弐-7




「───本日はこれまで。きちんと復習しておくように」


 そう言って、講師は荷物をまとめて出ていった。生徒たちも肩の力を抜いて友人たちと会話を交えながら荷物を片付け、教室を出ていく。


「やあ~っと終わった。帰ろうぜ千鶴」

「うん…」


 背伸びをして体をほぐし、荷物を片付ける小太郎の隣で、千鶴は広げた教材や筆記用具を片付けようともせず浮かない顔のまま座り込んでいた。

 今朝の瓏衣のようにすっかり沈み切っているその様子に、小太郎は隠すこともなくため息をついた。


「そんなに落ち込むならさっさと謝りゃいいだろ…」

「うん…」


 まるでうわのそらな生返事に、もう一度ため息をつく。


「こうやって瓏衣とケンカ別れしたまま、二度と口きけなくなっちまってもいいのか?」

「や、やだ! そんなの絶対いや!!!」


 勢いよく立ち上がり、小太郎に詰め寄りながら千鶴は叫んだ。


「いやなんじゃねえか…。じゃあ、どうすりゃいいかわかるよな?」


 勢いに圧倒され思わず引いた身を戻すと、諭すように問いかけてやる。


「アイツともう一度、腹割って話して来い」


 わかったらとっとと荷物片付けろと、小太郎は隣の席に座りなおして両手を後頭部で組む。


「鹿野サン! 一条寺クン! イズナくんショックが大きすぎて真っ白に燃え尽きて途中で帰っちゃったよ? 早く仲直りしとくんだゾ☆ じゃ、バイバーイ!」


 一方的に声をかけ、一方的に喋ると、昴は二人の返事も聞かずに嵐のように教室を出ていった。呆気にとられながらも小太郎は瓏衣が座っていた端の席を見やる。


「アイツ、いつの間にか消えてると思ったら帰ってたのか…」

「……」


 昴が騒がしく教室を後にし、残っている生徒は二人だけで、とても静かなものだった。

 と、そのとき、


「鹿野さん、」


 おとなしめな声が彼女を呼ぶ。二人はそろって首を動かし、声がした教室の出入り口を見やる。


「柏田君…」

「誰だアレ?」


 分からないらしい小太郎が小声で訪ねてくる。高校の時同じクラスだったと説明するが、覚えがないらしくへえ、と適当な返事を返す。


「ごめんね。もう一度だけ話を聞いてほしくて、ちょっとついてきてもらってもいいかな?」


 愛想のいい笑みを浮かべて笑う彼を小太郎は険しい目つきで軽く睨んだ。なにか裏がありそうなお決まりのセリフに言い知れぬ嫌悪感と警戒心を抱いたからだ。

 どうするのかと千鶴に目をやると、困惑した顔でもごもごと呟いていた。


「…わかりました。失礼ながら、今朝すでに一度お断りしているので、これで最後にしてください」


 かすかに険しい声色でそう言うと、柏田ははい、ごめんなさいと、やはりいけすかない笑みで笑った。


「小太郎くんごめん。先に───」

「いや、俺もついていく」


 席を立ちながら、今度ははっきり睨んでやる。隣で千鶴が驚いていたが、構わず続ける。


「安心しな。今から何を話すのかは知らねえけど、俺は離れたところにいるからよ。今俺はダチの代わりにこいつの警護を任されてんだ。それをサボったなんて言ったら、あとでボコされるんでよぉ」


 柏田はやはりにこりと笑って、


「ええ。かまいませんよ」


 いたって冷静に返してくる。それがますます小太郎のなかの嫌悪感と警戒心を煽った。




 柏田に連れられやってきたのは三階の空き教室だった。なぜ移動したのかを迷いなく問いただすと、あの部屋はこのあと使用願いが出ているんですと返ってきた。しかし、思い付きにもとれるようなそんな返しでああそうなんですかと納得するほど、小太郎が抱いた警戒心は軽いものではなかった。


「俺は外で待ってる。さっさと済ませろ。あんま遅いと強制的にこいつ引っ張って帰っからな」

「はい。ありがとうございます」


 柏田は扉をくぐり、中へ入っていった。


「ごめんね小太郎くん。すぐ戻るからね」

「ああ。なんかあったら大声出せよ。助けてやるから」

「うん」


 瓏衣のことにはもう踏ん切りがついたのか、こっちを向いて頷いた顔はもう沈んでいなかった。

 あの様子なら、もう心配ないだろう。部屋の扉の向かいの壁にもたれかかって腕を組み、目を閉じ、やれやれと小太郎はため息をつくが、その表情は安堵していた。


「ここまできてなんなのですが、もうお話しすることは無いはずです。申し訳ありませんが、私は、あなたの気持ちに応えることはできません」


 こういうときははっきりとこちらにその気が無いことを伝えなくては。

 そう思い、千鶴は少々強い口調で言い放つ。

 橙色の夕日が差す窓際まで歩いて、柏田は振り返った。


「鹿野さん、僕は、あなたを愛しています。どうしてもわかっていただけませんか?」


 おかしいと、千鶴は感じていた。今朝と様子も口調も違う。今朝の彼の様子では、友達から関係を始めてほしいと言うのが手いっぱいだったように思える。

 ましてや愛しているなど、今朝は一言も口にしなかった。

 彼が浮かべる笑みも、するすると出てくる言葉も、今の千鶴には信用できなかった。嫌な予感がする。


「ですから、私はあなたを異性として見ることはできませんし、その気も微塵もありません。彼が待っているので、失礼します」


 早く逃げなくては。焦る千鶴は部屋を出ようとする。


「彼が、あなたの恋人なのですか?」

「違います! 彼はただの信頼する友人です! 彼は関係ないでしょう!?」


 扉へ向いていた体を反転させ、声を荒げる。

 彼は相も変わらず笑みを浮かべたままで、それが気持ち悪く思えてきた。

 不意に、彼の口が動いた。


「ではやはり彼、いえ、彼女・・ですか…。あなたの意中の相手・・・・・は」

「っ!!」


 千鶴が小さく華奢な肩を揺らした。

 それを当たりととった柏田は続ける。


「幼稚園時代からの幼なじみ、どんなときでもあなたの傍にいたあの、飯綱瓏衣・・・・


 キャンディーにも似た桃色の瞳が丸くなる。しまったと思った時にはすでに遅かった。


「そうなのでしょう?あなたは幼馴染である彼女に同姓・・であるにもかかわらず思いを寄せている」

「違う…! 瓏衣くん・・は…!」


 あとに続く言葉は出なかった。

 胸の、心の奥底にある淡く温かな灯が瓏衣を友達だと言うことを拒み、それを必死に抑え込んできた理性が大事な人だと言うことを拒む。


「私は…」


 ついに言葉が出なくなり、千鶴は顔を下に向ける。


「辛いのでしょう?ㅤ苦しいのでしょう?」


 嘲笑うように言いながら、柏田が歩み寄る。


「でしたらその苦しみを、僕が救ってあげましょう」


 ゆっくり顔を上げる。視界に映った柏田の笑みは歪んでいた。


「なにをするつもりなの……」


 二ィ、と笑みを深めて、彼は言う。


「彼女、飯綱瓏衣を殺してみせましょう。そうすればあなたはその苦しみから解放され僕のものになれる!!!」


───殺す?瓏衣くんを?

───また、あの人は危険な目に遭うの?


 よみがえる、数年前の記憶。白いベットに寝かされた瓏衣は体中を白い包帯に包まれ、いくつもの点滴薬の線に囲まれて、ピクリとも動かなかった。

 千鶴が息をのみ、歯を食いしばる。


「やめて! お願い! 瓏衣くんに手を出さないで!!! お願いだから!!!」


 縋りつくように彼の胸元へ飛び込み懇願する。すると、彼の口元が歪にひび割れるように弧を描く。


「ヒヒッ、いヒヒヒひひヒひひひひッ!!!」

「ひっ!?」


 狂ったように笑い出した柏田の体が黒い靄のようなものを纏い始める。その異様な様は昨日見たものに酷似している。千鶴は慌てて彼から離れた。


「ひひッ! ひひヒひヒヒッ…」

「あ、あ…」


 燃えるような夕陽を背に、操り人形のように体のどこからかカタカタと気味の悪い音を鳴らしながら大きく肩を上下させて笑う。嗤う。人ではないその不気味な姿に恐怖し、身を震わせながら、千鶴はゆっくり後ずさる。

 それを追って、柏田が一歩、二歩と踏み出し、開けた距離を詰めてくる。不自然に首を曲げて、不気味な嘲笑を響かせながら彼の手が伸びる。


「いやああぁぁっ───!!!!」


 たまらず千鶴が悲鳴をあげた。

 外にいた小太郎が気づき、すかさず扉を蹴破らん勢いで中へ飛び込む。


「千鶴!! 大丈夫か!!?」


 言っている傍からさっそく何をしやがったのかと、小太郎は柏田を探す。すぐに見つけて睨みつけるが、様子がおかしいことに気づき目を見開く。


「こいつ、昨日のヤツと同じ…!?」


 飛び込んで来た小太郎に構うこと無く、柏田は千鶴へ手を伸ばす。

 舌打ちをしながら小太郎は二人の間へ飛び込み、千鶴を背に庇う。


「千鶴逃げ───ぐあっ!!」

「小太郎くんっ!!」


 一見では突風にも思える、目に見えないなにかが小太郎をふっ飛ばし、壁に叩き付けた。

 すさまじい音を立てて壁が崩れ落ち、砂埃が舞い上がる。


「ち、づ…!」


 口の中を切ったのか、口の端から血を流しており、頭からも血が流れ、白いバンダナが赤に染まっていた。起き上がろうとするが、衝撃が大きかったのか、体はいうことを聞かない。

 邪魔者の排除が完了し、柏田はもう一度、小太郎に駆け寄ろうとした千鶴に手を伸ばす。


「小太郎く───きゃあっ!!」





「───今の揺れは…」


 大学に到着し、二人と堕天使を、もしくは負影シェイドを探して棟の中をさまよっていた瓏衣とカイナの耳に、なにかが崩れるような音が届いた。

 瓏衣の顔が青ざめていく。


「千鶴! 小太郎!」


 一度しか聞こえなかったそれを頼りに、二人は走る。

 前方の壁際に見覚えのある鞄が二つ。その周囲に扉は正面の一つのみ。半ば確信して、瓏衣は扉の中へ飛び込んだ。


「っ!!? 小太郎!!」


 扉を開ければ、奥の壁に背を預けて頭から血を流してぐったりしている小太郎がいた。


「小太郎! しっかりしろ! 小太郎!」

「瓏衣! あれを!」


 カイナに呼ばれ、正面にある教室の中を見ると、開け放たれた窓の枠に足をかけ、飛び出そうとしている柏田の姿があった。その腕の中には千鶴が抱えられている。


「てめえ千鶴になにを…!!」


 駆け寄るがそれよりも早く黒い影を纏いながら柏田が外へ飛び出した。


「待ちやがれッ!!!」


 右手を精一杯伸ばし、影を掴もうとするが、わずかに届かない。

 勢いあまり、瓏衣の体が下へ落ちる。


「瓏衣!!」


 カイナがギリギリのところで後ろから抱え込んで引っ張り、瓏衣の体は教室の中へ引き戻された。

ㅤすぐにもう一度窓へ飛びつき外を見るが、柏田と千鶴を包んだ影は生き物のようにうねりながら、すでに手の届かない距離と高さまで飛び去っていた。橙色の空を、夕日に染まる雲ではない黒いそれが飛んでいく。

 ダン、と瓏衣の拳が悔しさを握りしめて窓の枠を殴りつけ、ズルズルとその場に崩れ落ちた。


「…ち、くしょう…!!!」


 声が震えていた。やりどころのない怒りと悔しさのこめられた拳が、今度は床を殴る。


「瓏衣…」


 かけてやれる言葉が無くて、フルフルと震えるその肩に手を伸ばすと、指先が触れる前に瓏衣は勢いよく立ち上がり、カイナの横を通り過ぎる。


「雪羅! 小太郎は…!?」


 瓏衣が小太郎の様子を見るよりも先に、後から追いついた雪羅とセレンが小太郎を横にし寝かせてやり、様子を見ていた。


「頭の出血が問題やけど、こんなこともあろうかと救急車はもう呼んどいた。安心しぃや」

「ありがとう…」


 そのとき、ぴくりと、わずかに小太郎の瞼が震えた。


「…る…、い…?」

「小太郎!」


 痛みに呻きながらもかすれた声を出して、彼がうっすらと瞼を開ける。瓏衣は傍に跪いて彼の声に耳を傾けた。


「わりぃ……、あいつを……守れなかった……」


 眉尻を下げて、消え入りそうな声で呟く。瓏衣は目に涙を溜めながらゆっくりと首を振った。


「こた…、ごめん、な…。千鶴どころか…、お前まで守れなかった…。ほんと…、ごめ、ん…!」


 頬を伝う涙が小太郎の頬に落ちた。小太郎が困ったように笑う。


「千鶴が…、さらわれた上に、…お前まで泣かせちまうとは…、俺も…情けねえヤツだな…」


 自嘲気味に言う彼の手を握り、瓏衣はそんなことは無いと首を振って否定する。


「もうしゃべるな…。安静にしてろ…。千鶴は必ず、オレが連れ戻すから…」

「ああ…、頼んだぜ…」


 しっかりと頷いてやると、彼は安心したように笑って、意識を手放した。

 小太郎の手を額に押し当て、そっと床に置いた瓏衣は腰を上げる。


「人が来る。質問攻めにあう前に逃げるぞ」

「賛成だ」

「で、敵さんはどこに逃げたんや?」


 瓏衣は柏田たちが飛び去って行った方向を思い出す。逃すまいと、去りゆく方向はしっかりと見ていた。


「西だ。ここから西で人気のない場所は…」


 カイナが顎に手を添えて考える。西には確か海に面して様々な製造所や工業所などが集中した工場地帯がある。


「確か、いくつか使われてない倉庫があったはずだ」

「よっしゃ! 追いかけるで!」

「行きましょう!」


 壁の瓦礫となぎ倒された机や椅子で散らかった教室を後にする三人に続き、瓏衣も扉へ向かうが、一度足を止めて、小太郎を一瞥する。


「必ず、連れ戻して帰るから…」


 固い決意を胸に、瓏衣は三人のあとを追いかけた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る