弐-9



「う…、ん…」

ㅤ不意に意識が浮上して、千鶴は少しずつ目を開けた。

ㅤ自分は確か、放課後に話があると柏田に呼び出され、教室を移動して、そうしたら昨日見たのと同じバケモノが現れて…、そして小太郎が助けに…。


「あ、小太郎くん!?」


ㅤがばりと勢いよく起き上がり、首を回すが、周囲には誰もいない。

ㅤ自分を庇ったせいで酷いケガを負ったように見えたが、大丈夫だろうか。


「それに、ここどこだろう…」


ㅤ知らない場所で一人きりという恐怖と不安に、千鶴は自身の体を抱きしめた。

ㅤ肌を撫でる風は少し湿っていてひんやりしており、少し潮の香りがする気もする。風が吹く方向を振り返ると、その根元には夕陽が沈みゆく海があった。橙色の光を反射して海全体がオレンジ色に染まっている。

ㅤ海が近いと言うことは港の倉庫跡だろうか、あまりスペースの無い空間のきわには落ちないよう柵が設けられているが、今の千鶴の心情では、それらが檻の鉄格子のように見えてくる。


「目が覚めましたか?」

「っ!」


ㅤ振り返れば、柏田がにこやかに笑っていたが、なぜだかかえって気味が悪い。

ㅤ無害なように見えるが、正気に戻っているわけがない。今は彼のすべてに恐怖を感じる。

ㅤ屈してはいけない。落ち着くのだ。


「ここはどこですか。すぐに帰してください」

「それはできません。あなたをエサに飯綱瓏衣をここへ引き寄せ、この手で殺し、───あなたを手に入れるまでは」


ㅤにこやかなまま目を細め、彼はペロリと舌なめずりをした。

ㅤ恐怖と気持ちの悪さに、身の毛がよだつ。


「なんでしたら、」


ㅤコツコツと踵を鳴らしながら柏田が迫る。千鶴は座り込んだまま後ずさるが、すぐに背中が柵にぶつかる。

ㅤ下まではざっと見積もって五メートルほどの高さがある。運動神経に覚えのない千鶴では飛び降りることは出来なかった。


「彼女が来るまでの暇つぶしとして、先にあなたを無理やり僕のものにするのも楽しそうですねぇ…」

「っ!ㅤいやっ!」


ㅤ柏田の手が伸び、千鶴の頬を撫でて顎を引き寄せる。せめてもの抵抗に、千鶴は精一杯顔を背けた。

ㅤあんなに一方的に怒って怒鳴り散らして、酷いことまで言っておいて、調子がいいかもしれない。

ㅤここに来てしまえば、命を奪われるかもしれない。

ㅤだが、それでも千鶴は願ってしまった。その名を呼んでしまった。


「瓏衣、くん……!」

「───連なる悲嘆の楔、我が手、我が刃……」

「ちっ!」


ㅤその声に気づいた柏田が動きを止め、舌打ちをする。

「我が威を以て断ち斬らん───!!!!」


ㅤ柏田は千鶴から手を放すと、トンと足元を蹴って後ずさった。


「きゃっ!?」


ㅤ直後、千鶴と柏田の間を大きな風の刃が通り過ぎていく。


「えーっと、柏田だっけ?ㅤうちのかわいい幼なじみ攫うたぁいい度胸だ。覚悟はできてるよな?」


ㅤ挑発的なその声は下から聞こえたものだった。この声は間違いない。

ㅤ千鶴の表情に光が指す。足場の際に設けてある柵に手をかけ、下を見た。柏田を睨みつけていた顔が和らぎ、千鶴に笑みを向けるその人物は、


「瓏衣くん……!」

「お待たせ、千鶴」


ㅤ紛れもない、見慣れた、しかし千鶴が待ち焦がれた人物だった。


「来ましたね、飯綱いずな瓏衣。予想よりもだいぶ早いですね。おかげで時間が省けました」

「そりゃあ一刻も早くてめえのツラに一発くらわせてやりたかったんでな。超特急で来てやったんだ。感謝しろ」

「うむ。おかげで私は中々スリリングな体験をさせてもらったが…」


ㅤ後ろにいるカイナが腕を組み、顎に手を添えて感慨深げに頷く。

ㅤ後ろからべしべしと背を叩かれて急かされながら、法定速度の際々を攻め、時折遠くに見えた赤いランプにどぎまぎしたりと、倉庫に着くまで冷汗が止まらなかったのであるが、まあ、今はさておき…。

ㅤ抜き身の刀、風断ちを肩に担いで再度柏田を睨みつける瓏衣の後ろでカイナがぼやき、隣にいる雪羅とセレンが苦笑した。

ㅤ柏田は歪んだ笑みを浮かべて、軽い動作でストンと下に降りてきた。


「さア、始めマシょう!!ㅤあナタの斬首刑ヲ!!」


ㅤ黒い影が湧き上がるようにして彼の背後から姿を現し、人の形を模倣する。


「紅蓮を纏いて、つるぎと成す───」


ㅤカイナが首に下げていたペンダントを外し、胸の高さからまっすぐ足元に落とす。硬いセメントめがけて落ちていくペンダントが次第に紅い光を纏い、水を垂らしたように一度ぽちゃんと水音を立て、セメントに吸い込まれた。すると、そこから赤い光の柱が昇る。彼はそれを右手で掴み、グッと力強く引き抜いた。

ㅤ自身の身長をゆうに超える長さのそれを、カイナは軽々と一振りする。同時に空を切りながら、それから光が消え失せる。

ㅤ露わになったのは紅い刀身に白銀の刃を持つ大剣だった。


「舞いや、氷月ひづき


ㅤ雪羅の呼びかけに応えるように、彼の左手首に巻き付いている白いブレスレットが光を帯び、きらりと瞬く。すると、ブレスレットは見る見るうちに形を崩し、三枚の白札に姿を変えた。それを手に、雪羅が構える。


「セレン、下がっていろ」

「はい。気を付けてくださいね…」


ㅤ構えるカイナに促されセレンが申し訳なさそうにしながら離れていく姿に、瓏衣が目を剥く。


「えっ!?ㅤ天使なのに戦えないの?!」

「そんなことより敵さん来るで!」


ㅤ顔を前に戻すと、柏田が腕を振る動作に合わせ、負影シェイドが大きな手を三人にめがけて降りおろしてくる。

ㅤ三人は飛び退ってかわし、うち瓏衣は一度着地し再度飛び上がって負影シェイドの頭部に斬りかかるが、腕でガードされ防がれた。


「ったく、さっきのといい…!ㅤおとなしく斬り刻まれてろっつの!!」


ㅤ駆け出し、今度は側面から肉薄するが、またも大きな腕が邪魔をする。


「瓏衣、あまり突っ込むな!ㅤ雪羅!」

「援護は任せえっ!」


ㅤカイナが瓏衣を追って走る。雪羅は手に握った白札を負影シェイドに向かって投げつけた。守護の札に似た長方形の三枚の白札は放たれた一矢のごとく負影シェイドに向かってまっすぐに飛びながら、影分身でもしたように瞬く間にその数を増やしていく。二倍にも三倍にも数を増やした白札は大きな塊となり意志あるようにうねりながら負影シェイドの大きな体を切り裂いていく。いくつもの白いそれが勢いよく吹き付けるさまはまるで吹雪のようである。

ㅤ咆哮にも聞こえるくぐもった悲鳴が響く。切り裂かれた胸を苦しげに押さえる柏田と、彼の動きに連動する負影シェイド

ㅤ柏田は奥歯を噛むと、不愉快そうに右腕を振るった。当然負影シェイドの大きな腕も動く。

ㅤカイナは迫る大きな黒い腕を避けながら駆けるが、その行く手を突如黒い影に阻まれ足を止める。


「っ!」


ㅤ二メートルほどの大きさのそれはゆらゆらと不規則に揺れたあと、負影シェイドと同じように人の形を形成するが、やはり顔は無く、不気味だ。そして、周囲にも同じような影がいくつも沸き立ち、同じように人の形をなしてカイナを囲う。


「分断する気か…!」


ㅤ不意に目の前の影が腕を振り上げた。ダメージを受ける前に、カイナが先に大剣を振って斬り裂くと、影は呆気なく霧散した。しかし間髪入れず次がくる。


「カイナ!ㅤって、こっちまで湧かんでええて!」


ㅤ援護しようと構えた雪羅の周囲を、同じ人型の影が囲う。


「あなたたちはそこで戯れていてください」

「カイナ!ㅤ雪羅!」


ㅤ一度下がり、二人の身を案じる。すると、背後に殺気を感じすぐさま振り返れば、すでに拳が迫っていた。

ㅤ瓏衣は防ごうとするが、間に合わない。


「ぐあっ!ㅤうぐっ!」


ㅤストレートに加え裏拳の追撃がついてきた。まともに受けたがその流れを使い、転がりながら間合いを取って立て直す。柏田の身体は普段から鍛錬をしている人間のそれではないはずだが、影堕ちしているせいか威力が常人の比ではない。


「それ、反則…」


ㅤ口内で鉄の味がする。切ったようだ。まるで金属バットででも殴られたように頬が熱く、ジンジンと痛い。


「瓏衣くん!!」


ㅤ上から千鶴の声が降ってくる。


───ああ、情けない。


ㅤよろよろと立ち上がり、顔を上げて、笑みを向けると、彼女の不安げな表情がわずかに和らいだ。


「おとなしくしていただければ、楽に逝かせて差し上げますよ?」

「てめえこそ、いっぺんフラれたんなら潔く引き下がれってんだよっ!!」


ㅤ柏田に視線を戻して負けじと吐き捨て、瓏衣が飛び出すと、今度は負影シェイドが体を伸ばして向かってくる。

ㅤまるでそこから生えているかのような、幽霊のように足の無いその体を斬りつけた。痛みを感じたか、柏田が少し怯み、後退る。時折降る負影シェイドの巨大な手や腕を躱し、少しでもダメージを与える。

ㅤこの戦いは、人間相手の乱闘とはわけも勝手も違う。箒や鉄パイプなら何度か使ったことがあるが、ましてや刀なんて触れたことも振り回したこともない。

ㅤ現状に関連する全てにおいて経験の浅い瓏衣では少し分が悪いかもしれないが、敵の動きを見切るぐらいは負影シェイド相手でも要領は同じだ。それに加え個人的に唯一の長所である運動神経の高さを発揮すれば、なんとかなるかもしれない。

ㅤいや、なんとかするのだ。


───勝ってみせるさ!!


ㅤわし掴んで捕らえようと言うのか、追尾するように迫りくる腕から飛び上がって逃れ、その勢いに乗って負影シェイドの左肩に刃を振り下ろす。柏田は痛むらしい左肩を押さえながら痛みに声を上げた。



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