第7話 受け継がれる心
「やったー。番号があるよ。奇跡だー!」
一週間後、高校入試の合格発表を見に桜鷹高校に来ていた。
「まじかー!おまえやったぞ。さすが俺の教え子だ!」
芦川は大樹少年の髪の毛をぐちゃぐちゃになでまわした。
「桜井君おめでとう。本当によかった。桜鷹高校にフォックス研究会が再開する可能性が高くなったな。」
英次も付き添いで来ていた。
「じゃ、英次、悪いけど次の高校見に行くから。あとよろしくな。」
「了解。塾に詰めているから。」
芦川は、他の都立高校の合格発表を確認するため、足早に立ち去った。
「君、都築じゃないか。」
掲示板で記念撮影する桜井少年を見ていた英次のところに、年配の男性が声をかけてきた。英次は声の方にふりかえった。
「梅原先生!」
「やっぱり、都築か。久しぶりだなあ。」
梅原は英次が桜鷹高校に在籍していた時の数学の担当で、フォックス研究会の顧問を引き受けてくれた恩師である。昨年の春、桜鷹高校の校長として着任した。
「お前の子どもが受験か?」
英次は苦笑した。
「いいえ。塾の生徒ですよ。芦川徹の塾で働いているんです。」
「ああ、芦川塾ならこの学校にもたくさんの出身者がいるらしいなあ。あいつも頑張っているようだな。」
「さっきまでここに居たんですよ。次の高校の発表を見に移動しました。」
梅原は人のよさそうな笑顔を浮かべて頷いた。
「そういえば、おまえ、高校時代に研究会をつくったじゃないか。たしかキタキツネの。」
「その時は先生にお世話になりました。キタキツネではないのですが、『フォックス研究会』という名称でした。」
「去年、この学校に久しぶりに戻ってきて、数学科の書庫を整理していたら、写真が出てきたよ。あれは美しいキツネだなあ。今、額に入れて校長室に飾ってある。」
「本当ですか。実は、合格掲示板で写真を撮っている生徒がこの春からお世話になるのですが、彼は芦川や僕の話を聞いて、『フォックス研究会』を桜鷹に再開させたいと言っているんですよ。」
掲示板の前では、大樹が友達と一緒にピースをしながら写真を撮っていた。
「ほう。楽しみだな。ところで、都築はフォックスの研究をするために北海道の大学に進学しただろ。その後研究は進んだのか。」
英次にとって一番触れられたくない話題だった。しかし恩師に嘘はつけない。
「当時はいろいろ事情があって、中途半端になってしまいました。実は、あさってから北海道へフォックスの調査へ出かける予定です。十五年ぶりに。」
「そうか。あの頃はずいぶんと熱中していただろう。都築の熱意に負けて3学期の調査も認めたことがあったな。この学校はあの出来事以来、生徒の自主性を尊重する考えが受け継がれて、自由な校風を保ちながら、いろんな分野で活躍する人材が育っていった。それもきみたちの活動のおかげかもしれないな。」
英次の高校時代、常に研究会の活動に理解を示し、励まし続けてくれた。この学校で貴重な体験をさせてもらった。英次は改めてフォックスに向き合うことが、自分の人生にとってどれほど重要なことであったのかを認識しつつあった。情熱を持てることに打ち込むことで自分を生かし、周囲に支えられて掛け替えのない意味のある空間を作り出せたのだ。
「都築、本当にやりたいことがみつかっている者ほど幸せな者はいない。今でも生徒に言い続けている。挑戦は、いくつになっても遅くはないぞ。やるか、やらないか、だけだ。」
梅原の言葉が十代の時のように胸にせまってくる。
「そうだ。もし可能ならば、いつかこの桜鷹で進路研究の授業として、フォックスに関する講演会をやってくれ。後輩や地域の人たちのためにも。そして今から挑戦しようとしている人たちのためにも。」
梅原自身は、久しぶりに桜鷹高校に戻り、生徒の様子が変化していると感じていた。桜鷹は伝統的に自由な校風の中で個性豊かな生徒が多いと言われてきたが、最近の生徒たちは大人しく将来の夢を持てなくなっている。以前の活気のある空気を学校に取り戻したい、そんなことを思っていたのだ。
「梅原先生、ありがとうございます。もう一度フォックスと会って、いつかみなさんにご報告できるよう、しっかり調査したいと思います。僕にとってもよい目標になります。」
「英次せんせーい。塾に帰りましょうよー。」
有頂天になっている桜井少年が、合格掲示板から駆け寄ってきた。
「おう。帰ろう。フォックス研究会の計画でも立てるか。」
「やったー。」
「英次先生、さっきのおじさん誰?」
「おいおい、桜鷹高校の説明会に行ったことあるんだろ?校長先生だよ。梅原校長先生。ついでに言うと、僕らが高校時代に『フォックス研究会』の顧問を引き受けてくれた先生だよ。」
「えー。まじー?」
当時、英次たちフォックス研究会のメンバーは、桜鷹高校の中では、かなり目立つ存在だった。研究会を立ち上げたメンバーが個性的な生徒ばかりだったこともあった。しかし一番物議を醸したのは、高2の冬、フォックスを追うために1ヶ月近くも高校を休んで北海道に行ってしまったメンバーがいたことだった。当然のことながら、高校側では重大な問題として「進級させない」という議論も出た。しかし、そのメンバーが、学年で成績トップの木下和也と生徒会長を務めていた都築英次、副会長の安曇良子の三人だったため、学校側もすぐには結論が出せずにいた。さらに、先に帰ってきた芦川たち他のメンバーが中心となり、英次たちを守ろうとする動きを起こした。職員会議では、当時、2年の学年主任だった梅原が留学と同じように彼らの行動を教育活動の一環として認めるように働きかけた。最終的に、英次たちがフォックスの写真撮影に成功し、マスコミに取り上げられるなど、世間が桜鷹高校に注目し、話題になったこともあり、学年末には英次たちの行動については特例として校長が進級を許可した。
しかし今の英次は、大樹たちにそんな無謀なことはして欲しくない、と常識的な意見に変わっている。塾で仕事をするようになって、親や進学対象になる有名な学校が必ず持っている「世間的に評価される生徒を育てたい」要望というものと、子どもたちの要望との間に温度差が大きくあることを実感した。自分は早くに両親を亡くしたため、常に自分自身の考えだけを基準に判断するより他になかった。だからあんな無謀なことをして、周りを巻き込むことも平気だったのだ。自分は周囲の人々のおかげで乗り切ることができたが、やはり年を重ねると保守的になるのだな、と英次は妙に納得するものがあった。それでももし大樹が自分と同じような行動を取ったら、おそらくかつての梅原先生のように、彼らを擁護する側に回ることだけは確信できた。
「ねえ、先生、あさってからの調査、もちろん僕も連れて行ってくれるよね。」
大樹が合格したら、一緒に北海道に連れて行くことを約束していたことをすっかり忘れていた。
「え、本当に行くつもりだったの。」
「あたりまえじゃん。桜鷹に入って、『フォックス研究会』再開するのに、何にも活動していないんじゃあ、説得力ないし。そのために必死に勉強したんだよ。」
「今から飛行機のチケット取れるかなあ。それに、ご家庭でお祝いとか春休みの予定とか、忙しくないの。」
「じゃじゃーん。すでに航空券は取ってあります。」
大樹はかばんの中から、英次が乗る予定の飛行機と同じ便のチケットを取り出した。
「なんだよー。落ちても行くつもりだったわけ?」
「もちろんでーす。すでに両親の許可はもらっています。英次先生と一緒ってことを伝えたら、喜んでいましたよ。」
桜井大樹は小学生の頃から日本各地を旅行するのが趣味だった。時には一人でも列車を乗り継いで出かけてしまうことがあった。それに比べたら大人がついている分両親も安心、というところなのだろう。
「まったく、君にはかなわないな。」
実際、大樹少年の前向きな性格には驚かされることが多かった。昨秋、芦川に誘われて塾の仕事を始めた頃は、正直なところ英次から見ても、大樹の成績はとても桜鷹には届かないと思われた。しかし、フォックス研究会を再開する、という目標を掲げたとたん、大樹の成績はみるみる上がっていった。子どもの潜在的な可能性を信じることの大切さを英次は彼から教わった。
「じゃあ、まずは旅の支度をしなければね。大樹くん、冬の北海道は行ったことある?」
「冬はないですね。北陸の冬はよく行くけど。」
「でも、雪国はよく旅をしているということだから、基本的にはそれと同じ準備で大丈夫だよ。今回は時期的に、離岸ぎりぎりといったところだけど、流氷の地域にも行く予定なんだ。」
「わあー。流氷、乗ってみたーい。フォックスって、流氷に乗ってやってくるんですか。」
「いや、残念ながらよくわからない。昔大ヒットしたキタキツネの映画があってね、その影響を受けて、僕たちはフォックスも流氷に乗って移動するのではないか、と勝手に思い込んでいたんだよ。でも実際フォックスに遭遇したのは、ずっと内陸の方だったね。今回は、オホーツクの海岸沿いから、前回フォックスに遭遇した内陸にかけて辿ってみようと思う。」
「楽しみだなー。北海道って食べるものは旨いし、温泉もあるでしょ。今話題の動物園にも行ってみたい!」
「おい、そっちが目的か?フォックス探しの旅は、そんなに楽じゃないぞ。寒い中を何時間も待たなければならないこともあるし。」
「もちろん、真面目に探しますよ。でも調査以外の時間は楽しまなきゃ。同じ探すのでも。」
大樹少年はどこまでも前向きな性格である。英次が高校生の頃は、フォックス探しに対する気構えももっと深刻で、調査以外の時間に温泉につかるようなことは考えられなかった。現代っ子は感覚が違うのだろうか、と呆れたくなるが、逆にそのくらいの余裕を持って探す方がうまくいくような気もした。
「ところで、ちょっと聞きにくいんだが、君の特別な力のことなんだけど…。」
桜井少年に初めて出会った時に起こった「憑依現象」のことを英次は聞いた。
「あー取り憑かれる現象ね。英次先生の家で起こって以来、なぜか一度もないです。」
「そうなの。」
「受験勉強に集中していたからかなあ。余計なことを考えなかったせいか、この半年何もないですね。」
受験勉強に集中、というところは疑問があったが、英次も少し安心した。
「でも、これまでも1年以上間が開くことがありましたから、わからないですね。いつ起こるか。」
大樹は全く平気な様子で笑っている。
3月9日の午前中、英次と大樹は羽田から北海道の女満別空港へと飛び立った。今回は一週間ほどの短い調査だが、久しぶりの北への調査旅行に緊張しているせいか、前日は眠れなかった。
今日は全国的に良い天気のようだ。大樹は窓から見える太平洋の海を見ながら興奮気味に騒いでいる。飛行機に乗ると必ず気分が悪くなる英次も、今日は若き元気な相棒のおかげで、気持ちが紛れていた。
「先生たちが高校生のときは飛行機で北海道に渡ったの?」
「まさか。みんなアルバイトしたり、小遣いを貯めたりで資金は限られていたからね。上野から夜行の急行に乗って青森まで十二時間。そこから当時はまだ青函トンネルがなかったから、船で渡って、さらに急行を乗り継いで札幌に到着。一日がかりで北海道へ行ったんだよ。」
「すごい!『上野発の夜行列車降りたときから…』の歌どおりに北海道に渡るなんて格好いい!」
桜井少年は同年代の生徒に比べると、やや趣味が古いようだ。そのため、昭和に青春を送っている大人と妙に話が合うところがあった。
「それからフォックスの居るところへはどうやって行ったの?」
「札幌に着いたのが1月20日のことで、いろいろ物資の調達もあって、札幌に2泊したんだ。」
「芦川先生が言ってた。札幌で英次先生と研究会のマドンナがデートしたって。」
英次はキャビンアテンダントが配ってくれたコーヒーをもう少しで噴出しそうになった。
「芦川がそんなことを!」
「良子さんて言うんでしょ。その人。芦川先生もひそかに憧れていたらしいよ。でも生徒会長と副会長の関係だし、邪魔してはいけないって諦めたんだって。」
安曇良子はフォックス研究会唯一の女子だった。聡明で明るく、誰に対しても公平な彼女は、学年の中でも男子から特に人気があった。もちろん英次も彼女に好意を寄せていた。
「それから、『ギアー』のコンサートに行ったんでしょ。僕、知ってるよ。うちの母親が『ギアー』の大ファンで、小さいときからよく聴かされていたから。僕はどちらかというと日本の演歌の方が好きだけどねー。」
「お母さんは『ギアー』のファンだったの。」
英次は再びコーヒーを喉につまらせそうになった。
「ほら、知ってのとおり、うちの母親、故郷がフランスだから。ギアーのメンバーにフランス人がいたでしょ。その人がカッコいいって、母親が写真も見せてくれたけど。どこがいいんだか。髪の長い優男って感じで。ロックはよくわからないんだよね。僕は。」
英次は大樹のシュリー批判を聞いて、ついに噴出した。
「何がおかしいの。しょっちゅう好きじゃない音楽聴かされる身にもなってみてよ。でも、英次先生も『ギアー』が好きだったの?だからみんなでコンサートに行ったのかな。」
「いやいや、僕は君と同じで『ギアー』の音楽はよく知らなかったよ。研究会の中に熱狂的な洋楽ファンのメンバーがいてね、彼と芦川は相当な『ギアー』信者だったね。当時、世界的にも有名なグループだったから、その他のメンバーも行きたいと言い出してね。そのせいで札幌の滞在が一日延びたんだよ。」
「よかった。英次先生も『ギアー』ファンだったら、どうしようかと思ったよ。芦川先生はうちの母親と面談すると、2時間も『ギアー』の話で盛り上がっているんだから。呆れるよね。」
英次は「ギアー」に好意を持たない人物に初めて出会って、自分の味方が一人増えたような、そんな気持ちになった。しかし大樹はシュリーが自分たちと行動を共にしたことを知らない様子だった。芦川は青函連絡船の上でシュリーに出会ったことを話さなかったのだろう。
「その後は、どういう行程だったの?」
「札幌から十勝経由で網走方面まで行ってね、オホーツク沿いを調査したんだ。それだけで10日を費やした。その後、芦川たちは東京へ帰った。」
「でも英次先生は残ったんだね。」
「ああ。僕とさっきの洋楽ファンの木下と安曇さんの三人になった。」
「えー三人で。みんなよく怒られなかったね。さすがの僕でもできないなあ。」
「確かに。安曇さんには帰ってもらおうと説得したんだけど、ご家庭も了解済みで、断る理由がなかった。木下は帰った後、親父に殴られたって言ってたね。」
「そりゃそうでしょ。」
「顧問の梅原先生の親戚が北海道に多くいてね、協力していただけたことも大きかった。」
「あ、校長先生だね。」
「最初、オホーツク沿いではフォックスに出会えなかった。だから大雪山に向かって移動してみたんだ。」
「層雲峡の方面?」
「うん。ここからが大変だった。何の手がかりもないところでさすがに途方に暮れた時もあった。」
「でも見つかったわけだ。」
「ある日猛吹雪に見舞われて、僕たちが滞在していた拠点の小屋から一歩も外に出られなくなった時があった。夜になって吹雪が止み、外は静寂に包まれた。その時、遠くから不思議な鳴き声が聞こえたんだ。」
吹雪の中、三人がこもっていた小屋に、突然シュリーが倒れこんできたことを思い出す。吹雪はその直後に止み、フォックスの声が遠くから聞こえてきた。まるでシュリーがフォックスを連れてきたようだった。
「フォックスの鳴き声ってどんな声なの?」
英次は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「なんて表現したらいいんだろう。日本の古い楽器、そう横笛の音のような、ヒューンという高い澄んだ音だよ。」
「その夜に会えたの?」
「僕と木下は外に駆け出した。吹雪の後の大地は月明かりに照らされて銀色に光っていた。幻想的で、今にもフォックスが現れるんじゃないかと思わされたんだ。遠くに何かが光った。僕たちはフォックスだと思って、進もうとしたが、降り積もったやわかい雪が思うように僕たちを進ませなかったんだ。それでも雪と格闘して、光が見えた地点まで辿りついた。時々さきほどの鳴き声はする。でも、フォックスには会えなかった。」
英次と和也が夢中になって雪と格闘していた頃、小屋の中では良子がシュリーを看病していた。シュリーは体力の消耗と高熱で寝込んだ。今考えると、その時にシュリーと良子の間に何かがあったのだろうと英次は思う。後日、回復したシュリーに対し、良子は避けるような態度を取るようになっていたからだ。
「それから毎日、鳴き声はするが姿が見えないという日々が続いた。僕たちはいくつかの拠点を持って、天気がよければテントを張って外で何時間でも待った。声がすれば、その方向に移動してみた。ある時、僕たちはフォックスの声がする時の条件に気付いたんだ。必ず、日没から夜にかけて声がする。フォックスは夜行性なのかもしれない、と考えた。だから、昼間ではなく、夜を中心に調査をすることにしたんだ。」
「夜行性かー。光が目立つものね。」
「その通り。フォックスは、あの光で夜現れればかなり目立つはずだ。でも目撃情報が少ない。これは今も解決できていないフォックスの謎だよ。動物の雄が求愛行動で目立とうというのならわかる。あれがその類の行動なのか、そうでないのか、まだわかっていないんだ。」
「そして、とうとう会うことができた…。」
大樹が羨ましそうに英次を見る。
「僕たちは予定を大幅に延長して調査をし続けた。北海道に入ってひと月が経とうとしていた。」
1986年2月16日、英次はその日を忘れることができない。
「その日の午後は、雲一つない穏やかな天気だった。ただ、遠くから狩をする銃声のようなものが聞こえていた。その音が妙に気になっていた。夕方、日が沈みかけて、地平線が赤紫色に染まった。僕と木下は森林近くの雪原に居て、双眼鏡でフォックスを探していた。太陽が沈んだ後もあたりは透明の青いベールがかかったように、ほんのり明るかった。宇宙空間に漂っているように足元がおぼつかなくて、どこにいるのかわからないような錯覚に陥った。その時、森林の端から突然現れた。ほら、澄み切った夜空で星が明滅するように輝くだろう。そんな風に、光が呼吸しているように強くなったり弱くなったりしてフォックスの身辺を漂っているのが見えた。僕たちは呆然と立ち尽くした。いつも冷静な木下もあの時ばかりは、腰を抜かさんばかりに驚いていた。
その時、しばらく止んでいた猟銃の音が近くで突然鳴り響いたんだ。僕たちはその音で我に返って、フォックスのほうに走り出した。フォックスと僕たちの距離は2、300メートルくらい離れていたと思う。フォックスは、森林とは逆の方向に向かって歩き出した。軽やかな足取りで。そして助走をつけると、空高く舞い上がったんだ。」
「舞い上がる…。」
「そう、舞い上がるとしか表現しようがない。それもゆったりと宙に浮き上がるように。木下は僕より早くフォックスに近づいた。そしてカメラのシャッターを切り続けた。
森林のほうから『いたぞー』という大きな声がした。僕は嫌な予感がした。そして気付いたときには、フォックスの側に人が倒れていた。猟銃の流れ弾が中ったんだ。フォックスはその人のおかげで助かった。フォックスは、倒れた人の側に歩み寄り、今までにないほどの光であたりを照らし出した。僕たちはフォックスのかなり側まで近づいていた。だからフォックスの姿をはっきりと見ることができたんだ。」
「倒れた人って、まさかマドンナ?」
「いや、違う。」
英次は、桜井少年にシュリーのことを話そうかどうか迷った。フォックスに関することはすべてこの少年に語っておきたい気持ちはある。しかし、シュリーのことについて説明するのは、現時点では気が進まない。
「大丈夫だったの。その人。」
「ああ。大怪我だったが、命に別状はなかった。」
先日の和也からの報告で、シュリーが生きていることが判明した。出張先から帰ってきた和也とは、まだ会っていない。だから詳しい話は聞いていないが、生きていることがわかって、ためらわずに無事であったと言うことはできる。
「フォックスはその後どうなったの?」
「しばらく、倒れた人に寄り添って、まるで光で傷を癒そうとしているように見えたけど、首をおおきく天に向けて、あの笛の音のような鳴き声でひと鳴きすると、再び舞い上がり、今度はすばやく何度も弧の字を描いて舞い上がりながら、山の方へ姿を消した。こう話をするととても長い時間が経っているように聞こえるかもしれないが、フォックスが姿を現して、行ってしまうまでの間はせいぜい10分程度の出来事だったと思う。」
たった一度きりのフォックスとの遭遇。英次がそれまでに費やしたエネルギーを思えば、一瞬といっていいほど短時間の出来事だったが、それは今までの人生の中で最も貴重な瞬間だった。人生とは不思議だ、と英次は思った。各々が持つ欲求や課題はすでに心の中心に据えられており、遠ざかったように見えても、必ずそこに向き合うことになる。それが英次にとってはフォックスだった。そして同時にシュリーでもあった。
「英次先生、見て見て!流氷だー。」
大樹が窓の外を指差した。空港の上空に近づくと、オホーツク沿岸に接岸している流氷が見えてきた。英次も心が沸き立つのを感じた。フォックスを追う仲間がいるという喜びが再びよみがえってきた。高校卒業後、北海道に渡り、大学、大学院と続けたフォックスの研究では孤独な日々が続いた。今はずっと年下ではあるが、フォックスを追う夢を持った仲間がいる。古い仲間たちも再び集まりつつある。近づく滑走路への着陸と共に、新しいフォックスの物語が始まる予感に、英次は心が満ち足りていくのを感じていた。
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