが失踪したからだよ。」
「ふーーん。ロックアーチストって気まぐれなのかしら。他にも失踪したり喧嘩して捕まったりドラッグにはまったりして身を滅ぼした人が結構いるわよね。」
「まあね。ロック自体がそういう生き方を要求するような時代だったからね。」
「よくわかんないなあ。」
翔子は仕事で必要に迫られているとはいえ、もともとあまり興味のない分野なので和也の話を聞いてもピンと来ない。和也も翔子がつっこんで聞いてこないので、シュリーについてそれ以上詳しく話さずに済んで正直ほっとした。しかし、この時、和也が翔子にシュリー・ユステールについてもう少し説明しておけば、後の展開も少しは変わっていたかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます