第5話 和也の出張
二月の下旬、和也は学会への出席のため、パリに来ていた。パリは二回目の訪問である。大学時代に誰にも告げずシュリーを捜すために来たことがある。そのときも感じたが、フランスの空気になぜか懐かしさを覚えた。ホテルに向かう途中、石畳の道を歩きながら、街並みを眺める。空は曇り、気温は低く寒いが、気分は良かった。人も風景もまったく違う異国に来ることで、東京での忙しい毎日から開放されたせいもあるだろう。
「シュリーは生きているのだろうか・・・。」
和也も二十年前のことを忘れられずにいた。この二十年間は、今の自分の地位を築くためだけに毎日を生きてきた。英次に対し、フォックス探しを中断したことを説教するような立場ではないのだ。和也自身も生きることに精一杯であり、これが自分自身の本当に進みたい道であるのかさえ考えずに突き進んできた。英次は自分自身に正直であったからこそ、迷い悩み、再びフォックスやシュリーに向き合うことになったのだ、と和也は思った。
考えながらも、建物や道行く人々を観察し続けていた。和也は物事を客観的にとらえ、分析することが昔から得意だった。
あのときもシュリーが何者であるかに最初に気づいたのは和也だった。ワールドツアーの途中で失踪し、自分のもう一つの祖国である日本へやってきた、天才ロックアーチストと言われたシュリー。当時、和也は洋楽に傾倒し、シュリーの所属していたグループ「ギアー」の大ファンでもあった。
フォックス探しの旅のため、北海道に渡る船の上で、シュリーと英次、和也たちは出会った。和也はすぐに彼が誰であるかに気づきながら、あえて札幌での公演に誘ったのだ。考えてみれば、ずいぶん大胆なことをしたものだった。その後は、コンサートに失踪したはずのシュリーが突然現れ、会場は騒然とする。最終公演は大成功に終わった。
つい、この間の出来事のように鮮明に思い出す。しかしもうあれから二十年・・・。
和也は何気なく、ある建物の上階を見上げた。古い作りの建物が続くその中の一棟に「ユステール」と彫られた金色のプレートを発見した。三段の低い階段に続く、重厚な木枠に厚いガラスが嵌め込まれた手動の扉が構える。扉の右隣はガラス張りのショーウィンドウだ。すでに春夏物のファッション小物らしいものがディスプレイされていた。
「ユステール社か・・今や世界でも指折りのブランドだ。ユステールさんは何年か前に、社長を退いたような記事を雑誌で見かけたが・・。」
ジャン・デニ・ユステール―シュリーの父であり、英次の母、恵子が十代でフランスに留学した時に出会い、恋に落ちた相手である。和也は詳しいいきさつは知らないが、恵子がシュリーを生んだ後、なんらかの理由でシュリーを手放し、日本に帰国し、その後英次の父親である都築氏と出会ったと聞いている。ユステール氏は、デザイナーとして世界的に有名になり、自分のブランドを確立した。二十年前、シュリーの来日とあわせるように、父のユステール氏は自社のプロモーションのため来日していた。その時、和也は一度ユステール氏と会っている。
ショーウィンドウの一角に目を向けた。そこには、女性物の春らしい軽やかな色のスカーフやバッグと共に、小さな動物の置物が置かれていた。ライトに照らされて時折金色に光る。和也は道を横切り、ウィンドウに近づいた。スワロフスキーのガラス細工で、手のひらに乗る程度の大きさであったが、和也はそれを見て微笑んだ。
「フォックスだ。ユステールさんが?もしやシュリーか?」
ガラス細工の置物は、明らかにフォックスを象ったものだった。手足と尾に金粉が埋め込まれ、ホノグラムのように美しくチカチカと輝く。フォックスの目には小さな翡翠色の宝石が埋め込まれていた。
思わずユステールブランドのドアを開けて中に入った。天井の高いフロアには真っ白な陳列棚が高く伸び、奥行きが深く見えた。和也は一瞬、北の真っ白な原野にいるような錯覚に陥った。ディスプレイ棚には、ショーウィンドウと同じように、春夏物の洋服やファッション小物などが陳列されていたが、販売目的ではないようだった。買い物をする客らしき人物はおらず、店員もいないようだった。ここは、ユステール社の事務所か何かだろうか。
しばらくして、奥から一人のフランス人女性が出てきた。黒のスーツを身にまとい、開襟の白いシャツの襟には品のよい金唐草の刺繍がほどこされている。和也よりも背が高く、ブロンドのショートヘアで、耳元には大きな赤いクリスタルのイアリングが揺れていた。
「どちらさまですか。」
おそらくそんなことをフランス語で言われたと和也は思った。フランス語は話せない。仕方がなく、英語で返した。
「ショーウィンドウのガラス細工の動物は、売り物ですか?」
女性は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに微笑んで、英語で答えてくれた。
「あれは売り物ではありません。わが社のシンボルです。ブランドマークの次に大事なものなのですよ。」
「ユステールさんがデザインされたのですか?」
「ええ、ユステール前社長が確か日本で着想を得てデザインした、と聞いています。あら、そういえば、あなた日本人?」
和也はショーウィンドウに視線を向けていたが、女性の方に向き直った。
「ええ、そうです。」
「日本には、あのような美しいフォックスがいるの?」
和也は微笑んで答えた。
「いますよ。めったに会うことはできませんが。」
「まあ、私、想像の動物かと思っていたわ。ユステール会長はごらんになったことがあるのかしら。」
和也は、二十年前のフォックスが舞い上がった北の大地の風景を思い出して、軽く目を閉じた。
「ユステールさんはご覧になったことはないですが、彼の息子さんはフォックスに会っていますよ。」
女性は、和也が感慨深げに発した言葉を聞いて、大きな声を挙げた。
「息子さんって、シュリーのこと?シュリーをご存知なの?」
和也は女性の声に驚いて、目を開けた。
「シュリーは生きているのですか?」
いつもは初めての相手に冷静で客観的な態度を保つ和也だが、シュリーという言葉を聞いて、相手の質問にも答えず声を高めた。
「シュリーをご存知なのね。シュリーとは私も親しかったわ。そう二十年以上も前のことですけれど。」
女性は少し声を落とした。
「では、シュリーが音楽をやっていたこともご存知ね。」
「もちろんです。僕は若いときからロック音楽が好きで、もちろん『ギアー』もよく聞いていましたから。」
女性の瞳が室内の白い光に照らされた。感激の涙を浮かべているように見えた。
「私も少女時代に『ギアー』のファンだったの。熱狂的なおっかけファンだったわ。シュリーがユステール社長の息子というのは有名な話で知っていたけれども、ユステール社に入社したのは偶然よ。その頃には『ギアー』は解散していたし。シュリーもフランスには居なかったの。」
和也はうなずいた。
「失踪・・しましたよね。」
「ええ、アメリカに渡ったという話を聞いたわ。その後行方が知れずに、社長もずっとシュリーを探したの。そして、今から5年前に一度、シュリーは帰ってきたの。」
和也はその言葉で初めてシュリーがその後も生きていたことを知った。
「帰ってきた?今も居るのですか。フランスに。」
「いいえ、シュリーはこちらの仕事のために一時的に戻ってきただけ。そう、あなたご存知?『Fox Tail』というヨーロッパで大ヒットしているミュージカルを。」
「いいえ、知りません。」
「もし、『ギアー』のファンだったなら、観るべきよ。全幕シュリーの作曲した『ギアー』黄金期の曲が使われているミュージカルよ。」
彼女は話したくて仕方がないといった表情を向けた。
「ミュージカルですか。」
「ええ、このミュージカルは九十年代後半にウィーンで始まって、今はドイツでロングラン公演しているのだけど、そのため何度かヨーロッパに戻ってきたのだと思うわ。おそらく失踪以来始めてこちらに帰ったのではないかしら。あれは2000年の秋ごろだったと思う。さきほどのあなたと同じようにあのショーウィンドウの前に立っていたの。」
外は少し明るくなっていた。雲の切れ間から太陽の光がうっすらと差し込んでいる。クリスタルのフォックスは、輝きを増した。
「私は、目を疑ったわ。失踪する前と変わらないシュリーがそこに立っていたの。幻ではないかと思って、おそるおそるドアを開けたわ。シュリーはあなたと同じ、フォックスの置物について質問をしたの。『これは誰がデザインしたのか。』と。」
以前と変わらないシュリーの姿―和也には理解できるような気がした。もちろん和也は失踪以後のシュリーに会ってはいない。和也が思い出すシュリーの姿は二十代のままだ。しかし、今も変わらない姿で存在するシュリーをイメージすることはなぜか容易だった。
(時が止まっている)
シュリーも英次もあのときから時間を止めて、現実を受け入れることを拒んでいるのではないか。
「シュリーはユステールさんに会ったのですか?」
「いいえ。私が社長を呼ぼうとしたら、シュリーはそれを制したの。立ち寄ったことも伝えないで欲しいと言われたけど、それはできなかったわ。でも社長はシュリーがここに寄ったことをお伝えしただけでとても嬉しそうだった・・。」
和也はユステールの心中を察した。彼にとっては一人しかいない息子なのだ。生きていてくれるだけでも十分、そんな謙虚な心情を持つことのできるユステール氏の人柄を和也は知っていた。
「もし、よろしかったら、ユステール会長に連絡を取りましょうか。今、ドイツに出張中ですが、来週にはこちらに戻りますので。」
「ぜひお願いします。ツヅキエイジの友人のキノシタカズヤとお伝えくだされば、おそらくお分かりになるかと思います。」
和也は携帯の番号を伝えた。
「それから、さきほどのミュージカルが行われている劇場などおわかりになりますか。観てみたいな。」
「お勧めよ。あなたが、シュリーのファンならなおさら。今、デュッセルドルフでやっているわ。」
ユステール社の事務所を後にすると、和也は石畳の道を再び歩き始めた。思いがけない情報を得て気持ちが高揚していたせいか、舞い始めた雪が頬を撫でるのにも温かさを感じた。黄金期のシュリーの音楽尽くし、というそのミュージカルを、和也はどうしても観たくなってきた。学会の後、春季休暇を取るつもりでフランスに来ていたので、とりあえず、ドイツに行こうと考えた。学会は明日だ。その後、さっそくデュッセルドルフに飛ぶことに決め、航空券の手配をした。
和也は、携帯を取り出した。シュリーが生きていることを英次に伝えたくなった。しかしやめた。
「とりあえず、情報収集だ。あわてても仕方ない。」
翌日、学会が無事終了すると、夕方の飛行機でパリから1時間半ほどのドイツの都市デュッセルドルフに和也は到着した。空港付近とはいえ、明かりは少なく、深閑とした空気が覆い、底冷えする。パリよりもずっと寒く感じられた。日本の北の大地もこんな寒さだった、と和也は思った。ユステール社の女性に教えてもらった劇場に近いというホテルにタクシーで向かった。ここデュッセルドルフはヨーロッパの中でも日本人が多く住む場所であり、大通りに面して、日本食のレストランがいくつか看板を掲げているのが見えた。和也はホテルにチェックインした後、すぐ隣にある和食のレストランで、刺身定食を注文した。店員が日本人だったので、試しにミュージカルのことを聞いてみた。
「結構おもしろいですよ。あのミュージカルは。ドイツでは流行っているんです。ロングラン公演になっていますよ。」
和也はシュリーの音楽が使われているミュージカルが、ドイツで受け入れられていることを身内がほめられたように嬉しく思った。
(そういえば、シュリーの属していたグループの名前は『ギアー』。これはドイツ語だ。今まであまり意識していなかったが、なぜドイツ語なんだろう?メンバーは確かシュリーだけがフランス人と記憶しているが・・。命名者はだれだろう。シュリーはグループの中では最年少で後から加わったメンバーだ。シュリーは作曲とキーボード担当でリーダーではなかったからな。)
久しぶりに、大好きな洋楽の知識を引っ張り出してあれこれと考えていると、昔の情熱がよみがえってきた。いつも難しい公式や実験に明け暮れている和也にとって、完全にリフレッシュできる休暇は少ない。よい休暇になりそうな予感がした。
「ギアー」とは日本語で「欲望」という意味だ。グループ名からはヘビーなロックのイメージがあるが、シュリーが参加してから、音楽の方向性が大きく変わった。シュリーはクラシックの要素を取り入れた、ロックオペラのジャンルに近い音楽を志向していた。仰々しさというよりは、ポップスに近い親しみやすいメロディーも多く、幅広い世代に支持された。シュリーのルックスは女性を惹きつけ、デビューしたギアーが表舞台に立つのにそれほど時間はかからなかったのだ。
「日本は、朝か。」
和也は、再び英次に電話をかけようか迷った。シュリーが生きていること、音楽活動も続けているようだということ、ユステール社にフォックスの置物があったこと、伝えたいことは多いのだが、中途半端な形で話をしたくなかった。
「もしユステールさんに会えたら、もっとシュリーに関する情報が得られるかもしれない。」
明日の舞台を見て、現在のシュリーについての確信が持てる情報を得てから英次に伝えようと和也は決め、眠りについた。
翌日、和也は夕方のミュージカル公演が始まるまでの時間を、デュッセルの街を散策して過ごすことにした。
ヨーロッパの冬は昼が短く、晴れの日が少ない。この日も空は厚い雲に覆われていた。街中は路面電車やバスが発達しているせいか、東京のような車の渋滞はなく、人の歩く速度もゆったりとしているように感じた。
和也は、個性的な店構えが続くメインストリートを歩いていた。そして、一軒のCDショップに入った。高校時代、せっせとアルバイトをしては好きなアーチストのレコードを集め、当時流行りだしたレンタルレコードショップに毎日のように通ったことを思い出す。
店の中はそれほど混んではいなかった。日本のショップでは、もちろんJ‐POPや演歌などのコーナーが存在するが、ここでは日本人にとってはすべてが洋楽だ。当たり前のことだが、和也はそんなことに感動していた。
「G、G、あったぞ『Gier』だ。」
シュリーが属していたグループ、ギアーのアルバムを、和也は発表当時にLPレコードですべて買い揃えていたが、CD化されたアルバムは持っていなかった。ギアーの3枚のアルバムに混じって、二枚組みCDの少し厚手のケースが目に留まった。和也はそれを手に取った。真っ白なジャケットの真ん中にパリで見たあのフォックスの置物が写っていた。タイトルは「Fox Tail」。夕方、和也が観ようとしているミュージカルのサウンドトラックだ。ユステール社のマスコットが、ジャケットの中心に写し出されているのには、父に接触していないらしいシュリーのことを考えると違和感を覚えた。もしくは、シュリーがパリでユステール社のディスプレイに置いてあったクリスタルのフォックスを見て、ジャケットに使用することにしたのだろうか。少なくとも、これから観ようとしている舞台がフォックスに共通するものをもっているからこそ、自分の音楽使用を認めたに違いない、と和也は考えた。和也はサントラを含むすべてのギアーのCDアルバムを購入した。出張中は、MP3プレーヤーしか持って来ていないため、すぐに聴くことはできないが、日本に帰ってからの楽しみができて満足だった。
真っ赤な絨毯と黒い壁面に覆われた劇場内部には、正装の男女から日本のアキバ系のようなコスプレで身を包んだ若い男女まで、様々な客で賑わっていた。和也はミュージカルの内容を今ひとつ理解せずに来ているので、衣装が何を意味しているのかわからない。二階ロビーのミュージカルグッズの売店には、フォックスのぬいぐるみや、本、パンフレットに混じって、さきほど購入したサントラCDも並んでいた。和也はパンフレットを一部購入した。ホール内に入ると、座席は舞台に対して、半円形の急傾斜に並んでいた。どこから観てもよく見えるように配置されている。座席は、舞台に対してやや右よりのうしろ三分の一程度の通路に面した席だった。座席に座り、パンフレットを眺める。真っ白な表紙の真ん中に、かわいらしいフォックスが座っている。しかしこれは、普通の毛並みのキツネだ。上側にはタイトルが、そして下側には原作者に並び、音楽監修者として、シュリー・ユステールの名前が記されていた。和也はパラパラとパンフレットをめくった。そして、最後の方のページに顔写真入りの製作者の紹介欄を見つけた。シュリーは原作者の下段に紹介されていた。その写真は、ギアー時代のもので、二十歳ごろのシュリーが写っていた。うつむきながらキーボードを弾くシュリーの姿。それは、和也がよく雑誌で見かけたシュリーの定番の写真でもあった。
上演まで時間があったので、和也は舞台の方に向かって階段を下りてみた。舞台の真下にはオーケストラピットがあり、弦楽や金管楽器の他に、ギターやキーボードなどの電子楽器とドラムセットが置かれていた。真ん中には指揮台があり、指揮台の前の譜面台にはスコアが置かれていた。スコアには「Fox Tail」の文字とともに「music by Sully Huster」と書かれている。その文字を見つけたとき、和也は胸が高鳴った。さきほどから、音出しをしている何人かのミュージシャンたちが奏でる音楽は、すべて聴き覚えのあるフレーズばかりだったが、スコアを目にすることで、すぐそこにシュリーがいるような錯覚に陥った。パンフレットに書かれたシュリーの紹介よりも、スコアに書かれているシュリーの名前の方が、このミュージカルの音楽がシュリーによって監修されたという実感を伝えてきたのだ。親友の兄であるという意識よりも、自分に感動を与えてくれるアーチストとしてのシュリーの存在感の方が、和也にとっては大きかった。十代の時に熱中した音楽に対する郷愁を、日本ではない、当時行きたくても行くことの出来なかったあこがれの地で感じ、味わうことの出来ることを心から幸せに思った。
舞台が始まった。座席側の照明が落とされると、観客の幾人かの歓声や口笛が飛ぶ。薄いスクリーンのような垂れ幕が舞台の前面を覆い、そこには薄暗い森の中のシルエットが黒く写し出された。オーケストラピットから頭を半分出している指揮者の一振りと共に、壮大な音楽が鳴り響いた。ギアー全盛期のシュリーが作曲した代表曲、『Shadows』だ。もともとクラシックの影響が強いシュリーの音楽は、オーケストラで演奏されても違和感がなかった。むしろ曲の奥行きやスケールが大きくなり、より感動的になる。和也は、曲の最初の一撃で鳥肌がたった。ユステール社の女性が、シュリーファンにはお奨め、と言った意味をしみじみと理解した。そして、和也自身がいつしか忘れてしまっていたもの―利害も何もない、純粋に楽しむべきもの―に再度出会うことができ、魂が震えていた。舞台に現れるフォックスは、あの金色に輝くフォックスではなかった。しかし、記憶が遠くなっても忘れることのない貴重なかつての経験を、舞台上のフォックスによって何度もフラッシュバックさせてもらえた。
シュリーも同じことを思ったに違いない。『Fox Tail』のストーリーを提示されたときに、彼の心に思い描かれたのは、どこまでも続く白い雪原の上に舞い上がる、光を放つフォックスだったろう。和也は確信した。シュリーもフォックスを忘れられず、再度出会いたいと思ったのだ。彼の強い思いが、もしかしたら、英次の夢に現れる、というような現象につながったのかもしれない。和也は、フォックスというおおよそこの世に存在することすら考えられない神秘的な存在に出会ったことで、科学的に証明されず、説明し得ない現象が現実に存在することを実感し、科学の道に進んだ。そのことを今の今まで忘れていた。すべての原点は「あの時」にあり、彼にとって過去を回想する時、「あの場面」のバックミュージックには、シュリーの音楽が奏でられていた。
舞台は進行し続けた。和也は舞台上で展開するストーリーではなく、音楽を聴き続けた。英次とシュリーが、若い時に出会い、お互いにすれ違ったまま別れ、今日まで時が経過してしまったことにどんな意味があるのだろうか。今ならば理解し合えるのではないか。そんなことを漠然と考えながら、和也はシュリーの曲に浸り続けていた。
舞台はクライマックスを迎えた。ドイツ語はわからないが、フォックスが森の平和を取り戻すという筋書きのようだ。手下だったフォックスが森に災いをもたらす悪魔を欺く。フォックスは自らを犠牲にして森を守った。倒れたフォックスは、明るい光につつまれ、天上に昇っていく。そのラストシーンは、それまで暗かった場内に眩い照明と天上を現すドライアイスの煙があふれ、舞台と座席側が一体化する演出がほどこされていた。そして、ギアー時代のアルバムには収められていない曲が流れた。しかし、和也はその曲に聴き覚えがあった。
シュリーがフォックス探しの旅に同行した間、あれは確か待機所となっていた小屋で、和也はシュリーと二人きりになったことがあった。シュリーは時間をつぶすために、ノートに何か書きつけていた。和也はノートを覗き込んだが、シュリーは集中していて、まったく気づかない。フォックスを待ち続ける時間は、時に数時間に及んだ。その間、シュリーはしばしば曲の構想をノートに書き付けていたのだろう。和也は周囲を探索するため、小屋を出た。30分ほど近くの森や雪原の丘に登り、双眼鏡でフォックスを探した後、小屋に戻った。小屋の扉を開けようとすると、中から歌声が聞こえてきた。和也は扉のそばにある窓から中を見た。暖炉脇の壁に肩を押し付け、首を傾けながら左手のノートの曲を歌い続けるシュリーの姿があった。和也はレコードでもコンサートでも聴いたことのないシュリーのソロの歌声を聴いた。ギアーの曲はほとんどが英語だったが、その歌声は聞きなれない言語だった。和也はフランス語だと思った。そのままレコーディングして発表すれば必ずや売れるだろうと思わせるメロディーと歌声だった。そして何よりも歌うシュリーの姿が、男の和也も憧れるほどに格好よく美しかった。和也はしばらくの間、そのまま扉を開けずに小屋の中から聴こえる自分ひとりのためのコンサートを楽しんだ。
その曲は発表されることはなかった。シュリーはフォックス探しの旅の直後に再び失踪したからだ。おそらく、ミュージカルが始まるまで、この曲を聴いたことのある人間は自分だけだったのではないか。ミュージカルの感動的なラストシーンにふさわしく、壮大なアレンジによって、昇っていくフォックスを見上げる多くの役者の歌声に重なり合い、和也の記憶に残るシュリーの歌声が心によみがえった。観客も総立ちとなり、歓声と手拍子が劇場内に鳴り響いていた。
「シュリー、お前って本当にすごいアーチストだ・・。」
和也は、舞台の感動と懐かしさで、幕が下りたあとも座席から離れることができなかった。舞台からあふれ出した煙はしばらく消えずに霧のように座席の周りを漂っていた。
会場内の観客は立ち去っていった。和也もやっと腰を上げたとき、中央よりの座席に一人の初老の男性を発見した。和也は観客の流れに逆らって、小走りに通路階段を下り、男性の座席にかけよった。
「ユステールさん。」
和也は声をかけた。名前を呼ばれた男性は、振り返ると、目を凝らして和也を見た。
「僕です。都築英次の友人の木下和也です。」
男性は「あっ。」と小さな声を上げると、座席から立ち上がり、通路に出てきた。ユステールは以前よりもやせて小さくなったように見えた。
「カズヤ。久しぶりです。元気そうで何よりです。パリの事務所から電話はもらっていたが、まさかここで会えるとは・・。」
ユステールの目には涙が光っているように見えた。和也との再会に対する感激ではなく、息子の音楽を聴きながら様々なことを思い出していたのだろう。
「ユステールさん。本当にお久しぶりです。お会いできて本当にうれしいです。」
「あなたもすっかり大人になったのですね。」
和也はその点を忘れていた。ユステール氏はやせて年をとったといってもそれほど外見が変わったというわけではない。しかし十代だった和也はいまや四十前の中年だ。
「はは。すっかりおやじになってしまいました。」
ユステールは笑顔を見せた。
「カズヤ、もし時間があれば、このあと食事でもしませんか。話したいことが山ほどある・・。」
「もちろんです。ぜひご一緒させてください。」
ヨーロッパの夜は、一部の店を除いて夕方には閉店するのが普通だ。劇場から外に出ると、あたりの店はほとんど閉まっていた。ユステール氏はおそらく何度も劇場に足を運んでいるのだろう。近辺の地理に明るいようだった。和也を導くように早足で劇場から少し離れた建物の地下に案内した。そこはドイツに数多くあるブラウハウスで、店内にはカウンターといくつかのテーブル席があったが、カウンターにしか空きはなかった。これから話すことになるシュリーに関する話題が、それほど軽いことではないことを予想して、早めに酔って、少し気持ちをほぐしておきたい気分だった。和也もユステールもアルトビアを注文した。和也は、休暇をいいことに昼下がりにもビールを飲んでいた。やはりドイツビールはうまい。運ばれたジョッキで二人は乾杯すると、和也は一杯目を一気に飲み干した。
「今日の舞台、初めてですが、本当にすばらしかったですね。まさかシュリーの音楽がミュージカル音楽になるなんて予想もしなかったです。」
ユステールはシュリーという名を聞いて、悲しげな表情を浮かべた。
「シュリーは今どうしているのでしょう。」
ユステール氏は、グラスを傾けてゆっくりとビールを飲んだ。以前日本で会った時は、飛ぶ鳥を落とす勢いでユステールブランドが世界に広がっていく時代だった。ユステール氏は多くの人々に囲まれ自信に満ち溢れていた。しかし今は、一人息子に会うことも叶わず、一人孤独に人生の終幕にさしかかっている気の毒な老人のように見える。
「息子は、あなた方と別れた後、アメリカに渡ったのです。」
ユステールは、パリの事務所の女性が言っていたのと同じことを最初に語った。
「おそらく名を変えて、音楽活動を続けていたのだと思います。私はもちろん必死になって探しました。アメリカの主要都市には、わが社の支店があります。本社から配属になった社員たちにも協力を要請し、息子の情報を得ました。でも、彼は部下が訪ねて行くと会うことを拒否し、すぐに居住場所を変えてしまったのです。私は無理やり接触することやめ、その後は消息だけ確認して過ごしました。元気であれば十分だと思うようにしたのです。ところが、十年ほど前からその消息すらわからなくなり、私は不安と悲しみの日々を過ごしていました。そして突然、五年前、彼はパリに帰ってきた。あなたが来てくれた事務所のショーウィンドウの前で、二十年前と変わらないあの子が立っているのを、秘書が見つけたのです。」
「僕もあのクリスタルのフォックスを見つけて、すぐにショーウィンドウに引き寄せられました。」
ユステールは、シュリーに似た細長い指を組み合わせ、カウンターに肘をかけた。
「私は・・社長を退任するとき、あの子に帰ってきてほしかった。できれば、私の後任となってほしかった。」
和也は大きくうなずいた。
「そうお思いになるのは当然のことです。」
「しかし、彼は私に会うことすら拒否する。いつどこでこんなにすれ違うようになってしまったのか・・。」
ユステールの孤独な思いと、若き日に愛した女性との間に生まれた、たった一人の息子であるシュリーに対する愛情の深さが伝わってきた。そして、その孤独を周りの誰にも打ち明けられずに過ごしてきたのだろう。シュリーが失踪する直前に行動を共にしていた和也が話し相手だったからこそ、ユステールは隠すことなく、自分自身の弱さをさらけだすことができたのかもしれない。
「ユステールさん。僕は今日の舞台を見て、というよりもあの舞台のすばらしい音楽を聴いて、シュリーの今の気持ちが伝わってくるような気がしたのです。使われていた曲はすべて彼の原点であるギアー時代のものばかりです。アメリカで音楽活動をし続けていても、彼はフォックスに出会った時を忘れていない。というよりもその時を軸にして今も生きている。それは、シュリーだけではなく、日本にいる英次も、そして僕やフォックスに関わったすべての人間たちがそうなのです。」
和也は英次があの夢を見て以来、自分たちの人生が再びフォックスに向かって動き出していることを強く確信した。過去に消えなかった残り火が、冷め切ったかに見えたマグマの熱源となって再び燃えだした。そして否応なく自分たちを動かそうとしている。それは、今回はやり残しは許されない、というような感覚を伴った。だからこそ、今ここでユステールに出会い、話しをしている間に、すべて話すべきことを正しく話したい、と思った。
「抽象的な言い方で理解していただけるかどうかわかりませんが。」
和也は心にあふれ出る言葉を確かめながらも力強くユステールに語りかけた。
「ユステールさんとシュリーがこういう状態であるのも、英次がシュリーやフォックスから意図して離れようとしても再び向き合わざるをえないのも、すべて必要があってそうなっている、と僕は思うのです。」
ユステールは和也の目をまっすぐ見つめた。和也の言葉を受け止め、その真意を理解しようとしていた。
「以前のフォックス探しの旅は、フォックスの存在を確認し、シュリーが負傷する形で終わりました。」
ユステールはうなずいた。
「しかしその後、誰もフォックスに会っていないのです。英次は何度か調査に行きましたが、フォックスの気配すら感じることができなかった。そして、フォックス探しを中断してしまったのです。」
和也はビールのおかわりを頼んだ。
「あれは、幻だったのか。共同幻想だったとでもいうのか。年月が経つにつれ、僕の心の中でも風化しはじめていた。英次も僕も毎日を生きるのに精一杯で、いつしかフォックスの存在が必要なくなっていた。しかしそれは表面的なものであって、フォックスへの思いは、根源的なところに押し込まれて消えることはなかったのです。最近、英次はシュリーの夢を見ました。今まで一度も見たことのないシュリーの夢を。そして言われたそうです。『なぜフォックスを追うのをやめた?』と。」
ユステールは目を閉じた。英次が見たシュリーの夢を想像したのだろうか。
「英次は再びフォックスを探す決心をしました。彼にとってフォックスと向き合うことは、シュリーを思い出すことになります。彼は、あの時、兄であるシュリーに対して複雑な思いを刻み込まれてしまった。フォックスを探しながら、何度も彼を思い出すことでしょう。そして実際にはそこにいないシュリーという存在と戦い続けながらフォックスを探すことになってしまう。」
英次に辛い思いを抱かせている元凶は自分である、という負い目からか、ユステールは眉間にしわを寄せ、険しい表情を浮かべた。
「僕は、本音を言うと、英次にシュリーと会ってほしいのです。」
和也は、自分でも驚いた。そんなことは今の今まで思っていない言葉だったのだ。
「フォックスは、英次だけでは現れない、シュリーがいなければ現れないような気さえするのです。」
ユステールは再び和也を見つめた。
「これは、これはよくわからないのですが、僕の直感です。」
和也の直感―これは今までも多くの場合に物事をダイナミックに動かすきっかけとなってきた。科学者が直感というとき、それは深い経験が裏付けているとき以外にはない。和也はフォックスとは、ある条件が揃ったときに現れる特殊な存在なのではないか、と心の中で仮説を立てていた。ユステールは、和也の心に同調するかのようにつぶやいた。
「フォックスとは、どういう存在なのでしょう。」
ユステールの横顔が、一瞬シュリーに見えた。
「私は、フォックスを写真で見たことしかないのですが、心に強い印象を刻みつける、そして想像力をかきたてるのです。この二十年間、私が手がけた仕事の発想の源には常にフォックスの存在がありました。一度見聞きすると、それを確かめたくなる、そして実際に見たならばもっと強く印象に残るのでしょうね。息子もきっと忘れられずに過ごしている。フォックスとそしてあなた方のことを。」
ユステールは内ポケットを探った。
「カズヤ、これを。」
それは一枚のメモだった。住所と電話番号が書かれている。
「息子が現在いると情報があった場所です。三日ほど前、アメリカの支店から連絡がありました。私が接触すれば、また彼は拒否するでしょう。しかし、あなた方ならば違うかもしれない。必要ならば、連絡をとってください。」
ユステールの言葉は、懇願しているように聞こえた。間接的でもいい、シュリーが元気であることを知らせてほしいと言っているように聞こえた。和也はそれを受け取り、静かにだまってうなずいた。
「英次か。日本は朝か。」
ホテルに戻ってから、夜中を過ぎて、和也は英次に電話をかけた。
「シュリーは生きていた。ユステールさんにも会ったよ。」
一瞬、電話の向こうでとまどいの空気が流れた。
「和也、今どこにいるんだ。」
「ドイツのデュッセルドルフだ。出張でパリに来ていたんだが、そこでシュリーの情報をつかんで、急遽こちらに来た。実は、さきほどまでユステールさんと一緒だった。シュリーの居場所もわかったぞ。」
英次は一瞬意識が遠のいた。
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