壱-8



 ひやり。

 額に冷たいものが触れた。驚いて肩を揺らす。


「ん……、う……」

「瓏衣くん!? 瓏衣くん!」


 必死に名前を呼ぶ声があった。それに引き寄せられるように、沈んでいた意識が浮上していく。

 ゆっくりと目を開ければ、ぼやけた視界に誰かの顔が映っている。真っ暗だった視界に明かりが差し込んで、眩しさに目をすがめる。

 まだぼんやりした思考のまま、瓏衣は緩慢な動作で体を持ち上げた。

 その拍子に額からなにかが落ちる。手に取ってみると、それは湿ったタオルだった。ハッキリしない頭と目で回りを見回すと、どこかの部屋の中のようだが自室ではないことはすぐにわかった。

 あまり使われていないのか汚れの少ない白い壁に窓が二つある室内には、瓏衣が寝かされていたベッド以外の家具が見当たらない。


「瓏衣くんっ!」

「わっ」


 飛び込んでくる勢いで小さな体が抱きついてくる。覚えのある香りと徐々に晴れてくる視界の端に映る栗毛。そしてその声は紛れもなく千鶴のものだ。


「良かったぁ……! 瓏衣くん生きてた……! 生きてたぁ……!」

「おいおい殺すな殺すな」


 涙混じりに何度も名を呼ぶ千鶴の隣で丸椅子に座っている小太郎が苦笑いする。それから瓏衣に向けられた目は呆れたような、けれど安堵したような、そんな表情だった。

 やっと覚めてきた頭に、意識を失う前までの出来事が途切れ途切れだがフラッシュバックする。公園から悲鳴が聞こえて、通り魔らしき男を捕まえようとしたら、大きい変な影みたいなものが出てきて……、それを、倒したのだったか……。


「心配かけてごめんな千鶴。小太郎も」


 ぐすぐすと鼻を鳴らす千鶴を抱きしめ返してやりながら、その温もりを感じることで瓏衣は自身の生を再確認する。

 小太郎はといえば、苦笑まじりにだが脅かすなバーカ……と呟く。そんな彼の悪態が聞けたことも、今はなんだか嬉しかった。


「大丈夫。まだ、まだ生きてる……」


 帰ったら柚姫に怪我について言及、下手をすると説教されるのは確実だが、生きているだけまだいいだろう。


「あ、今何時!?」


 帰りが八時を過ぎる時は必ず一報いれること。

 柚姫との約束を思い出し慌てて訊ねる瓏衣に対し、小太郎は静かにポケットから携帯を取り出し起動する。


「今……、七時過ぎだな」


 一安心。

 瓏衣は胸を撫で下ろす。

 とそこに、部屋の左側にある扉の向こうからコンコンと小気味いいノックの音が響き、まもなく扉が開いた。


「あ、目が覚めたのね。良かった。気分はどうかな?」


 ひょっこり顔を出したのは若い女性だった。

 薄手のセーターにパンツルックで、上に黒いエプロンを着ている。やや紫がかった黒く長い髪を結い上げ、桔梗の花と同じ色の目は知的で落ち着いた印象だ。歳はおそらく瓏衣たちにほど近いだろう。

 知らない顔だが、こちらを気遣うその様子から根っからの善人であろうことがわかる。


「はい。大丈夫です。お世話をおかけしたようですいません……」


 落ち着いた千鶴が離れて、瓏衣はベッドに腰掛けたまま頭を下げると、こちらへ歩み寄ってくる彼女は笑いながらかぶりを振った。


「気にしないで。むしろ元気そうで安心したぐらいよ。それより速水さんとセレンくんが下で待ってるわ」


 知らない名前が出てきて、瓏衣はきょとんとした表情で千鶴と小太郎に目をやるが、案の定二人は同じような顔をして首を振る。


「ああ、速水さんていうのは貴方達をここに連れてきた白髪はくはつの人ね」


 脳裏に返る、ピンチを救ってくれた無駄に顔のいい青年の姿を思い出して合点がいった瓏衣がああ、と声を出す。

 とすると、セレンというのはあのときペンダントを渡してくれた気の弱い少年のことか。


「あの、ところでここは……?」


 ベッドから降りながら訊ねると、扉へ向かおうとしていた女性は振り返りながら答えた。長い髪がふわりと揺れる。


「ここは私の父の知り合いが経営する喫茶店の二階の空き部屋よ」


 どおりで、どこからか香ばしいコーヒーの香りがするわけだ。





「速水さん、セレンくん、あの子が起きたわよ」


 女性に連れられて瓏衣たちは部屋を出て、階段を下り、廊下と部屋を区切る扉をくぐる。すると、より一層コーヒーの香ばしい香りが強くなった。

 行き着いたそこはレトロな雰囲気の静かな空間にいくつかのテーブルや椅子が並び、奥にはカウンターを備えたまさしく昔ながらの喫茶店そのものだった。

 日差しを取り入れる大きな窓の外は薄暗く、室内の明かりに照らされて瓏衣たちの姿がよく映っている。壁にかけてある丸い時計盤は小太郎の言う通り午後七時を過ぎていた。


「あ! お目覚めになったんですね!」

「体は大丈夫か?」


 テーブルに座っていた少年と、カウンターに座っていた青年が表情を和らげながら立ち上がりこちらを向く。


「まだ頭が少しぼうっとするけど、大丈夫だ。さっきは助けてくれてありがとう」


 すると、青年がゆっくりと首を振る。


「礼を言うのはこちらの方だ。君のおかげで命拾いをした。本当にありがとう。三上さん、コーヒーのおかわりと、彼らにもコーヒーを。代金は私が払おう」

「わかりました」


 女性はパタパタとカウンターの中に掛けていき、やがて中からカチャカチャと音を立て始めた。

 さあ、とりあえず座ってくれと促され、瓏衣たちは近くの四人がけのテーブルに歩み寄る。瓏衣と千鶴が並んで座り、小太郎は隣の席から椅子を一つ引き寄せて千鶴の隣に腰を下ろした。瓏衣と千鶴の向かいにセレンと並んで座り込んだ。


「改めて、私は速水はやみカイナ。こちらはセレンという。さきほどは危険を承知で助けてくれたこと、感謝する。さて、単刀直入に言えば君を、君たちを連れてきた理由はただ一つ。ぜひ君に、私たちの仲間になってもらいたい」


 カイナが、人あたりのいい笑みを浮かべて笑う。しかしその言葉は瓏衣にのみ向けられたものである。

 瓏衣の右側から、がたんと大きな音がした。


「絶対だめっ!!!」


 千鶴が勢いよく席を立ち、噛み付くように叫ぶ。驚いた瓏衣と小太郎が眉を寄せながら顔を見合わせた。


「お、落ち着け千鶴……!」


 瓏衣が彼女を席に引き戻すと、そこに先ほどの女性が人数分のコーヒーを乗せた盆を運んできた。


「お待たせしました。ホットコーヒーになります」


 働き慣れているのだろう。淀みない言葉と共に慣れた手つきでコーヒーを瓏衣たちの前に差し出していく。

 淹れたてのコーヒーは湯気とともに香ばしい香りを漂わせていた。


「私は三上みかみ春乃はるのよ。よろしくね。ゆっくりしていってちょうだい」

「ありがとうございます。いただきます」


 瓏衣と小太郎が軽く頭を下げると、春乃はニコリと笑ってカウンターへ戻っていった。

 早速コーヒーをブラックのまま喉に通すカイナに倣い、小太郎もブラックコーヒーを、瓏衣は添えられていたミルクと砂糖を入れて口をつける。

 温かいコーヒーが身に沁みていくようで、文字通りほっと一息つく。二人が一度カップを置いてもなお、千鶴は険しい顔つきでカイナを睨んだままだった。

 カイナとセレンは揃って苦笑。


「千鶴、顔が怖いぞ……。こいつらは少なくとも悪人じゃないだろうに……」


 呆れ半分の瓏衣がそう言うと、カイナはかぶりを振って、


「いや、いいんだ。普通なら、今見た事は全て忘れて帰りなさいと言うべきところを、そうはせずに強引にここまで引っ張ってきてしまったのだから無理もないだろう。挙句、仲間になれなんて言われれば尚更だ」


 詳しいことを聞かずとも、カイナたちは瓏衣に、先ほどと同じ目に遭えと言っているのだ。あんな危険な目に一度ならず二度も三度も遭っていたら、下手をすれば死にかねない。大事な友人として、止めないわけは無いのだ。


「瓏衣くん、小太郎くん、帰ろう。ここまで来てこの人たちには申し訳ないけど、きっと聞かない方がいい」


 再び千鶴が席を立った。彼女の前にあった、手をつけられていないコーヒーが小さく波打つ。


「えっ、でも……」

「ほれ、行くぞ」

「うおえぁっ……!?」


 千鶴を見上げる瓏衣を、肩を竦めたあと続いて腰を上げた小太郎が後ろから引っ張りあげる。驚いて妙な声を出しながら、まだコーヒー飲み切ってないのに!と騒ぐ瓏衣を構わず引きずりながら、小太郎は千鶴のあとを追い出入り口へ歩いていく。


「ひ、引き止めた方が……!」


 セレンが慌ててカイナの方を見ると、彼は少し考えて、口を開いた。


「る───」


 カランカラン。

 瓏衣の名を呼ぼうとしたカイナの声に、喫茶店のガラスの玄関扉の鐘鈴ドアベルの音が被さる。


「カイナ、セレン、おるかー?」


 独特のイントネーションといわゆる関西弁と呼ばれる言葉遣い。それが、日が暮れて少し肌寒い夜風と一緒にゆっくり開かれた扉から店内に入ってくる。

 玄関の目の前まで来ていた千鶴と小太郎は反射的に足を止めた。


「お。この子らが助太刀してくれたっちゅー子らやね。二人を助けてくれておおきに。ありがとーな」


 カイナや小太郎と肩が並ぶ背丈に白のシャツとベストを着た黒いパンツ姿の彼は、人懐こい笑顔で笑う。


雪羅せつらか。いいところに来た。その子達を車で自宅まで送ってやってくれないか」


 カイナが椅子から立ち上がり、二、三歩こちらへ歩いてくる。会話から察するに、二人は友人のようだ。


「ええよ。俺の代わりに助太刀してくれたお返しや。カイナも、助けてやれんくてすまんかったな」

「油断した私の自業自得さ。気にしなくていい。君たちも今日のお詫び、にはならないかもしれないが、疲れて歩いて帰る気力も無いだろう。彼に送ってもらうといい」

「ありがとう。正直クタクタなんだ。お言葉に甘えるよ」


 カイナの知り合いであるならば信用できるだろう。二人に掴まれた腕をようやく放してもらえた瓏衣が立ち上がりながら素直に頷くと、雪羅せつらと呼ばれた青年はポケットから車の鍵を取り出し、任せときぃ。と独特の訛りで返す。


「俺は深月みづき雪羅せつらや。よろしゅうな。ほならついてきぃや」


 千鶴や小太郎はカイナを見る目と同じ怪訝な目付きで雪羅を見ていたが、瓏衣が頷いてしまったため店を出て駐車場に向かう彼のあとに渋々ついていく。


「瓏衣」


 扉をくぐろうとしたところを呼び止めると、瓏衣は素直に足を止め、振り返る。


「と、呼んでもいいか」


 カイナが控えめに問いかけると、驚くほどにこやかな表情を返してきた。


「ああ。じゃあオレも、カイナと呼ばせてもらうよ」


 あまり人を疑わない性質なのか、それともマイペースなのか、ただ一人友好的な態度を示す瓏衣に少し安心して、カイナは続ける。


「さっきの誘いについてだが、もちろん無理にとは言わない。だが、もし君が今日見たものについて問いを浮かべ、その答えを求めるなら、またこの店に来るといい。いつでも待っている」


 その言葉をどう受け取ったのか、瓏衣はわずかに神妙な面持ちでわかった、とだけ呟いた。


「瓏衣くん! 行くよ!」


 若干の怒りを含んだ呼びかけが後ろから投げかけられる。瓏衣はまずいと慌てて背後に今行く!と返すと、すぐに表情を和らげて再び忙しなくこちらに振り返る。


「コーヒーごちそうさま。美味かったよ」


 鐘鈴ドアベルを響かせながら扉をくぐり、瓏衣は外に駆けていった。

 ガラス張りの扉が閉まり、涼しい夜風が吹く外と店内を区切る。


「あの人は、仲間になってくださるでしょうか……」


 セレンが隣に並び、同じようにガラス張りの扉を見つめる。鐘鈴ドアベルは揺れるのを止め、今は静かにそこに吊り下がるのみである。


「さあ、な……」


 カイナは腕を組み、扉から目を外さないままつい先ほどまでそこにいた瓏衣の反応を思い返す。最後に言ったあの言葉は、そのままの意味だ。他意は無い。

 だがその言葉を受け取ったときの瓏衣の表情から考えると、


「脈アリ、といったところか……」


 顎に手を添え、思案するように目を伏せる。

 あの二人のようにこちらを拒む素振りを見せないことと、あの神妙な面持ちだと、確証は無いが、早ければ明日にでもきっと彼は再び姿を見せることだろう。

 彼の表情と、あの澄んだ青い瞳がなにかを案じているように見えたのだ。

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