参-10
カイナとの修行を終え帰路についたが、到着したのは自宅ではなく一条寺という表札が飾られた一軒家。意識的に行こうと思っていたわけではないのに、気づけば足が向いていた。
インターホンの四角いスイッチを押すと、ピンポン、と高いチャイムが鳴る。それから少しの間があって、そして誰も出てこなかった。
───……って、戻ってるわけねぇよな……。
わかっていたことだが、それでも、このチャイムを聞いた小太郎が気だるそうに玄関から出てきてくれたなら、どんなによかっただろう。
自らの愚行と、わかりきっていたはずの結果に肩を落としながら瓏衣はその場を立ち去ろうと踵を返す。
すると、
「あら、瓏衣くん?」
優しい声に呼び止められ、瓏衣は思わず足を止め、振り返った。
そうしている間にこちらへ駆けてきたらしく、振り向けばもうすぐ目の前に嬉しそうに微笑む女性の姿があった。
「やっぱり瓏衣くんね。うふふ。久しぶりに会えて嬉しいわぁ」
柔和な笑顔で笑う、推定四十代ほどのこの女性は、小太郎の母の一条寺桜である。背は瓏衣より少し低く、小太郎と似た、しかし彼よりも明るい色合いの赤髪をバレッタで纏めており、質素なシャツに薄手のカーディガンを重ねたパンツ姿だ。
「ご無沙汰しています……。おばさん……」
軽く頭を下げて挨拶をする。そして、彼女の腕に手提げカバンと買い物袋が二つもぶら下がっていることに気づいた。
「今日はお仕事はお休みですか?」
「ええ。あの子がいつお腹をすかせて帰って来てもいいように、いっぱいご飯作っておかなきゃって思ってお買い物してきたの」
ちょっと買いすぎちゃったかしら、と桜が少し恥ずかしそうにまた笑ったが、瓏衣はわずかに顔を伏せる。
「戻っていないんですね……。あいつは……」
「って言っても昨日からなのだけどね。あ、そうだ瓏衣くん、せっかくだしあがっていかない?ついでにお菓子も買ってきちゃったの! まだ午前中だけどお茶しましょ!」
「へっ。あ、いや……。でも……」
「いいからいいから!」
後ろから肩を押され、半ば押し込まれるように瓏衣は一条寺家の玄関に足を踏み入れた。桜はそのまま瓏衣をリビングに通すと、買い物袋の中身を片付けながら飲み物の準備を始める。
その間にもやっぱり帰りますと言う隙を伺っていた瓏衣だったが、コーヒー好きだったわよね、と言いながら用意された二つのカップに即席コーヒーの粉末が放り込まれたのを見て、瓏衣は、……はい、と短い返事をしながら観念したようにテーブルに座りこんだのだった。
とぽとぽとカップにお湯が注がれ、かすかにコーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。
「瓏衣くんも千鶴ちゃんも、最近は全然遊びに来てくれないからすごく寂しかったわ」
「あはは……。すいません……」
目の前にクッキーなどが盛られた皿と、コーヒーが置かれ、向かいの席に桜が腰掛ける。
言われてみれば、中学や高校のときにはしょっちゅう三人のうちの誰かの家にあがっては宿題を広げて頭も首をひねったものだったが、大学にあがった今は特に理由はないが誰かの家に上がり込むことは減っていた。
「知ってるだろうけど、あの子結構やんちゃだったから、昔もこんなふうにウチに帰って来ない日があったわ。酷い時は一週間帰らないこともあった……」
やっと帰ってきたかと思えば、体中傷だらけで、手当しようとしても自室に引きこもったりまたすぐに出て行って逃げたりして、当時は満足に口も聞いてくれなかった。
カップを両手で持ちながらぽつぽつと語り出す桜。しかしその顔は穏やかな、子を案じ、当時を懐かしむ優しい母親の顔だった。
瓏衣は口を挟むことはせず、コーヒーを口にしながら、彼女の語りにただ静かに耳を傾ける。
「もう何年も前、あの子がまだ小さかったとき、夫が事故で亡くなったの。それから私は、その悲しみをあの子を育てることに注ぎ込んで誤魔化した」
泣いているあの子を抱きしめて、大丈夫だと小さな背をさすった。今思えば、それは自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
「すると、あの子はあの子なりに私に迷惑をかけまいと自分のことは自分でするようになっていって……。そしてあの子が中学になった年、夏の終わり頃……。手がからないからって、私ったら調子に乗っちゃったのかしらね。勤め先の同僚の男の人とお付き合いをするようになったの」
その人はたまたま彼女の境遇を小耳に挟んだらしく、なにかと良くしてくれた。息子さんを一人にするのは心苦しく、また心配だろうと、あちらから二人のところへ足を運んで、小太郎にも優しく接していたから、小太郎もまた、彼に懐いていたという。
そんな小さくも穏やかな日常はわずか二年足らずで幕を閉じる。冬のある日、悲劇が起きた。
中学の帰り道、横断歩道の向こうに彼を見かけた小太郎が声をかけた。
信号は間違いなく青だった。横断歩道を渡り、走り寄ろうとする小太郎のもとに、一台のトラックが突っ込んできたのだ。
すると、驚いて動けなかった小太郎を、彼が突き飛ばして庇った。
「トラックは信号無視で、それもかなり速度をだしていたらしいの。彼は即死だった……」
連絡を受けた桜が病院へ着くと、小太郎は放心状態で力なく座り込んでいて。けれどなにより、大事な子供が怪我一つなくそこにいてくれたことが嬉しくて。亡くなった彼に感謝しながら桜は小太郎を抱きしめた。でも彼は、その腕を振り払って飛び出していった。
「きっと私に罪悪感を感じていたんだと思うのだけど、それから私を避け始めて、だんだんあの子の帰りが遅くなっていって、しまいにはまったく帰って来なくなった。連絡しても返してくれなくて……」
毎日。毎日。今日こそは、今日こそは帰ってきてくれやしないかと、仕事が終わると急いで帰って、ご飯を作って待っていた。けれど、小太郎が家の扉を開けることはなく、一人、静けさに満ちた家にいた。
そんなことが半年ほど続いたある日のことだ。
「突然帰ってきたあの子はそれはそれはもう酷い有り様で。いつにも増して酷い怪我をして帰ってきた」
一度言葉を置き、彼女はしばし笑い続けた。
瓏衣は気まずそうに顔を背けコーヒーを啜る。それは、おそらくあの日、自分が負わせた傷だろうからだ。
「慌てて傷の手当てをしたら、あの子、そのときは逃げなくて、手当てを受けながら、憑き物が取れたように晴れやかな、それでいてすごく嬉しそうに貴方と出会ったことを話し出したの」
今でも覚えている。手当てを受けながら、小太郎はゆっくりと何があったのかを一人でに話し出して、それから何度も、泣きながら謝ったのだ。
彼が悪いわけではないのに、自分が彼を殺したと。自分が呼び止めて気づかせてしまったばかりに、巻き込んでしまったと。
そして、ろくに家に戻らずに心配をかけたことを。
「それからよ。あの子が明るいうちに、ケガをしないで帰ってきて、一緒にご飯を食べたり、話題があればその日一日なにがあったのかも楽しそうに話してくれるようになって。あなたのおかげで、小太郎は前を向いて生きてくれるようになった。感謝しているわ。ううん、感謝してもしきれないぐらい」
「そんな……、そんなこと……」
何も、大したことなんてしていない。あのときは瓏衣だって、家族を顧みない彼に勝手に腹を立てて、激怒して力いっぱい彼を殴ったに過ぎなかった。
「だから瓏衣くん、どうかあの子を見限らないであげて。千鶴ちゃんと一緒に仲良くしてあげてちょうだいね」
瓏衣の両親はとうの昔に亡くなった。伯母である柚姫が後見人となりずっと面倒を見てくれて、とても感謝しているけど、それでも本当の親というものがどういうものかは知らない。わからない。
だからこそ瓏衣は、桜の力になってやりたかった。
彼女と接すると、もうほとんど消え掛けの、遠く朧気な記憶の中に残る霞んだ母の姿が浮かぶから。
「ええ。もちろん」
深く強く、頷いた。
とそこで、瓏衣の携帯が震える。確認すると、風間からの連絡だった。
アニキを見つけました!すぐに河川敷に来てくださいっス───!
「おばさん、すいません! 急用が入ったんで失礼します!」
残ったコーヒーを飲み干していると、桜は急に表情を正す。
「小太郎が見つかったのね……。お話聞いてくれてありがとう。それから、ごめんね、瓏衣くん。あの子を、よろしくね……」
「任せてください。またボコボコにして引きずり戻してきますから!」
一割が冗談で、残りが本気。
すると桜は、ありがとうと安心したように笑った。
荷物をまとめて玄関へ走り、瓏衣は外へ飛び出す。と同時に、玄関前に黒い車が停車した。
怪訝な表情で運転席を見ると、視線に気づいたように窓が開いて、焦げ茶色の頭がひょこりと覗く。雪羅だ。
「はよ乗りぃ!」
「瓏衣くん! 小太郎くんを止めに行こう!」
後ろの後部座席から千鶴も飛び出すように顔を出す。頷いて返し、瓏衣は助手席に飛び乗った。
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