第8話 新たなる発見

 英次と大樹少年は、女満別空港から北海道に入り、網走、サロマ湖の周辺を調査しながら、湧別から内陸に入った。学生時代には列車とバスを乗り継ぎながら、時にはテントを張って野宿をするときもあったが、今回は移動の手段はすべて車を使った。この時期はまだ雪が多く残っており、雪道に慣れない英次は慎重に国道を走った。山がちな地形を通り抜けると、盆地に近づき、ゆるやかな平地に入った。

 上川には学生時代にお世話になった知人が何人かいて、英次は今回の旅の前にその中の幾人かに連絡を取ることができた。皆、フォックスの調査には協力的で、宿を提供してくれたり、拠点となる小屋を貸してくれたりした。

 町から層雲峡の方面に何キロか入った所に、知人の一人が別荘を持っており、自由に使わせてくれることになった。一時的な仮小屋やテントに比べると相当快適な調査旅行である。


「英次先生、ねえ、起きてよ。」

 大樹は、英次を揺さぶり起こした。英次は北の空気を吸ったせいか、北海道に来てからは、すっかりリラックスして体調も良く、早い時間から熟睡していた。

「うーん、何事だい?」

「もしかして、あの声、フォックスじゃないの?」

「え、まじか?」

 サイドテーブルの時計は夜中の十二時過ぎを指している。夕べは9時前に眠りに就いた。短時間で起こされても、頭はすっきりしている。英次は上着を着込むと、木扉を開け、ウッドデッキに出た。目の前の広大な原野は、奥の方に向かってなだらかな丘となり、遠くの森林へと続いていた。空にはまだ満ちていない月が白く輝いている。その光が積もった雪の表面に降り注ぎながら、遠くの森の影をくっきりと浮き立たせている。

 英次は感覚を研ぎ澄ませようと努力した。フォックスに遭遇したあの夕暮れの空間は、自分自身が現実の次元を離れて異次元にいるような錯覚を伴った。そのときのおぼろげな記憶と重ねあわせながら、意識を集中させた。

「ヒヒューン。」

 遠くからかすかに響いてくる風音のような鳴き声。英次の意識が呼び覚まされた。

「フォックスだ。」

 目を閉じて、つぶやくように英次は言った。傍には桜井少年が寄り添っていた。その言葉を聞いて、大樹は騒ぐことなく、自分も目を閉じ、声のする方向に意識を集中してみた。

「ヒューン、ヒヒューン。」

「これが、フォックスの声。」

 声の響きから、フォックスはかなり遠方にいるようだった。英次たちが滞在している小屋から南方奥に向かって山地が連なっている。その方角にフォックスがいるのではないか、と英次は推測した。

「明日、大雪山の方面に行ってみよう。」

「フォックスがいる可能性が高い?」

「はっきりはわからないが、可能性はある。以前遭遇したときは、ここからあまり離れたところではなかったけどね。」

 その後も夜中遅くまでフォックスの声が断続的に聴こえてきた。大樹少年は今すぐにでもフォックスを探しに行きたい衝動に駆られていた。英次もそれはわかっていたが、過去の経験からフォックスの声の響きが遠いときには、むやみに探しても見つからないことを知っていた。初めて聴くフォックスの鳴き声に、大樹は寝付くことができなかった。ベッドに横になりながら、想像力をたくましくしていた。英次は、存在を確認して安心したせいか、すぐに深い眠りについた。そして雪原ではなく、明るい太陽が輝く草原を駆け抜けるフォックスの姿を夢に見た。


 翌日の空は晴れ渡り、暖かい日差しは雪を溶かしながら、新しい芽吹きに光を送る。この地にも春の訪れが近いことを感じさせる朝を迎えた。

 大樹少年は、英次が起き上がる前に、掃除と洗濯を済ませ、雪解け水でコーヒーを沸かした。この少年は、幼い頃から好奇心旺盛で行動的だったこともあり、小学校に上がったころには、身の回りのことや簡単な炊事までもこなしていた。フランス人の母はおおらかな性格で、彼が一人であちこち出回ることについては、心配するどころか、社会勉強になると考えていてむしろ応援していた。

 香ばしいコーヒーの香りに英次は目を覚ました。

「いい香りだなあ。」

「英次先生、起きた?朝ごはんできたよ。」

「サンキュー。今何時?」

 英次は、まだ寝たりないように再び羽毛布団に包まる。

「もうすぐ8時だよ。」

「うーん、わかった。今起きる。」

 英次は、顔を洗って身支度すると、寝室の窓を開け放ち、外気を入れた。

「今日は気温が上がりそうだな。春が近い。」

 居間のテーブルには、ハムエッグとトースト、淹れたてのコーヒーが並んでいた。

「お、うまそうだな。大樹くんは料理も得意なのか。」

「まあね。大概のことは自分でできるよ。」

「今どきの若者としては、頼もしいね。」

 英次は温かい湯気のたつコーヒーを飲んだ。雪解け水を使ったコーヒーの味は格別だ。

「ねえ、今日はどんな調査をするの?」

 大樹少年は早くフォックスに会いたくて仕方がない、といった様子だ。

「うん。まず、層雲峡の方面に出かけよう。その地域でもフォックスの声が聞こえていたかどうかを聞き取り調査する。その大きさがどのように聞こえていたか、ということから遠近が推測できる。今夜は車とテントで野宿だな。」

 野宿という言葉に大樹はわくわくした。旅慣れている彼ですら、雪原での野宿はさすがに経験がない。

「今夜、会えるといいな。」

 少年はうっとりとした顔で妄想する。そんな彼を見ながら、英次はほほえましく思った。自分が大樹くらいの頃のフォックスに対する思い入れは、もっと切実なものだった。それがなければ生きていかれないほど自分を追い詰めて探していた。大樹少年のように楽しんでフォックスを探せる余裕があれば、シュリーや仲間たちともっと和やかに過ごすことができて、その後の人生も変わったかもしれない、などと思う。

 二人は車に荷物を積み込んで出発した。ここ三日ほど天気のよい日が続いたこともあり、車道の雪はほとんど消えていた。遠景には雪の残る風景を楽しみながら、目的地へと車を走らせた。山に近づくにつれ道は少しずつ狭くなりカーブが多くなっていった。


「その演歌、何とかならないの。」

 快適なドライブを楽しむ一方、車内に流れるバックミュージックは、大樹の大好きな演歌と彼の熱唱だった。音楽には疎く、ロックも演歌もよくわからないとはいえ、英次はさすがにうんざりしていた。

「いやー広大な場所で歌う演歌は最高だなあー。」

 大樹はこぶしを握りながら上機嫌だ。英次は内心、まだシュリーの音楽のほうがましだ、と思った。

「演歌は日本の心だけど、フォックスも日本の心のような気がするなあ。」

 少年は曲の切れ間に我に返ったように突然発言した。英次は少年の解説を待って、微笑みながら運転を続けている。

「ただのキツネではないけれど、昔からキツネといえばお稲荷さん、日本の民衆にとって身近な存在でしょ。それがピカピカのキツネになって現れたらびっくりだよ。僕ならいろいろお願い事しちゃうかも。」

「あははは。確かにそうだね。庶民的な存在と考えればそうかもしれないね。実際に会ったときには驚きすぎて祈ることはおろか、すぐ傍に寄ることさえできなかった。彼だけは違ったけれども。」

「彼って、フォックスをかばって怪我した人?」

 大樹がすかさず聞いた。

「ああ。そうだね。」

「その人だけが、フォックスの至近距離にいたわけだ。その人、フォックスを間近で見たわけでしょ。どんな感じだったんだろう。光は暖かかったのかな。ねえ、その人は今どうしているの。」

 英次は運転に集中するふりをして前方から視線を外さなかった。しかし、大樹少年がさぐるように英次の顔を見つめているのが感じられた。

「その人がいたら、フォックスがまた現れたりして。だってフォックスにとっては恩人でしょ。」

 今まで一度も赤信号にぶつからなかった車が急停車した。もう少しで信号無視をするところだった。英次は、助手席に座る少年の顔を見た。

「恩人?」

「そうだよ。フォックスが佐渡の鴇と同じように、その時絶滅寸前の存在だったならなおさらだよね。」

 英次はそんなふうにフォックスのことを考えたことがなかった。フォックスを希少生物として保護をするためNPOを立ち上げようとしているのに、種が途絶えるかもしれないという危機感が薄かった。だが、大樹の感じ方のほうが現実的だ。

「その人と連絡取ってないの?僕、会いたいなあ。お話を聞いてみたい。」

「連絡は、取れないことはない。」

 再び車を発進させながら英次は小声で言った。

「本当?その人は今日本に住んでいるの?」

 英次は桜井少年の問いかけに、動悸が早まるのを感じていた。自分がシュリーのことを心から押し出そうとすればするほど、目の前に浮かび上がってくる。それとも、少年の特異な能力が英次の心を見抜いて、そうさせているのだろうか。そんなことまで考えてしまう。自分はただフォックスを純粋に追っていたいだけなのに。

 大樹を前にすると、フォックスを調査する先輩として、全うな導きをしなければならない義務感があった。こんな風にシュリーのことに触れざるを得ない問いかけをされれば、過去へのこだわりをも蘇らせてしまう。フォックスだけを見つめていない自分は、調査への集中力も鈍ってしまうように思う。

 桜井少年は英次の話したがらない気持ちを察したのか、それ以上は何も言わず、窓外の景色に目をやりながら演歌の鼻歌を再開した。

「たとえば、一生懸命フォックスを探していて、鳴き声によってその存在は確認できるのだけれども、なかなか目の前に現れなかったとする。それが、突然、フォックスが現れる。自分ではない第三者が偶然その場に居ることがきっかけで、フォックスが現れたような気がする。こんな考え方を君はどう思う?」

 桜井少年は、鼻歌を止めた。左肘を窓に押し付けながら頬杖をついて、しばらく黙っていた。

「それは偶然ではないと思う。」

 桜井少年は今までの口調とは違って決然と言い切った。

「その人がいなければ、その場にフォックスは現れなかったのだと思います。」

 英次は今まで認めたくなかったことを、認めざるを得なくなる状況に自分を追い込んだように感じた。

「僕、時々おかしなことになるでしょう?そういう時は必ず僕の普通では理解してもらえない力を必要としている人が近くにやってきているんです。僕が間に立って、何かを伝えたいと思っている存在とそれを受け取りたいと思っている存在が結びつく感じです。

 だから今先生が言ったシチュエーション、分かる気がする。英次先生とフォックスを結びつけるための第三の存在がその場にいるということが、僕にはよく理解できる。」

 少年の発想を英次は正直なところいまひとつ理解ができなかった。決して否定はしないが、そんなこともあるのだろうか、といった漠然とした感覚で捉えていた。

「だからといっていつもその人がいなければいけない、ということではないと思うけれども。でも、僕の経験上、英次先生が気にしている第三者というのは、英次先生にとって重要なメッセンジャーだったりするんだ。」

「メッセンジャー?」

「うん。その人を通して英次先生に大切なことを教えてくれる、ということ。」

 シュリーは自分にとって重要なことを伝えてくれる「メッセンジャー」なのだろうか。反発するほどに気になる存在であったことは確かだ。彼がフォックスを連れてきた、と思ってしまう。認めたくはなかったが。

「そういう人というのは、自分にとって気に入らない人だったり、時には本当に敵のように感じられたりするんです。無視しては困るからそういう形で現れるんじゃないかな。」

「でも、そんなに大切な人なのに、なかなか受け入れられないとしたら?」

「無理して受け入れる必要はないと思います。その時に感じる心情の変化によって、動いていけばいいのだと思う。」

 桜井大樹という少年は、年齢のわりに人の気持ちをよく理解し、物事を深く考えるところがあった。成績も国語の読解問題などはパーフェクトに近く、そのおかげで高校受験も成功したといえる。大樹には、普通の十代が持つ以上の洞察力と老成した感覚があった。

「フォックスは、目撃者が少ない。ということは、多くの条件が重なり合って初めて遭遇できるということでしょう。その確率の少ない遭遇条件を加速させる要因の中に、特定の人物が関わることは、他の出来事でもよく起こります。そして遭遇の確率が低いということが、時と場を貴重なものにし、人に必然性を強く感じさせるのだと思う。だからフォックスに会えた人は感激する。さらにその姿の美しさがあるからなおさらです。」

「僕はその感覚を得るためにフォックスを探したいと思っているのだろうか。」

 理論的な説明だと思った。だが、英次は自嘲気味にそう答えた。

「英次先生は、フォックスに出会って、その時に何を感じましたか。」

 少年の言葉には逃げを許さない鋭さがこもっていた。英次は問いかけに対して即答できず、考え込んだ。

 フォックスを見つけたときの感情は、それまでの経験に同質のものを見出すことは困難だった。人よりも波乱に富んだ十代を過ごしていた英次にとっても、その経験は一生を左右するものであり、未だに引きずっている課題なのだ。

「フォックスに出会った瞬間の感情を説明する言葉は見つからないな。僕は、フォックスを見つけることだけがすべてだった。フォックスが地球上でどんな存在価値があるかとか、絶滅寸前だったら保護しなければならないというようなことは、当初はあまり考えていなかった。」

 自分は行き場のない寂しさや不安と戦いながら、フォックスを見つければ救われるような気がしていた。自分が生きるための原動力はフォックスを探すことにあって、そのために生きていたのだ。「自分を救って欲しい。」すがりつくような、一種の信仰のようなものだった。

「じゃあ、今回は何で探しているんですか。ただ、懐かしいから?若い頃の情熱を取り戻したいから?」

 大樹の言葉が畳み掛けるように心に響く。

「それがよくわかっていない。正直なところ。君が言うように懐かしいし、できれば昔のような情熱も取り戻したいさ。どちらかというと、探してみなければわからない、といったところかな。」

 昔の栄光を引きずる若さを失った中年の男の煮え切らなさに、桜井少年がいらいらすることはわかっていた。しかし、これが今の飾らない自分自身の気持ちなのだ。

「『続きがある』と思っているわけですね。わかりました。今回はフォックスが英次先生にとってどういう存在なのか、ということをテーマにして探しましょう。協力しますよ、僕も。」

 英次は思わず笑った。少年の大人びたものの言い方に先程は気圧されたが、フォックス探索のテーマまで決めてもらい、立場が逆転していることに笑わずにはいられなかった。大樹は英次の横顔をちらりと見ながら、演歌の続きを歌い始めた。


 二時間ほど車を走らせると、層雲峡の入り口に到着した。ここから先は徒歩で行くしかない。山の上を目指すならばロープウェイだ。とりあえず、車を駐車場に停め、昼食をとることにした。温泉街のホテルが点在する街中を歩きながら、二人は一軒の食堂に入った。観光のシーズンではないので、英次たち以外には土地の人が2、3人食事をしている程度だった。魚介がふんだんに入ったラーメンが運ばれてきたときには、大樹は手をたたいて歓声を挙げた。

「きゃーうまそー。」

 英次は店の主人に声をかけた。

「すみません。昨晩のことですが、このあたりで動物の鳴き声が聞こえたでしょうか。」

 愛想のよい店の主人は、ニコニコしながら答えた。

「幻ぎつねのことかな。」

「そうです、そうです。それー。」

 大樹がラーメンをすすりながら、首を上げ、横から発言する。

「幻ぎつねの声は今年の冬になってまたよく聞こえるようになったよ。なあ、松さん。」

 ご主人は、店のカウンターで雑誌を読みながら、定食を食べている男性に声をかけた。

「あ?幻ぎつねのことか。なんか久しぶりに今年聞いたなあ。」

 北海道独特の語尾を強調する言葉遣いに大樹はくすくすと笑った。

「久しぶりですか。」

 英次は、その点を強調した。

「そうそう。ずいぶん前に幻ぎつねが発見されて、その後何年か話題になっていた頃は、冬になるとよく声を聴いたけどな、ここ十数年はあんまり聴かなかったな。時々、ここでも話題になるのよ。発見されたときの騒ぎはすごかったからな。」

「発見者、この人、この人。」

 大樹はラーメンをほおばりながら、割り箸で英次を指し示す。

「へえ、もしかしてあんときの高校生の発見者って、あんたのことかい。」

 英次の代わりに大樹が首をたてに振る。

「そりゃすごい。びっくりだ。また探しにきたのかい。」

「ええ、十数年ぶりなのですが、調査を再開しました。昨日、夜中にフォックスの声を確認して、かなり遠方のこの辺りから聞こえてきたように思ったので、来てみたのです。」

「そうさな、あのときはもっと北のほうで発見されたものな。昨夜の声はこっちでは近くに聞こえたよ。」


 ラーメンを食べ終わると、店の主人に礼を言って、二人は黒岳方面に徒歩で進んだ。まだまだ雪が多く、ロープウェイ出発駅を中心に可能なところだけを徒歩で回った。いくつかの店に入って、フォックスのことを尋ねてみた。気にしていない人がほとんどだったが、さきほどの食堂の主人のように、幻ぎつねのことを知っている数人に出会えた。皆同様に今年は声が聞こえていると答えた。

 夕方近くなり、今夜の態勢を決める必要が出てきた。雪が降る心配はなさそうだ。気温は低いが、夜も何とかしのげるだろう。車には寝袋や厚手の毛布もたくさん積んである。フォックスの声をダイレクトに聞くためには、どうしても外に待機している必要がある。

「ねえ、英次先生、夜は長いから夕食の後、温泉に入りたい。」

「はあ?」

 思わず、若者のような「わけわからない」反応を英次はしてしまった。

「うん。さっき、温泉宿の人に聞いたら、日帰り入浴も大歓迎だって言ってたよ。ついでに食事もどこか美味しいところで食べたいなあ。」

 脳天気な大樹にはついていけなかった。

「だって、天下の層雲峡温泉だよ。せっかくここまで来たんだから、温泉に入らなかったら申し訳ないじゃないの。」

 この新たなフォックス探しの仲間に、英次のペースは乱されがちだった。シュリーとは違った意味で。

「ねえねえいいでしょ。まだ宵の口なんだから、先生も一杯やりながら待つくらいの心意気で、この風情を楽しまないと。」

 結局、大樹に押し切られ、少年が前もって調べていたとしか考えられない、地元の一流旅館の日帰り温泉に入り、温泉と食事を堪能することとなった。

 温泉宿もシーズンではないため、この風呂と食事だけの客にも十分なもてなしをしてくれた。温泉に浸かったあと、浴衣を貸し出してくれ、広い座敷に二人だけの膳を並べてくれた。

「この時期にご旅行ですか。」

 旅館の女将がじきじきに給仕をしてくれた。

「旅行ならば、こちらに泊まらせて頂きたいぐらいなのですが、実は我々は調査に来ているんです。」

「調査ですか?」

「ええ、ご存知でしょうか。土地の方たちは『幻ぎつね』とおっしゃっているようですが、その調査なんです。」

「もちろん知っています。私がこの旅館の女将になりたての頃のことでしたけど、発見されて新聞にも大きく載りましたよね。」

「そうなんですう。この人、僕の塾の先生なんですけど、高校生のときに、その幻ぎつねを発見したんですう。」

 大樹はまたもや横から割って入り、自慢げに英次を紹介するのだった。

「ええ?本当ですか。まああ、あの美しい幻ぎつねをごらんになったのですね。そういえば、あの時に怪我をなさった方がいましたよね。」

「はい。猟銃の流れ弾がフォックスに中りかけて、それをかばった僕たちの仲間の一人が負傷しました。」

「よく覚えています。実は、負傷された方が入院された病院の、当時の院長が私の叔父なのです。」

「そうでしたか。」

英次は驚きと喜びで両手をたたいた。

「手術設備のある病院が少なくて、搬送されるのに時間がかかりましてね。でも、叔父様の病院のおかげで助かったわけですね。」

「その方、入院途中で居なくなってしまったと聞いたのですが、その後大丈夫だったのか、病院側はかなり気にしていたそうですよ。」

「本当に申し訳ありません。僕たちも彼を探したのですが、見つからず、消息不明になってしまったのです。でも、大丈夫でした。生きて祖国に帰れたようです。」

「え?日本人じゃないの?」

 大樹が甲高い声をあげる。英次は内心「しまった」と思いながらも、女将に話し続けた。

「院長だった叔父様は、今どちらに?」

「ええ、もう病院は引退しましたけれど、この町の議員を務めていて元気にしております。」

「お目にかかることは可能でしょうか。失踪した仲間についてご報告したいのと、改めてお礼が申し上げたいのです。」

「ええ、後ほど連絡をしてみますね。きっと喜ぶと思います。今日は、ロープウェイ駐車場に車を停めていらっしゃるんですね。明日の朝にでもお電話いただければ、叔父が面会可能かどうかお伝えできると思います。これもご縁ですわね。」


 英次と大樹は腹が満たされ、体も十分暖まったところで、車に戻った。外はさすがに寒い。気温は零下まで下がっている。冷えないようにと女将が湯たんぽと、大量のお湯を沸かして大きなポットを二つ持たせてくれた。

「さっきの女将さん美人だよねー。独身かなあ?英次先生、そう思わなかった?」

「さあ、どうかな。」

 英次は旅館の女将が自分よりも少し年上ではないかと推測していた。色の白い、目鼻立ちの整った和風の美人であることは認める。

「でも、やっぱり温泉に行ってよかったでしょ。フォックスをかばった人が入院した病院の院長の姪だなんて、すごい偶然。っていうか、入院中に病院からいなくなったの?その人。」

 英次は、ついにその質問がきたか、と観念した。

「ああ、そうだよ。腕に銃弾を受けたから、命に別状はなかったけれども、手術をして3週間は入院する必要があったんだ。」

「しかも、何?外国にいっちゃったの。その人。って日本人だよね。」

「おい、その右手にあるのは何だ。」

 英次は大樹が右手に持っている缶を取り上げた。「すももサワー」と書いてある。中身はほとんど空っぽだった。

「こんなのジュース、ジュース。」

 少年は温泉の酔っ払い客のように上機嫌である。一本程度の酒量とは思えない。食事の後も再度温泉に入りに行った大樹はなかなか戻ってこなかった。自動販売機で購入したに違いない。英次は旅館の女将と幻ぎつねの話で盛り上がっていたので気付かなかった。

「ふざけるなよ。お前未成年だぞ。しかも、こんなことばれたら、ご両親に何ていわれるか。」

「大丈夫、大丈夫。いつも父親の晩酌に付き合ってるから。母親なんか、ワインを水のように飲むからね。」

 英次は絶句した。自分たちが高校生の頃にも飲酒は軽い気持ちで手を出す者が多かったが、フォックス同好会では、禁酒禁煙を守れなければ脱会、という規則を設けていた。ところが、シュリーが加わった調査旅行の際に、芦川がそれを破った。すでに成人のシュリーがそれこそ水のようにワインを飲むことが多く、ある時勧められ、つい手を出してしまったのだ。最後まで調査旅行に残る予定だった彼を、英次が激怒して他のメンバーと一緒に帰すことで、芦川は脱会だけは免れた。しかし、ここでその話をするわけにはいかない。

「桜井、だめだ。酒を飲むなら、フォックスの調査を中断する。」

 英次は本気で怒っていた。少年は、ろれつのまわらない状態だった。英次はミネラルウォーターのペットボトルを少年の胸の前に差し出した。

「とにかく、酒を抜いて来い。それまで調査はしない。」

 桜井少年は、しぶしぶ車から降り、ペットボトルを持って、ふらふらと闇の中に出て行った。

 大樹少年に負傷者=シュリーの話をせずに済んだが、大樹の飲酒は、英次にとっては管理すべき「生徒の飲酒」という深刻な問題であり、看過することはできなかった。だが、しばらくして、この気候の中に酔った子どもを放り出したことの方が心配になってきた。英次は、車から降りて、大樹を探した。

「おーい、桜井くん、どこだー。」

 少し離れた温泉街の明かりは灯っているが、ロープウェイ近くは暗闇だ。返事がないのにも不安になった。英次は車からサーチライトを持ち出し、周囲を照らしながら進んだ。しばらく山側に緩やかな傾斜を登っていった。足元の雪の深さはそれほどでもない。

「一体、どこへ行ったんだ。」

 その時、英次の視界にサーチライト以外の光がすり抜けていくのを見たような気がした。

「ヒヒューン。ヒューン。」

 英次はライトを消し、耳をそばだて、目を凝らした。声は近い。山に反響して方角がつかみにくいが、やはり登り方向から聞こえていると英次は判断した。しばらくロープウェイ沿いの道を手元のライトを頼りに歩き続けた。

 それは一瞬のことだった。英次の視線の方向には、なだらかな傾斜が続いていたが、その一角を強い光が照らし出した。予告なしに白光の花火が突然打ち上げられたようにも見える。残像の中に、大樹が一人立ちすくんで、光のほうをぼんやりと眺めているのが見えた。英次はそのおかげで彼の位置を確認することができた。

少年は、英次の前方50メートルほどのところに居た。光の余韻は数秒間続いたが、再び辺りは暗闇に閉ざされた。英次はライトをかざして、少年の方に走り寄る。英次は全力で走ったため、息が上がっていた。

「光はあの山陰に消えました。」

 英次も光が途絶えた地点は見ていたが、そこには大きな岩のような陰が見えていた。今居る地点から、少なくとも三百メートルは離れている。

「フォックスの姿は見えたか。」

「いいえ。最初、ちらちらと光が見えたかと思うと、小さな爆発のように白い光が強く広がっているのが見えただけです。あれはフォックスですか。」

 大樹は目の前に見えた光景に、驚きを隠すことができないようだった。

「おそらく、そうだと思う。」

「英次先生、あそこまで行ってみましょう。」

 二人は、光が消えた地点まで進んだ。闇のせいで遠くからは大きな岩のように見えたが、そこは少し土地が盛り上がった場所だった。

「ライトを貸してください。」

 英次は大樹にライトを渡した。少年はその場所を丹念にライトで照らしながら、何かないかと隅々まで探った。しかし、特にフォックスが隠れているような場所はなさそうだった。一時間ほど粘ったが、二人は諦めて車に戻ることにした。


 その後、夜中になっても二度と光は現れなかった。昨夜のように断続的な鳴き声も聴こえなかった。二人は車のシートをフラットに直し、寝袋と毛布を敷き詰めて、寝床を作った。

「英次先生、ごめんなさい。」

 湯たんぽを抱えて、寝袋にもぐりこむと、大樹は沈んだ声で英次に謝った。英次は先程の騒動で、飲酒の件を忘れていた。

「もう、飲酒はしません。少なくとも調査の時には。」

「本当に反省しているのか。」

 英次の声は半ば笑っていた。

「反省しています。一応。ああ、でもフォックスの光を見ることができて幸せだ。」

 大樹の声はうっとりとした響きを帯びていた。

「光があんなに美しいとは思わなかった。姿は見えなかったけど、本当に居るってことが確信できた。僕もフォックスに会う資格があるんだ。」

「会う資格?」

「なんだかそんな感じがして。フォックスには誰もが会えるわけではないから、僕には会う資格があるだろうかっていつも思ってた。」

「飲酒する未成年には会う資格はないな。」

 英次はからかうように言う。

「ひどいなあ。だから反省してるって言っているでしょ。」

 夜中の車中は、夜が更けていくのを実感として感じ取ることができる空間である。深深と冷え込む外の冷気が車の中にも入り込んでくる。それをかろうじて寝袋と毛布、ぬるまっていく湯たんぽで遮っていた。この闇と寒さの中でフォックスは何をしているのだろうか。英次は今まで考えたことのないことを考えた。

「フォックスをかばって怪我をした人のことだけれども。」

 英次は唐突に語り始めた。

「はい。」

 大樹は真面目な声で応答する。

「彼は、僕たちの高校の生徒ではなかった。調査旅行の途中で加わったフランス人だったんだ。」

「フランス人?」

「そう。」

「芦川先生、フランス人がいた、なんて一言も言っていなかったな。」

「彼はあえて言わなかったんだよ。だから僕から話すことにしよう。」

 英次は、冷たい空気を吸い込んで深呼吸した。

「彼の名前はシュリー。僕たちが北海道に渡ろうとした青函連絡船の上で出会った。」

「シュリー?どっかで聞いたような気がするな。」

「有名人だからね。君のお母さんが大ファンなんだろ。」

 少年はしばし沈黙したあと、驚きを押し殺したような悲鳴を上げた。

「えーそれってどういうこと?まさか『ギアー』のフランス優男のことだっていうの?何でフォックス探しに、そいつが加わるの。」

 大樹少年は明らかに混乱していた。無理もない。

「それは、僕もよくわからないよ。だけど、確かに『ギアー』のシュリー・ユステールは、僕たちの調査旅行に加わって、フォックスを探し、フォックスをかばって負傷したんだ。」

 隣から絶句しながら、頭を整理しようとしている努力が伝わってきた。さらなる沈黙の後、今度は悟ったような口ぶりで言った。

「そして、その人が、英次先生の『気になる人』なんですね。」

「そうかもしれないな。」

 今回のフォックス探しも、シュリーの夢を見なければ始まらなかっただろう。気にしていないと否定しようとすればするほど、彼の存在は自分の中で大きくなっていく。

「なぜだろう。彼が現れてから僕の調子は狂いっぱなしだった。計画していたことが計画通りに進まない。突発的な出来事が多くなって、調査旅行そのものの進行を変更せざるを得なくなった。でも、仲間たちはその状況を楽しんでいたし、シュリーの存在を歓迎していた。彼は有名人だからという理由ではなく、元々魅力的な人間だったから、短期間で仲間たちの心をつかんでいった。」

「ふーん。もしかして、マドンナも?」

 大樹少年は冗談のつもりだったが、英次は答えなかった。

「彼が何者であるかを最初から知っていたのは、僕の親友で調査旅行に最後まで残った木下だけだった。芦川は札幌のコンサート会場に行ってから気付いたそうだ。まさか世界的に有名な、しかも自分が大ファンのロックグループのメンバーが目の前に現れるなんて思わないだろ。もちろん、シュリーも正体がわからないようにしていたせいもあるけれど。」

「芦川先生も鈍いからなあ。」

「札幌のコンサートへは、木下と芦川の強引な勧めによって、メンバー全員で行ったんだ。もちろんシュリーにもチケットを買わせて。」

「馬鹿でしょ。チケットもらえばよかったじゃない。」

「シュリーは僕たちと一緒にいたんだよ。」

「それって、シュリーは自分のコンサートに出なかったということ?」

「札幌以外の日本の公演ではね。」

「まさか…。」

「だからシュリーは、渡されたチケットで会場に入り、そのままステージに向かったんだ。」

「ひえええ。それでどうなったの。」

「大騒ぎだったね。僕たちもびっくりした。驚かなかったのは木下だけ。芦川は腰を抜かして終わった後も立ち上がれなかったよ。」

「でもフォックスに遭遇したのはそのあとでしょ。コンサートのあとも一緒に来たの?」

「いや、シュリーはコンサートの後、いなくなってしまった。そして、僕たちが北海道の東側に移動して調査をしている時に再び現れたんだ。」

「そして、フォックスも現れた。」

「そうだ。」

 二十年も昔の話が昨日のことのようによみがえる。コンサート会場の騒然とした空気、歓声、束ねて結んでいた髪を解いて、颯爽とステージに向かって歩いていったシュリーの後ろ姿…。その後シュリーがいなくなり、まるで夢の中の人物のように遠い存在に感じられたことも覚えている。そして、フォックスとの遭遇を先導するようにシュリーが再び現れる。英次が努力し続けて捜し求めるものを、彼がいとも簡単に手に入れてしまう、そんな他愛のない嫉妬にかられたことが今も心に残っている。

 いつの間にか大樹少年は眠りについてしまったようだ。静かな寝息が聞こえてくる。英次はフォックスの声が聴こえないかと再び耳をそばだててみたが、今夜はもう何も聴こえなかった。闇の中に古い思い出だけが吸い込まれ、むなしさや悲しさの入り混じった中途半端な感情だけが英次の元に残った。


 翌日の午前中、英次は北泉閣旅館の女将―上田美智子―に電話を入れた。すでに話は通っており、今日の正午ごろ昼食を兼ねて、北斗病院の元院長―現在は町会議員を務めている―吉田健吉が食事に招いてくれるという話だった。

会食は、雄大な大雪山を臨む高台のフレンチレストランだった。英次と大樹は早目にレストランに向かったが、到着したときには、すでに美智子がテーブルに着席していた。明るいベージュのスーツにやわらかな桜色のスカーフを身にまとった美智子は、昨夜の和装とはかなり印象が違う。英次は挨拶も忘れて、しばらく美智子を凝視したままテーブルの脇で立ちすくんでいた。背中まで下ろされた黒髪が、右肩に流れるようにかかっている。美智子は首をすこし傾けて微笑みながら英次に挨拶をした。

「都築さん、こんにちは。昨日はありがとうございました。」

 英次はやっと美智子を認識し、慌てて挨拶を返した。

「こ、こちらこそ、昨日は本当にありがとうございました。おかげで凍えずに一夜を明かすことができました。」

「それは、よかったわ。もうすぐ叔父も到着すると思います。」

 大樹少年はニヤニヤ笑いながら、英次の様子を眺めている。

「どうぞお座りになってください。」

「はーい。」

 大樹少年は、英次の前を通り抜けると、さっさと美智子の隣を陣取った。英次は、窓際の美智子の前に座った。窓からは大雪山系が見渡せる。白い峰に太陽の光が反射している。日本にいるのを忘れさせるような雄大な光景が広がっている。

「昨夜も幻キツネの声が聴こえたようでしたけれど、いかがでしたか。」

 美智子が尋ねた。

「ええ、かなり近くにいたようです。フォックスの光らしいものを目撃しました。」

「僕は初めてだったから、興奮して眠れなかったなあ。」

 英次は大樹に冷たい視線を送った。

「やはり、この近くに棲んでいるのかしら。」

「その可能性は高いですね。ここは山や木々が多くて、観光地とはいえ、人が寄り付けない自然が多い場所ですから、フォックスが棲みやすいのかもしれません。」

 その時、白髪の男性が扉から姿を現した。店の従業員に右手を上げて「お世話さま」といいながら英次たちのテーブルに近づいてきた。美智子は先程と同じようににっこりと微笑むと、吉田に向かって手を振った。

「美智子、しばらくだな。元気だったか。」

「ええ、叔父様、相変わらず元気よ。」

 美智子の声が甘えるように聞こえる。

「仕事もいいが、いつになったら落ち着くのかい。」

 ツイードの三つ揃えの背広にシルバーの糸を織り込んだグレーのネクタイが知的な印象を与える。吉田は順調に年を重ね、この地域に貢献することで町の人々の信望も厚く、病院引退後も精力的に活動をしていた。

「いやあね。会うときはいつもその話なんだから。それよりも、こちらが昨夜お話した、都築英次さん。そして、桜井大樹くん。」

 英次は、吉田が着席する前に、立ち上がり深く頭を下げた。

「その節は、大変お世話になりました。お礼を申し上げるのに、二十年もたってしまいまして…。」

 シュリーが入院したとき、英次は付き添ったため、担当医や看護婦とは話をしたが、吉田に会うのは今回が初めてである。

 吉田は、まあまあと制するように英次に着席を促した。

「もう、二十年も経ちますかね、あれから。」

「はい。あの時は僕も、こちらの桜井くんと同じくらいの年でした。病院から失踪した彼を探すことに精一杯で、皆さんにお世話になったことも忘れて東京に帰ってしまって、大変失礼いたしました。」

「いやいや、その後もご健在ならいいのですよ。医師としては、安静状態のときに病院からいなくなったものだから、責任を感じましてね。しかも彼は日本人ではなかったでしょう。」

「どちらの方?」

 美智子が口を挟む。

「彼の故郷はフランスで、日本に一時的に滞在していました。」

 桜井少年は、昨夜の話が本当であることを知り、やはり信じられないといった顔をした。

「銃弾が左腕に命中していたからね、手術は成功したが、経過次第では不自由になる可能性もありましたよ。フランスに帰られて治療を受けられたのでしょうね。」

 吉田の話を聞き、英次はシュリーがキーボード奏者であることを思い出した。シュリーの腕は大丈夫だったのだろうか。

「実は、僕も最近になって彼が健在であることを知ったばかりなのです。それまでは、長年消息もわからずに過ごしていました。」

「一緒に幻キツネを探してらしたのよね。」

 美智子はなぜその人が消息を絶ったのか疑問である、という含みをこめて英次に問いかけた。

「幻キツネは当時話題になったな。一度隣町と共同で調査しようという話まで出たことがあるね。」

 吉田は立ち入った質問を遮るように話題を変えた。

「そうでしたか。僕もフォックスの調査を本格的に行うつもりで、こちらの大学に入学したのですが、あれっきりフォックスに遭遇することはなかったのです。今回は十五年ぶりに思うところがあって、調査を再開することにしました。」

「それはいいことです。私も噂でしかきいたことはないが、もし本当に存在するならば、手続きをとって保護するべきではないかな。」

 吉田はワイングラスを傾けて熱心に英次の話に相槌をうっている。

「存在を再度確認できれば、NPOを本格的に立ち上げて、フォックスの保護について活動をしていきたいと思います。」

「その時はぜひ私も力になりましょう。町にとっても大切な話になるでしょう。」

「ねえ、叔父様、山に国の調査が入ると聞いたのだけど、それは幻キツネとは関係あるの?」

 美智子はフランスパンを小さくちぎった手を止めて聞いた。

「いや、あれは資源調査なんだよ。これも噂の域を出ないが、北大の調査チームが、大雪山系に日本には存在しないと思われていた鉱産資源が眠っている可能性を指摘してね。最近は国も資源開発には積極的になっているからね。」

「へえ、金とか銀とかがあるんですか。」

 それまで食べることに夢中になっていた大樹少年が、話しに興味を示した。

「どうもそうではないらしい。日本は鉱産資源が乏しい国だが、量は少なくともたいがいの資源は地下や海底に眠っているといわれている。日本には存在しない資源というのは、量が少なくて産出できない、というのなら意味がわかるがね。まあ、あまり期待できないだろう。」

 その後も話が弾み、フルコースのランチをゆっくりと味わいながら、英次たちは楽しいひと時を過ごすことができた。今後のフォックス調査の進捗状況を報告することも含め再会を約束し、英次と大樹少年はレストランを後にした。


 再び夜が訪れた。二人に残された時間は今夜しかない。英次は塾の春期講習までに帰らなければならず、大樹少年も卒業式を控えている。昨夜、光を見た地点を中心に時間を置いて移動しながらフォックスとの遭遇を待った。

「昼間、吉田さんが言っていた『資源』のことなんだけど。」

 英次が全く忘れていた話題を大樹は持ち出した。

「うん。それがどうかした?」

「いや、なんとなく気になって。『日本には存在しない』ってところが。このあたりって、珍しいものが存在しやすい場所なのかな。」

 桜井大樹の発想は和也に似ているところがある、と英次は思った。文脈のなさそうなところに筋道を見つけ出すのだ。和也の場合、毎度とはいわないが、フォックス調査についてかなりの確率でその筋道が正しかったことが証明された。

「フォックスもその資源もこの世に存在し得ないものだったとしたら?」

「フォックスは存在しているさ。君も光だけだけど見ただろう。」

「違うんだ。現れるんだけど、存在しない、ということもあるんじゃないかと思って。」

桜井少年の発想は和也の直感に輪をかけて、理解しがたい不思議な感覚を呼び起こす。

「よくわからないな。君の言っていることが。」

「そうですか。思ったんだけど、英次先生がフォックスを探さなかった時期に重なって、フォックスの声は聞かれていないでしょう。どういうことだろうかと思って。」

「たまたま時期が重なっただけではないの?」

「僕は、偶然を偶然として捉えるところに問題があると思っているんです。」

 一昨日、この場所に向かう車の中で大樹少年が話したことを思い出した。

「すべては偶然ではない、ということ?」

「『偶然』っていう言葉は無責任だなあと思って。偶然起こったことは、だれも責任を持つ必要がない。偶然ラッキーだったり、偶然不幸な目に遭ったりする時には、当事者だけに結果が与えられたように感じるでしょう?」

「確かにそうだね。」

「なぜそうなったか、ということをどうして考えないんだろう。」

 桜井少年は、英次を無視して自問自答するように考え込む。

「そのことと『フォックス』や『資源』がどう関係するわけ。」

「フォックスは、『英次先生が探そうと思った』から現れた、と僕は思う。資源も『日本には資源が乏しいから何かないだろうか』と考えた人がいるから発見されたのだと思う。」

 この少年といると、時々自分の理屈では収まりきれない考え方に出会う。そうすると英次は思考能力が低下して、実際に頭が痛くなることがある。

「でも、そこに元々存在していたものを、探したいと思った人が現れたから発見されただけであって、存在しないものが、探したいと思った人の意志によって突然現れるわけではないでしょ?」

 我ながら筋の通った理屈だ。

「資源の方はそうかもしれません。見てみなければわかりませんが。でもフォックスは英次先生が居ないときにも声が聴こえてもよさそうなのに、町の人々は聞いていない。忘れていたから、という理屈は通らないと思います。町の人々は季節ごとの出来事に敏感なはずです。だから、『このところフォックスの声を聞く』と言ったのですよ。」

 英次はだから何なんだ、といった表情を浮かべた。幻の生物を追っているわりに現実的な英次は、感覚的な話をされることに違和感を覚える。

「先生、偶然だと思っていることを全部関連させて考えて見てください。なぜ、先生がフォックスを探しているのか、なぜシュリーと出会って、シュリーがフォックスをかばったのか、一度は探すことを断念して、どうして今再び探しているのか。それらはすべて関連しあっているはずです。そしてそこには、英次先生にしかわからない物語があるはずなんだ。」

「物語?」

「そうです。人間一人ひとりはすべて自分にしか体験できない物語を持っています。どんなに平凡であろうと、どんなに波乱に富んでいようと、誰一人として同じ物語にならない。それを確認するために生きているのだと僕は思う。そう思えば、フォックスを探すことはとても大切なことになってくる。英次先生の物語を紡いで完結させるために、本気で向き合う必要があるんだ。」

 旅のはじめから、少年が語る言葉の中に、英次は完全に理解できないまでも、様々な気づきがあった。フォックス探しを中断してから今までの時間が無駄だったとは決して思わないが、やはり自分自身の奥底で抱えている課題に対していつか必ず戻っていく、人生とはそういうものなのだ、ということなのだろう。

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