第4話 シュリーの再来日
シュリーは、スティーブに呼ばれ、S&F社ビル最上階の会議室に現れた。
「シュリー、来てくれてありがとう。実は、提案したいことがあってね。」
昨年の秋に、日本進出の話が決まってから、シュリーはコンサートホールで行う演目や、音楽の歴史を伝え、さまざまなジャンルの音楽を楽しめるアトラクション施設の企画に取り組んでいた。しかし一方で、過去に起こった出来事へのこだわりは消えることなく、日本行きを承諾しながらも、揺れ続ける気持ちの変化に眠れなくなることもあった。今まで強く押さえ込んでいた感情が外側に出てきたことで、不安定にもなったが、今までにない明るい笑顔を見せることもあり、スティーブや周りの人間たちには日本行きの話がシュリーに良い影響を与えていると見えた。
「『Fox Tail』を日本で公演したい。昨秋からのブロードウェイの上演も順調だし、このミュージカルは日本人にも受け入れられると思う。日本の施設建設が始まる前に、わが社がスポンサーとなって、東京で短期公演を行うことで、企業のイメージアップも図っておきたいからね。どうだろう、賛成してくれるかい。」
シュリーは、思いがけない申し出に驚いたが、もともと音楽監修者として楽曲の提供を行っている立場であり、ミュージカルの上演権を持っているわけではない。反対することはできない。
「日本の有名な劇団からの申し出があったが、基本的にはオリジナルのキャストと日本のキャストとを組み合わせて昼夜で上演するつもりだ。」
「いつからでしょう?」
「ちょうど、今年の、4月下旬から二ヶ月間、東京劇場を押さえることができた。開発計画は9月からの予定だから、ちょうどいい。シュリー、4月の初日公演では舞台挨拶も行うから、その時期から日本へ行ってほしい。いいだろう?」
スティーブの決断は常に早かった。時に周囲の者たちもついていけなくなることがあった。しかしその行動力でS&F社は米国IT業界の1、2位を争う地位を獲得してきた。
「舞台挨拶?」
スティーブは、シュリーがアメリカにやってきてからというもの、多くの優れた仕事をしているにも関わらず、決して自分の素性を明かそうとしないことに歯がゆさを感じていた。そのため、『Fox Tail』では、元ロックグループ「ギアー」のシュリーとして名前を連ねることを強く奨めた。シュリーは抵抗したが、使われる曲はすべてギアー時代のものである限り、シュリーの名前を出さないわけにはいかない。巷にはシュリーが自分自身の名を伏せて関わった音楽が多く流れているが、人々はミュージカルのヒットによって、久しぶりにギアーのシュリーが出てきたというように捉えていた。そろそろ、実名で仕事をし、シュリーの名を世に広める大きな仕事をしてほしい、とスティーブは思っていたのだ。なぜそんなに孤高をきどるのだ、とよく皮肉を言うこともあった。
「日本人のキャストが舞台で話をし、製作側として君も紹介をする。パンフレットには、君の写真と経歴も入れたい。日本にも君のファンは多いはずだろう?」
「もう忘れ去られていますよ。」
シュリーは自嘲気味に言った。
「なら、なおさら好都合じゃないか。こちらでは活動しにくい分、日本では思いきり君のアイディアを使って実名で仕事ができる。必ず成功するさ。」
スティーブの前向きで楽天的な性格と対照的で、シュリーは常に日陰に入ろうとした。折に触れ、スティーブはシュリーに自分の考え方や生き方を披露し、君にももっと成功するだけの才能と実績があると言い続けた。
強く自分を信じてくれる人物が近くにいたからだろうか、アメリカに来た当時の生きる気力を失った状態からは徐々に抜け出し、今はバランスを取って仕事を順調に行っている。よく考えてみれば、日本で起こったことは、遠い昔のことだ。自分と関わった人々も、もう自分のことを忘れているだろう。シュリーはスティーブの提案を受け入れ、日本でのプロジェクトを成功させることだけに神経を集中させようと考えた。
「ところで、新しいプロジェクトの件だが、日本のどこで行うのか教えてくれないか。」
シュリーは、ミュージカルの話題が一段落したところでスティーブに尋ねた。
「うん、それを話していなかったね。おおまかな地域は決まった。ホッカイドウだよ。日本の一番北の島だね。君、知っているかい?」
シュリーは耳を疑った。
「ホッカイドウ?」
「そうだよ。日本の中でも最も広い地域だ。開発地はまだ絞り込んでいないが、気候、風土、交通、食文化についてはすばらしいものがあるね。自然も雄大だ。わが国アメリカや周辺のロシア、中国、韓国からも渡航しやすい場所にある。」
シュリーの心の中にはっきりとあの声が聞こえた。真っ白な雪原に首を高く伸ばして美しく声を発するフォックスの姿が浮かび上がる。同時にフォックスの光に包まれた瞬間が思い起こされた。若く鋭く自爆的な心理状態だったシュリーは、フォックスを前にして、肉親に対する恨みや自分自身の存在を否定する負の感情に満たされていた。それらの感情がフォックスの光に照らし出され、自分ではコントロールがつかない激情がほとばしりかけた時、まるで何かに吸い取られるように薄れていくのを感じた。そしてすべてを光にゆだねてしまいたいと思った瞬間に、あの銃声が聞こえた。シュリーは、咄嗟にフォックスの前に身を投げ出した。罪障が浄化するというようなことが本当にあるのであれば、まさにシュリーはあの瞬間、フォックスの光によって魂が軽くなり生まれ変わるような感覚に包まれた。
この二十年間、こんなにも実感を伴って当時のことを思い出したことがあっただろうか。
「君はホッカイドウに行ったことがあるのかい。」
シュリーは光の中から現実へ呼び戻された。
「一度、サッポロへ行ったことがある。」
「そうか。サッポロは人口も多く、都市の機能をすべて備えている街のようだね。サッポロも候補地として考えたが、今回はなるべく都市化されていない、自然の多い地域で、開発によって多くの恩恵を受ける地域を選びたいと思っている。それを実績にして、他の地域にもプロジェクトを拡大していくつもりだ。」
札幌―80年代半ば、シュリーが所属していた「ギアー」のワールドツアー最終公演が日本で行われた。そのファイナルがまさに札幌だったのだ。しかしシュリーは日本に到着した翌日、行方をくらませた。シュリーはグループの中心的存在だったため、日本公演自体のキャンセルが検討されたが、最終的にキーボードの代役を立て、シュリー抜きでコンサートを行うことを決定した。その決定にはシュリーの父、ユステールの要望が影響を与えた。
あの時なぜコンサートを放棄したのか、シュリー自身も日本に到着してからの自分の行動についてよく覚えていない。気がついた時には北へ向かう船に乗り、英次たちとともにいた。そして札幌の街に到着し、「ギアー」のコンサートを観に行こうという和也の誘いに乗った。シュリーは和也に渡されたチケットの座席ではなく、まっすぐにステージに向かった。失踪中のシュリーが現れたことで会場は騒然となり、シュリーが参加した日本最後のこの公演は翌日の新聞にも大きく取り上げられるほど話題になった。
記憶の断片が脈絡もなくよみがえる。
一つだけはっきりしているのは、母国フランスを離れ、アメリカでは音楽業界の表舞台には決して現れずに身を潜めながら過ごしてきた長い年月の入口に、日本という存在があったということだ。
自ら封印し二度と思い出すこともないと思われた記憶は、時間とともに見えない作用によって癒され、シュリーの中で静かに熟成されていた。そして醸し出される芳しい香りは、心の目を閉じてもどこからともなく漂い、北の大地に舞うフォックスと、日本で出会った人々への思いを強めた。そんな彼の潜在下の思いが願いに変わり、再び人々を結びつけることになったのかもしれない。
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