第3話 桜井少年と英次

「あー!受験当日まであと一週間かああ。」

 桜井大樹は、両腕をうしろに伸ばして、椅子を傾けながら、やりきれないといった声をあげた。

「桜井くん、頑張れよ。滑り止めだからって、甘くみるなよ。」

 英次はすっかり塾の先生が板についてきた。目的を持って勉強に打ち込む子どもたちを教える手ごたえを、最近は感じるようにさえなっていた。

「英次先生も芦川先生も、なんであんな難しい学校合格できたわけ?」

 桜井大樹は英次の後輩となるべく、地元の都立上位校を受験する。合格して「フォックス研究会」を復活させるのが彼の目標なのだ。しかし、現状では偏差値的にも内申的にもかなり厳しい状況に置かれている。

「最後まであきらめないことだな。僕の場合、君と同じように模試では合格圏の判定なんか一度も出なかったよ。でも志望校は下げなかった。友達と約束していたからね。必ず合格して、『フォックス』を探しに行くことをね。」

 フォックスと聞いて、大樹は目を輝かせた。

「僕も絶対合格して、フォックスを探しに行く!英次先生絶対連れて行ってよね。」

「もちろんさ。だから合格するために、この数学の問題をもう一度考えてごらん。」

「あー。」

 現実に返って、大樹は頭をかかえた。

 芦川の誘いで英次は塾の講師となり、3ヶ月が過ぎようとしていた。フォックスに夢中になっていた時期と同じ年頃の生徒たちと触れ合うことで、英次は素直にフォックスに向き合えるようになっていった。学生時代にまとめたフォックスに関する資料を読み直し、新たな情報を求めて、調査を再開した。以前と違い、現在はインターネットによる情報収集も可能となり、学生時代には見落としていたいくつかの資料も入手することができた。


「NPO法人?」

「そうだ。フォックスの棲息地について調査をし、保護を求めていくなら、組織化した方が進めやすいと思わないか。」

 授業が終了し、質問や自習の生徒が帰宅したあと、芦川が英次に切り出した。

「サークル活動でやっていた大学時代はフォックス探しも趣味の域でしかなかったが、せっかくこれからフォックス調査を再開しようというのだから、なんらか社会的使命のようなものを持ってもいいんじゃないか。もともと、フォックスの棲息域を禁猟区にすべきだという研究会での合意もあったじゃないか。」

 「禁猟」という言葉は、英次にとって重い響きだった。フォックスをかばって、流れ弾に当たった時、シュリーは楽器を弾く利き腕を負傷したのだ。

「希少生物保護という目的でNPOを立ち上げて、公式に活動をすれば、フォックスに対する理解や目撃情報もつかみやすくなると思う。立ち上げには中心となるメンバーが必要だから、もちろん俺も協力するよ。先週、和也と電話で話したんだが、あいつも賛成していた。少なくとも、以前の調査で存在は確認されているのだから、認可はおりやすいと思うんだ。」

 高校時代までは、ただ幻の存在に対するあこがれだけで行動し続けていた。大学での研究では、存在を確認するという大目的を遂げてしまったせいか、燃え尽きたように情熱が戻らず、惰性で何度か生息地に出かけてみたものの、一度もフォックスに遭遇することはなかった。さらに、フォックスを追いかけ続けることで、シュリーを思い出し、その度に複雑な思いにかられ続けた。シュリーに対する割り切れない感情は、フォックスから徐々に遠ざかる原因になっていた。

 フォックス保護を目的として活動するためには、再度存在を確認し、その数が希少であることや棲息域の状況確認が必要だった。英次は、受験が一段落する3月上旬に北海道へ行くことを計画していた。

 三日後、芦川が私塾協同組合の会合で不在となった。英次は、留守を預かることになり、午後一時過ぎに出勤していた。塾内の清掃をし、何軒かの塾生の家庭に電話がけを終えた頃には、午後三時を回っていた。

「ごめんください。」

 来客の声がした。英次は、立ち上がると、カウンター越しに来客を迎えた。入り口に立っていたのは、小柄な中年の男性だった。

「千葉県の広川学園と申します。」

 塾には、様々な学校の広報担当が訪ねて来る。塾生に受験してもらえるように宣伝にやってくるのだ。いつも学校関係者が来ると、芦川は丁重に迎え、話を熱心に聞いているのを英次は見ていた。ほとんどの学校が都内の私学だったが、たまに遠方の学校もやってくる。学校の生き残りをかけての競争が激しいことは聞いていたが、最近の先生たちはこんな営業回りまでするのか、と最初英次は驚いた。

 英次は、その窪田という広報担当の教員を、カウンターの隣にあるローテーブルに案内し、お茶を入れるために、一旦奥の給湯室に向かった。

 学校の広報担当の話を直接聞くのは初めてだったこともあり、英次は窪田の話に興味深く耳を傾けた。武蔵野の地域から千葉県の学校を受験する例はほとんどないが、広川学園には寮の設備があるので、ぜひ生徒に見学を勧めてほしい、と窪田は言った。窪田自身もその学園で寮生活を送り、教員としてすでに25年ほど勤めているという。英次が感心したのは、都内では考えられない学校の環境だった。東京ドームが10個も入ってしまう広大な自然環境を持つのだという。

「すごい広さですね。自然も豊かなようですね。」

「ええ。たぬきやリスなどの野生動物もいるんですよ。」

「へええ、すごいなあ。こんなに恵まれたキャンパスを持つ高校も少ないでしょうね。」

 英次は窪田の話にすっかり引き込まれ、今度ぜひ説明会に参加して、塾生に紹介したい、と約束をした。

「英次先生いるー?昨日ネットにさー」

 桜井大樹が入り口から勢いよく入ってきた。

「フォックスの目撃情報らしきものが、」

 大樹は来客に気づいた。

「千葉県の広川学園の先生だよ。ご挨拶して。」

 英次は窪田を紹介した。

「こんちはー。」

 窪田は、ニコニコと人の良さそうな笑顔を向けて、大樹に会釈をした。

「桜井くん、詳しくはあとで・・。」

「はーい。」

 桜井少年は、そのまま自習室に入っていった。

「すみません。中三の受験生なんですよ。滑り止めの受験が、三日後にせまっていまして。」

「大変ですね。追い込みですか。」

「ええ。ぎりぎりのところであきらめずにやり切れるかどうかが、受験では大切ですよね。」

「本当にそのとおりです。でもあの生徒さんは目が輝いていて、受験生活を楽しんでいるように見えますね。」

「まさにそうかもしれません。先ほど彼がちょっと言いかけていた『フォックス』に夢中なんですよ。受験の目的がはっきりしているので、毎回楽しそうに塾に通ってきていますね。」

「『フォックス』とはキツネのことですか?」

 窪田は聞き返した。

「ええ。私が彼くらいの年に追いかけていた、幻のキツネのことです。」

 窪田は英次の話に関心を示した。

「私たち、といっても高校の研究会レベルでの活動でしたが、その幻のキツネを『Golden Brush Fox』と名付けましてね、北海道まで探しに行きました。全身の毛並みは真っ白で、耳や尾、手足の先だけが金色で、全身が蛍のように発光するキツネです。幻ですから、ほとんど目撃情報がありませんでした。UFOやネッシーと同じように。それを『いる』と信じて探し続けたのです。私が高校二年生の冬のことでしたが、幻といわれていたそのフォックスに、北海道のある場所で出会うことができ、写真撮影に成功したのです。」

 窪田はその話を時折うなずきながら聞いていた。そして最後まで聞き終わると、思い出したように両手をたたいた。

「都築先生、『光狐の伝説』をご存知ですか。」

 先日の和也の話を思い出した。

「去年のことですが、友人が光狐に関する雑誌記事を持ってきてくれました。」

「そうでしたか。実は私は奈良県出身なのですが、やはり今のお話を聞いて、昔聞いた『光狐』の話を思い出しました。」

「ぜひ、詳しくお聞かせください。」

「確か、十津川か天川あたりだったような気がするな・・。」

 窪田は、額に手を当てて記憶をたどっていた。

「私は理科の教員をしているのですが、幼い頃に育った紀伊半島の自然にはずいぶんと影響を受けましてね。熊野は何度も歩いているのですよ。その時に今申し上げた『全身が蛍のように発光する光狐』の話を聞いたことがあるのです。」

 窪田は、広川学園の宣伝をするときもよどみなく話をし、英次を引き込んでいたが、光狐の話については、記憶をたどりながらも、さらに力強く語った。

「あれは、私が大学生の時ですから、七十年代半ばのことです。私は当時大学の研究室で、紀伊半島の植生について研究をしていました。今でこそ世界遺産になってしまった熊野には大勢の観光客がやってきますが、当時は、まだまだ修験者のための霊場として、人を寄せ付けない大自然だけが横たわっていました。私は南方熊楠先生にあこがれていたこともあって、紀伊半島のあちこちを訪ねまわりました。時には野宿をしながら、土地の人たちとふれあって、いろいろと教えていただきましたねえ。『光狐』の話は、熊野の中心に位置している十津川や天川に伝わっている昔からの伝説でした。とても興味深かったので、覚えています。」

 窪田は、英次が再び淹れてくれたお茶を飲みながら続けた。

「歴史上で南北朝時代というのをご存知ですか。」

「はあ。私も理系なので詳しくはよく知りませんけど、確か後醍醐天皇とか足利尊氏の時代ですよね。」

「そうです、そうです。私も歴史はあまり強くありませんが・・。熊野というのは、昔から皇族に関わるものも含めて、歴史的事件の舞台になり、熊野出身の人物が歴史的に大きな役割を果たしていることがあるようなのです。南北朝時代というのは鎌倉幕府が滅び、建武の新政を行った後醍醐天皇が武士たちの反発を得て、京都とは別に朝廷を立てたことに始まる歴史的事件です。」

「あ、それって芦川先生の授業で聞いたことある。」

 いつの間にか自習室から出てきた桜井少年が、窪田の斜め後ろに、職員室の椅子を移動し座っていた。窪田はまたニコニコと大樹に笑いかけた。

「朝廷が二つになって、南北朝時代といわれる時代が半世紀続きましたね。」

「足利義満が南北朝の合一を果たすんだよね。1392年に。」

「そうです。正解。」

 窪田の気さくな人柄と大樹の物怖じしない性格がかみあって、旧知の仲のようにやり取りをしている様子に、英次は思わず笑みをこぼした。

「南朝は、さきほどの十津川や天川に拠点をもって、その土地の人々が支えていたそうです。そこに楠木正成といった悪党といわれる人物たちが絡んで活躍する、そんな時代でした。ところで、天皇を天皇たらしめている大切なものは何か知っていますか。」

 窪田は大樹に質問をした。

「天皇は日本国民の象徴・・というのは、憲法のところで習ったけど、天皇が天皇であるために大切なもの、ということ?」

「ええ、そうです。」

「なんだろー。わかんないなあ。」

 英次も考えたが思いつかなかった。それよりも、光狐と何の関係があるのだろうかとそちらの方が気になった。

「『三種の神器』って聞いたことあるかな。」

「ああ、なんか聞いたことある。歴史の授業で最初の頃に。」

「鏡・剣・玉のことですよね。」

 英次が口を挟んだ。

「都築先生、正解。」

 窪田は英次の方に向き直って、まじめな顔で言った。

「歴代の天皇が天皇の象徴として引き継いできたものです。後醍醐天皇は吉野に拠点を移したときに、三種の神器を持っていったのです。正統な天皇としての大きな根拠になるわけですね。もちろん今は宮内庁の管轄ですが、誰も見ることのできない神聖なものとして扱われているそうですよ。」

「へえー。そうなんだ。」

 大樹もすっかり窪田の話に引き込まれていた。塾の受付カウンターは、歴史の授業を行う即席の教室になった。

「それ以後、南朝北朝の間で三種の神器をめぐっての攻防というものがありました。最後には、南朝側が北朝側に三種の神器を渡して、南北朝の合一が行われたと言われています。」

「それと光狐は関係あるのですか。」

 待ちきれなくなった英次が再び口を挟んだ。

「前置きが長くなりましたね。光狐の伝説は、南朝の伝説として地元では現在まで伝わっているのです。南朝は一時期優勢なこともあったようですが、吉野から熊野の奥に皇族が南下するなど全体として不遇でした。そのような時に光り輝くキツネが現れて南朝方は大いに勇気付けられたというのです。皇族は光狐を吉兆と捉えたのです。土地の人々も、光狐が現れると、お祝いをしたそうです。それが現在もお祭りとして行われているそうです。」

「つまり、光狐も天皇の権威を示す、三種の神器のような働きをしたということですか。」

「南朝方の天皇は、光狐の存在を北朝方にもアピールしたようですね。もちろん本物の三種の神器を持っているという強みもあったわけですが、そこに光り輝くキツネが現れたことで、人々は南朝の正統性を信じるようになった。日本では昔からキツネは神の化身としても信仰されていますから、特別なキツネが現れることで支持率が高くなったかもしれませんね。」

「すげえ。フォックスってそんな昔からいたんだ。でも、今、目撃されているのは北海道で、それは紀伊半島の話でしょ。ずいぶんと離れているよなー。」

 桜井少年は地理用の地図を持ち出して、紀伊半島のページを眺めながら話す。

「確かに。光狐の身体が白いかどうかもわかりません。でも、神話や伝説というのは、各地に共通点があって、意外な場所同士が結びつくこともあるでしょう。全身から光を放つキツネ、なんてそういませんからね。」

 和也が「フォックスについてまだまだ調べ切れていないことが多い」と言ったことを思い出した。

「窪田先生、今の話についてもっと詳しく知りたいのですが、改めて教えていただけないでしょうか。」

「もちろんですよ。受験が一段落したら、私どもの学校にいらっしゃいませんか。宿泊施設もありますし、ゆっくりお話できるかと思います。その前に、昔の資料などを引っ張り出して、もっと詳細を確認しておきます。」

 すでに夕方の5時近くになっていた。そろそろ小学生たちがやってきて、英次の授業も始まる。窪田は長居をわびて、帰って行った。

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