第6話 大樹の受験会場で
「まったく、予想通り、大樹は遅いな。」
芦川は腕時計を見ながらいらいらしていた。時計の針は8時10分を回っている。そのとき、校門からのんびりと歩いてくる桜井大樹の姿が見えた。
「大樹くん、来ましたよ。」
英次が指差した。
「こらー。おそいぞ。何のんびりしてるんだ!」
今日は都立高校の一般試験の入試日である。芦川は自分が受験生のように先ほどからピリピリと神経を尖らせていた。英次は芦川に連れられて、早朝から校門前で待機していた。進学校というだけあって、多くの塾関係者が自分の塾に通う受験生の激励にやってくる。芦川の塾からは、精鋭が十名受験するのだ。その中に桜井大樹がいた。
「あー先生、おはようございます。寒いっすねー。」
大樹はコートのポケットに手をつっこんだまま挨拶した。
「寒いっすねーじゃない。もっと早く来なきゃだめじゃないか。集合時間ぎりぎりだぞ!」
「だってー家から歩いて5分ですよ。こんな近いところじゃ早く来ても意味ないし。」
「おまえなー小学生のときからうちの塾に通っているんだから、絶対合格しろよ。」
「んなこと言われたって無理ですよ。ベストは尽くしますけどね。」
「この三年間、都立高校の合格率は100%を誇っているんだ。芦川塾の名を汚すなよ!」
「まあまあ、芦川先生、そんなプレッシャーかけなくても。」
英次が笑いながら二人の会話に割って入った。
「こいつは少しプレッシャーかけないとだめなんだよ。すぐに甘く見てつけあがるんだから!」
桜井少年は、芦川の怒りなどまったく意に介さず、のんびり構えている。
「大樹くん、頑張れよ。フォックスのためにも。」
英次は右手を差し出した。
「はい。ありがとうございます。」
大樹少年も右手を差し出し、英次と握手をした。カイロでも握っていたのか、大樹の手は暖かい。
「じゃ、芦川先生いってきまーす。あんまり期待しないでね。」
桜井大樹は芦川の怒りの応援を背に受けながら、受験票を振り回して受験会場の中に入っていった。
「やれやれ、困ったもんだ。さ、英次、最後の受験生も見送ったし、朝飯でも食いにいこうぜ。」
「そうだな、寒さと空腹で身体がこわばってしまったよ。」
その時、英次の携帯が鳴った。
「あれ、和也だ。」
「へえ。大学准教授様からこんな早い時間に電話か。」
英次は、電話に出た。
「もしもし。」
「英次か。日本は朝か。」
「ああ、今日は都立の入試日でね。俺たちの母校に受験生応援で来ているんだ。」
「そうか。芦川もいっしょか。」
「今、隣にいるよ。」
一瞬の沈黙があった。
「シュリーは生きていた。ユステールさんにも会ったよ。」
英次は耳を疑った。
「和也、今どこにいるんだ。」
英次は電話を切った後、今まで聞こえていたはずの周りの喧騒が遠のくのを感じた。
「おい、英次どうした。和也なんだって?」
英次は芦川にうつろな目を向けた。
「いや、何でもない。」
「何でもないっていう顔じゃないな。和也から何か言われたのか。」
「シュリーが生きていたって。」
英次はつぶやくように言った。
「シュリーって、あの失踪したシュリーのことか。」
芦川は高校時代、フォックス探しの旅の前半に同行し、北海道に渡る船の上でシュリーに会っている。しかし、シュリーが英次の兄であることは知らない。研究会のメンバーのほとんどが旅の前半に参加することはできたが、最後まで残ることができたのは、英次と和也、良子、そしてシュリーだけだった。そのため芦川はシュリーが負傷したときの現場は見ていない。フォックスの写真撮影に成功するという目的を遂げたにもかかわらず、多くを語らない英次の代わりに、後日、シュリーが入院中の病院から失踪したことを和也から聞いた。北から帰った後の英次は、人が変わったように暗く憂鬱な表情を浮かべることが多くなり、芦川や仲間たちは心配した。今、目の前の英次はその時と同じ表情を浮かべている。芦川の胸に不安が過ぎった。
一方、英次は、和也から告げられたことをどのように受け止めたらよいかわからなかった。これほどの年数が経っていても、シュリーのことを思い出すと一瞬にして昔の感情がよみがえる。フォックスを再び探そうと決めた矢先にシュリーの情報が入ってきた。符号の一致、ということを和也はよく言う。しかし、フォックスとシュリーは自分の過去という遠い時空間の中に置き去りにしてきただけに、再び時が一致して同時に自分の人生に現れることは予想していなかった。あの夢は、昔解決できなかったシュリーに対するもつれた感情が、潜在意識から出てきたのであって、まさか、現に生きているシュリーの情報を聞かされることになろうとは思わなかったのである。
「おい、英次大丈夫か。」
芦川が英次の腕をつかんで揺さぶった。英次は我に返った。
「大丈夫だ。少し驚いただけだよ。」
英次は力のない微笑を浮かべて芦川に答えた。
「一度聞きたかったんだが、あの時、シュリーとの間で何かあったのか。」
英次は再び黙り込んでしまった。
「あの頃は皆心配しながらも、おまえの人が変わってしまったような様子になかなか聞けなかった。でもこんなに年数が経っていても、シュリーに対してこだわりがあるようだな。」
芦川の言う「こだわり」という言葉が胸に響く。英次はシュリーに会うことになれば、自分の世界を壊されるのではないかという根拠のない恐怖感を抱いていた。シュリーに会うためには自分に揺らぎない自信を持てなければだめだと思い込んでいた。
「シュリーもいつまでも前のままじゃないと思うぞ。確かにあの時は英次に対して対立的な態度を取っていたように見えたが、もう何十年も経っているのだから。」
芦川の言葉はもっともだった。
「そうだな。もう、昔のことだ。」
英次は力なく笑った。
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