壱-9


 帰り際。

 瓏衣たちを乗せたいわゆるセダン系統の車内には不穏な空気が満ちていた。というのも、千鶴が険悪な空気を隠すことなく未だ漂わせているからだ。

 それに乾いた笑いでしか反応を示せなかった瓏衣と小太郎に対し、気に止めることもなく人のいい笑顔で運転している雪羅と名乗った人物は、脱帽するほど大した人間である。

 三人の自宅の大まかな位置を彼に伝え、最初に送り届けたのはか弱い女性であるからという理由でもちろん千鶴だ。家の前に車を付けて、お待ちどーさん、と気の抜けた言葉で到着を知らせると、瓏衣と共に後部座席に乗っていた千鶴はありがとうございましたとだけ残してさっさと降車し、


「瓏衣くん」

「は、はいっ……」


 低い声で名前を呼ばれ、瓏衣は思わず身を強ばらせる。


「絶対ダメだからね」


 肩越しにこちらを向いて睨むような眼差しと有無を言わさぬ声色でそう残し、八つ当たりのように勢いよく扉を閉めると、振り返らずまっすぐ玄関に向かい家の中へと入っていった。

 千鶴が降りたことで空気が軽くなった気がして、瓏衣は大きなため息をついた。

 すると、斜め前の運転席から笑い声。


「あっははははっ!! 大変やねぇ!」


 くそ、他人事だと思って……!

 瓏衣の恨めしげな視線をものともせず、雪羅はほな、次は君やね~と呑気な声を出す。車が走り出したのがわかった。瓏衣の家は千鶴の家からそう離れていない。助手席に座る小太郎はやれやれと肩を竦めている。

 ふてくされた顔をして窓の外を眺めていると、不意に頭上の月が目に付いた。淡い月明かりを降らせる丸いそれを、瓏衣はぼんやりと見つめる。

 月。月。

 月といえば、今朝見た夢も、さっき見ていた夢の中の月も、なぜかとても大きく、美しく、そして……。


「紅かった、な……」


 呟きが聞こえたらしい小太郎が何か言ったか?と聞いてきたが、瓏衣は何でもないと返した。


「カイナから電話で聞いたで。危ない目に遭ったのに逃げずに助けようとしてくれて、そんでホンマに助けてくれたんやってな」


 日の暮れた住宅街の、並び立つ家々のほとんどがどこかしらの部屋の明かりが点いている。夜なのだから当たり前なのだが。

 瓏衣は窓の外を眺めたまま返す。


「……最初に助けられたのはオレたちだ。命の恩人を見殺しにするなんてことできねぇし、目覚めが悪すぎるだろ……」


 自分でも、まさかあんな化け物を本当になんとかできるとは思わなかった。ただ化け物を退け、カイナを、千鶴と小太郎を守らなければと必死に、無我夢中であがいたら結果的に倒せることが出来たというだけだ。


「……優しいんやね。ほな、仲間になってくれるん?」


 カイナと同じ言葉。それを拒み、別れ際に釘をさした千鶴の言葉を思い出して、瓏衣は言葉に詰まる。

 絶対ダメだからね。

 主語が無くても何を指しているのかはわかる。彼女は瓏衣が彼らの仲間になることを良しとしていないのだ。

 その理由わけは、たぶんきっと……、あの時の───。


「瓏衣」


 小太郎の声。ゆっくりと目だけを目の前の助手席に向ける。


「ああ。わかってる」


 わかってるよ。呟いて、瓏衣はまた窓の外を流し見る。

 その様子を、小太郎はサイドミラーで見ていた。


「着いたで~」


 ゆっくりと減速する車が、一軒の家の前で止まった。そこはもちろん、瓏衣が伯母とともに住む家だ。


「七時四十二分。なんとか間に合ったな」


 こちらを向く小太郎のからかうようなセリフをうっせぇと一蹴しつつ、内心では安堵する。まあそれでもこの顔のガーゼと腕の絆創膏や包帯については議論せざるを得ないだろうが。


「門限厳しん?」

「まあ、ちょっとな……」


 雪羅の問いにうやむやに答え、瓏衣は鞄を手に車を降りる。


「送ってくれてありがとう。小太郎はまた明日」

「任しときぃ」

「おう。じゃあな」


 バタンと扉が閉まり、それを合図に雪羅は車を発進させる。遠く小さくなっていく車を見送り、瓏衣は玄関に向かうと、扉の取っ手を握る。

 覚悟を決め、いざ。

 扉を開け、玄関に入る。人の姿は無い。

 良かった。待ち構えてはいない。妙な緊張感を覚えながら靴を脱ぎ、リビングに続く扉を開けた。


「柚姫さん、ただいま帰りま───」

「瓏衣ちゃん! 良かった無事だったのね!」

「あふっ」


 中へ入るなり誰かが飛びついてきた。もちろん柚姫だ。


「暗くなる前に帰ってきてって言ったのに! もうすぐ八時になるのに連絡も無いし心配でちょうど電話しようと思ってたところだったんだから!」

「すいません……」


 苦しいぐらいに力の限り抱きしめられ、彼女の顔を見ることが出来ない。やはり心配をかけてしまったという反面、再びこの家に戻り、彼女に会えたことがなんだかとても嬉しくて思えて、つい口元が緩む。

 キッチンからは美味しそうな匂いが漂っていて、テーブルの上は既に夕飯の準備が整えられている。ずっと待っていてくれたのかと思うと申し訳なくて、けれどやっぱり嬉しくて、胸がいっぱいになった。


「おかえり。瓏衣ちゃん」

「ただいま……、ただいま、柚姫さん……」


 その一言に涙が溢れそうになるのを堪えて、そっと背中に手を回し、抱きしめ返した。

「さあ! ご飯にしましょうか! もう心配で心配でずっと……! 待っ、て……」


 顔を見合わせた途端柚姫の目が丸くなり、言葉がすぼんでいく。その目は瓏衣の顔の、目ではないある一点を見ていた。

 我に返るや否や、彼女は瓏衣の腕を掴み袖を捲り上げる。その腕に巻かれているのは、包帯と絆創膏だ。


「……瓏衣ちゃん? その痛々しい頬のガーゼと、この腕の包帯や絆創膏は、いったいどういうことかしら?」

「えっ。あ、うっ……」


 顔を上げた柚姫は笑っている。千鶴もそうだが、元来美人である彼女の笑顔は、それはもう惚れてしまうぐらい綺麗でかわいくて、倒れてしまいそうなぐらいに眩しい。

 しかし反射的に腕を引っ込め、隠すように頬のガーゼを手で押さえた今の瓏衣には、その笑顔が恐ろしく見える。別の意味で倒れそうだ。


「こ、これは……ですね……、その……」

「今、通り魔が緊急逮捕されたってニュースで流れてまさかと思ってたけど、本当にまた何かしたのね?」


 声が低く、圧がこもっていく。

 瓏衣は思わず後ずさる。そしてテレビをちらりを見ると、画面のテロップには緊急速報の文字。そしてニュースキャスターの女性が通り魔が逮捕されたことを繰り返し報道している。

 映った写真のその顔は、まさしく瓏衣たちが夕方に公園で一悶着した男に違いなかった。

 冷や汗が、止まらない。

 帰宅前はこうなることを覚悟していたのに、帰宅するなり彼女に出迎えられ抱きしめられると気が抜けてしまい、腹と心のなかにあったはずの覚悟が家出したまま帰って来ない。


「もう喧嘩や荒事に首を突っ込まないって、あの時、約束したわよね?」

「ち、違いますって……! これはちょっと、ずっこけちゃって……!」

「あらそう。にしては、ハデに転んだのね?」

「下り坂だったから勢い余って錐揉み回転しちゃったもんで……!!」


 取り繕う瓏衣の言葉が嘘だと見抜いているのか、柚姫の笑みが深くなる。深くなりすぎて口元が引き攣り、額に青筋が浮かぶ。怖い。


「瓏衣ちゃん、夕飯の前に少しお話しましょうか。いいわよね?」

「も、もちろんですとも……」


 もはやそれ以外の答えなど無い。あったとしても選んではいけない。

 手を引かれてソファーに並んで座り、ニュースを伝えていたテレビも消されて余計なものは全てシャットアウトされた。

 沈黙が降りてくる。無音が耳に痛い。目の前の柚姫の笑顔が怖い。

 誰か、助けてくれ……。

 結局、柚姫との話し合いは会話が弾みに弾んで三時間に及び、瓏衣がベッドに倒れ込んだのは日付が変わってから五分ほど経った頃だった。

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