弐-4
「…やってしまった…」
ㅤ呟く瓏衣の手に収まる携帯の画面に表示された現在の時刻は十五時四十分過ぎ。目の前にあるのは教卓でも黒板でもなく昨日世話になった喫茶店。
ㅤ昼休み後の四コマ目の講義を終えたところで、再び謝りに千鶴のもとへ赴くもまた逃げられ、ついに心が折れた瓏衣はこれ以上立ち直れなくなる前にと五コマ目の講義をボイコットし携帯で調べた地図を頼りに足を運んできた。
ㅤ《喫茶三毛猫堂》。それがこの店の名前である。こうして明るいうちに改めて来てみると、建物は少し古いが味のある木造で、表通りから外れた裏路地にひっそりと建っていたことに気づく。
ㅤ心が折れてなおこの場所に来たのは、昨日会った彼らに一つだけ、どうしても聞きたいことがあったからだ。
ㅤ彼らにそれを聞いたとして、その返答次第では、千鶴に絶交を言い渡される結果となる可能性もある。
ㅤ立ち直れる自信は無いが、仮に本当にそうなったとしても、瓏衣は構わなかった。
ㅤその答えを聞いて、この先どうするか聞いた後で、もう一度ちゃんと謝罪に行く算段だった。たとえ家に乗り込んだにもかかわらず顔を見せてもらえなかったとしても。
ㅤガラス張りの扉をゆっくりと手前に開くと、頭上で
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
ㅤ聞こえたのは穏やかだがどこか緩い男性の声だ。目を向けるとカッターシャツにエプロン姿の男性がカウンターの中にいた。
ㅤ推定三十代ほどの、くせっ毛なのか緩いパーマがかった黒い髪にやや垂れた目じり、加えてこちらに向けられた笑みはふにゃ、という形容詞が似合うほどどこか間の抜けた緩さを感じる。胡散臭いわけではない不思議な雰囲気だ。
「お、よう来たね」
「あ、こんにちは瓏衣さん!」
ㅤ癖のある口調が陽気な挨拶をし、丁寧な挨拶が後に続く。カウンター席に座り、身を半分ほど振り向かせて手を挙げながらこちらに笑いかける焦げ茶色の髪の青年は昨夜車を出してくれた深月雪羅だ。そしてちょうど鏡合わせのように、雪羅と向かい合うようにして体をこちらに振り向かせている緑がかった黒い髪の少年がセレンだ。
ㅤおいでおいでと雪羅に手招きされ、瓏衣は彼らのもとへ歩み寄る。
「瓏衣くんゆーんやね。待っとったで。マスター、コーヒーおかわりと端の四人席借りるで」
「はい、どうぞ」
ㅤどうやらこの店の主人であるらしいエプロン姿の彼はへにゃんという形容詞が目に浮かぶような力の抜けた笑みで返す。それからなにか飲むかい?と訊ねられ、瓏衣は少し考えてホットコーヒーを注文する。それから席を移動する雪羅とセレンのあとを追い、店内の隅にいくつかある四人掛けの席の一つに腰を下ろす。
「そういやカイナは?」
ㅤいつでも待っている、などと言っていた本人の姿が見当たらず首をかしげていると、瓏衣から見て斜め左に座る雪羅が答える。
「そろそろ仕事終わるはずやから、たぶんもうすぐ来るんちゃうかな」
「そうか。昨日のことでお前らから話を聞く前に、一つ聞きたいことがあんだけど…」
「なんでしょう?」
ㅤ瓏衣の正面に座るセレンが首をかしげる。その口元は愛想よく笑っていて、肩につきそうな少し長めの髪とわりかしパッチリした目も相まってその姿は見方によっては女の子にも見える。
「あの変なバケモノの元凶は最近騒がれてた通り魔だった。ということは、これからもオレ達でもお前たちでもない誰かが、昨日のオレ達と同じような目に遭う可能性も、あるってことだよな…?」
ㅤそれが、瓏衣にとって一番重要な、ただ一つの事柄である。
ㅤできればそんなことは無いと、昨日はたまたま笑ってしまうぐらいに君たちの運が悪かっただけだと、首を振ってほしいけれど…。
ㅤ胸のうちのそんな健気な想いも虚しく、雪羅もセレンも、答えに詰まって下を向いた。
ㅤそれでもなんとか言葉にしようと雪羅が口を開きかけたその時、別の声がそれを遮る。
「残念だが、あれが人の心から生まれるものである以上、そこに人がいるならば誰であろうとも被害に遭う可能性は十分にある」
ㅤ不意に和に加わったその声に、三人は一斉に顔を上げた。そこにいたのはやはり、クセの強い白い髪が目を引く青年であった。まるで非は自分にあるというように少し申し訳なさげな表情で立っていたカイナは、不意に表情を明るくすると、だからこそと続けながら瓏衣の隣、雪羅の向かいの席に座り込む。
「私たちはその誰かを守るために戦っている。それができるのは、どうやら私たちだけのようだからな」
ㅤそう言って、ウインクを一つ。
ㅤとそこで、ソーサーに乗ったカップが一つずつ頭上から降りてくる。カイナ以外の三人の前にゆっくりと着地したカップの中には湯気と共に香ばしい香りを振りまくコーヒーが注がれている。
「お待たせしました。うちのオリジナルブレンドになります。いらっしゃいカイナくん。お仕事お疲れさま。君も飲むかい?」
「ああ、頼む。それと、なにか甘いものを四つ」
「かしこまりました」
ㅤお盆を手にカウンターへ戻っていくマスターの背を見送ると、雪羅がによによと笑いながらカイナを見る。
「なんや、奢ってくれるん?」
ㅤカイナは人当たりのいい笑みを浮かべて、
「お前の分は持たんぞ」
「けちー」
「いいよ。今日は自分で払うから。今日ここに来たのはオレの意思だし」
ㅤ瓏衣が言うと、カイナは唇を尖らせる雪羅を放置し、瓏衣の頭に手をのせて、優しく微笑みかける。
「待たせた詫びだ。ところで、今日はあの二人は一緒じゃないのか。あの様子だと、てっきりついてきて私たちを恨めし気に睨んでくるものと思っていたのだが」
ㅤ周囲を見渡しても、この四人掛けのテーブルに座る自分たちとカウンターにいるマスター以外には今のところ店の中に人の姿は無い。
ㅤセレンと雪羅もそういえばと同じように首を回す。
「言われてみれば、いらっしゃいませんね…」
「ほんまやな。ケンカでもしたん?」
ㅤ雪羅からすればそれはもちろんただの冗談だった。しかし、その言葉は、今の瓏衣には地雷である。
「うぐっ!!!」
「瓏衣さん!?」
「冗談やったのに!?」
「大丈夫か!?」
ㅤ胸を押さえながら勢いよくテーブルに突っ伏した瓏衣に、三人が慌てふためく。
「す、すまん…。ちょうど今朝、千鶴とケンカしたもんだから反応しちゃった…」
ㅤあはは…と頭を掻きながらなんとか顔を上げる瓏衣の背をカイナがさする。
「それで絶交言われてしもたか…」
「がはっっ!!!」
ㅤ吐血でもするような声を出して、瓏衣が再び胸を押さえて沈んだ。
ㅤまだ絶交を言い渡されていないが、今しがた最悪の事態を案じていたばかりだったので思わぬ地雷が発動した。
「瓏衣さんしっかり!!」
「雪羅!!」
「せやから冗談やて!!!」
ㅤセレンが励まし、カイナが瓏衣の肩に手を添えて労わりながら雪羅を批難すると彼は必死に弁解する。
「大丈夫かい?ㅤこれでも食べて、元気出してね」
ㅤ再び注文の品を届けに来たマスターの苦笑いが聞こえた。顔を上げてみると目の前に白い皿が置かれ、その上には細長いケーキが一つ盛られている。薄い生地と生地の間に生クリームとカットされた苺が挟まれていることからミルフィーユではないかと思われる。
「月替わりのケーキだよ。今月は苺のミルフィーユなんだ。召し上がれ。カイナくんたちはもう食べたことあるから別の物を持ってきたよ」
ㅤといってもうちがいつも出してるものだけど、と付け足して、マスターの男性は先にコーヒーをカイナのもとへ運び、続いて瓏衣に出されたものとは異なるケーキが乗った三つの皿を瓏衣以外の三人にそれぞれ配膳する。
「ありがとう。マスター」
「いただきます」
「おおきにな」
「今日はお客さんもいないし、ゆっくりしていってね」
ㅤお盆を脇に抱えて、マスターはカウンターへ戻っていった。そこでようやく瓏衣がテーブルに両手をついて体を持ち上げた。
「決めた」
ㅤ覇気のあるはっきりとした声と、なにかわずらわしいことが吹っ切れたような清々しくも引き締まった表情。
ㅤカイナたちが一斉に瓏衣に目を向け、続く言葉を待った。
「昨日の誘い、乗るよ。オレも戦う」
ㅤ首を回して、まっすぐにこちらを見てくる。カイナは一度コーヒーを喉に通し、カチャリとソーサーの上にカップを戻すと、顔を向けて瓏衣を見返す。
「私が言うのもなんだが、いいのか?ㅤ昨日のように、いや、昨日以上に危険な目に遭うぞ」
「構わない。あいつらを、あの人を守れるなら、そのために死んだとしても本望だ」
ㅤコーヒーとケーキの脇に肘をつき、その奥にあるものを見通そうとするようにしばし瓏衣の双眸を見つめ続ける。
ㅤ深い青色は揺るがなかった。覚悟が宿り、鋭い光を放っている。
「どないする?」
ㅤ聞かなくてもわかるだろうに、雪羅はわざわざ問いかけてくる。試すように厳しい顔つきをしていたカイナが、不意にフッと笑った。
「わかった。安心しろ、例え周りの者たちに嫌われたとしても、私たちは君を歓迎する」
「これから仲ようしよな、瓏衣」
「よろしくお願いします!ㅤ瓏衣さん!」
「ああ。よろしく、雪羅、セレン」
ㅤ斜め左からから差し出された雪羅の手を握り、握手を交わす。
ㅤ正面ではセレンは両手に拳を握り、かわいらしい丸い瞳を嬉しそうにキラキラと輝かせている。
「そうそう、今朝から妙に眠くて、なんかめっちゃ食欲があったんだけど、なんでかわかるか?」
「それはたぶん、昨日力を発動させた影響だと思います。あれは最初のうちは発動させると体力と精神に大きな負荷がかかりますから。その前にまず適合する方ばかりではないので今思えば瓏衣さんにはとても危険な賭けをさせてしまいました。本当にごめんなさい。それから改めて、助けて下さって、本当にありがとうございました」
ㅤ丁寧な動作で、セレンが頭を下げた。元来まじめな性格なのだろう。悪いことではないが、彼ほど実直な性質ではない瓏衣は、悪い気はしないがいささか背中が痒くなるような感覚を覚える。
「いーよそんなの…!ㅤオレの方こそなんとかできないのかって詰め寄ってビビらせたし…。そ、それよりアレだ。昨日のこととか、お前らが知っていることを教えてくれ」
ㅤ逃げるように目を閉じて、コーヒーを飲む瓏衣に笑って、セレンははい!と返事をする。
「昨日見たあの大きな影は、人の負の感情の化身、
ㅤ
ㅤそして負の感情が根源であるため、たとえ普段が温厚な人であっても一度影堕ちすれば、理性を失い見境なく暴れ出して他人を襲う。
ㅤしかし、
「そいつも追い詰める周りも悪いってこと?」
「いいえ。そうではなく、負の感情が強くなってしまっているところに、とある人たちにけしかけられ、焚き付けられることによって、人は影堕ちし、
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