壱-6





 大きなダメージをくらい、おとなしくなったと油断した。


「しまった!」


 それを見た瓏衣は青年の足を引っ張ってしまったと焦る。


「くそ……!」


 暴れてみせるが、さほど効果はみられない。

すると、大人しくしろというように黒いモヤは青年を掴む手に力を入れる。


「がっ!! あぁっ!!」

「おい止せ!」

「止めろっ!!」


 瓏衣と小太郎は咄嗟に叫ぶが、黒いモヤが言うことを聞くはずがない。モヤは青年を握る力をどんどん強くし、青年の悲鳴に紛れてみしみしと嫌な音が聞こえる。彼の手から大剣がすり抜けて、真下に落下し地面に刺さる。

 早く、早くなんとかしなければ彼が死んでしまう。命の恩人が死にかけているのを黙って見ているわけにはいかない。


「千鶴を頼む!」

「え、あっ! おい瓏衣!」


 小太郎の制止も聞かず、瓏衣は力いっぱい走り出す。

 見たところ、あの化け物は今やゾンビと化している男からまるで生えているように見える。ならばもう一度、その根元である男を沈めれば少しは状況が変わるのではないか?

 確信などなくとも、可能性がありうるならば試さない手はない。瓏衣は体を垂れさせたまま動かない男のみぞおちに今度は蹴りを繰り出す。

 が、渾身の足技が決まる寸でのところで、見えない壁のようなものに弾かれて阻まれた。


「なっ……!?」

「ヒヒ、…いひひヒひヒッ!!!」


 男の首が音もなくぬるりと動き、驚いた瓏衣を見て人形のようにカタカタと音を立てながら歪に笑う。こちらを捉えたその両目は不気味に赤く光っていた。

 ゾクリとして、身の毛がよだつ。血の気が引くのがわかった。


「あっ…!?」


 視界の端で木や草花が強風に吹き付けられたように揺れた。なにかが、一直線に迫っていることに気づく。

 まずいと表情を歪めた瓏衣は反射的に両腕を構えて防御する。が、間に合わなかったようだ。姿の無い、一見突風のようなそれを受けた瓏衣の体が大きく後ろに吹き飛んだ。


「がッッ!!?」


 整えられた道のわきに並ぶ木の一つに背中からぶつかる。あまりの勢いにバウンドした瓏衣の体は為す術もなく前に倒れ、男が放った拳の威力の高さが伺えた。


「瓏衣!!」


 駆け寄ってやりたいが、千鶴の様子がおかしいままであるため小太郎は彼女から手を放すことができないでいた。

 歯がゆい思いでいると、瓏衣の体がぴくりと動き、咳き込みながらゆっくりと起き上がった。


「く、そ……! げほっ! ごほごほっ……!」


 明らかにあの化け物の影響で男の身体能力が上がっている。これではこちらの命も危ない。

 いったいどうすれば……!

 とそこに、視界の端に一人の少年が飛び込んできた。


「はっ……! はあっ……! か、カイナさん!?」


 ひょろっとした細身の、高校生ぐらいに見える大人しそうなその少年は、モヤに捕まっている青年を見るなり狼狽え始める。


「ど、どうしよう……! 今から雪羅さん呼んでも間に合わないし……! かといって僕なんかじゃどうにも……!」


 早くも絶望したようにおろおろしながら、なにかぶつぶつ呟いている少年はどうやらこの光景に驚いていないらしい。

 なんとか体を起こした瓏衣はフラフラとした足取りながらも飛びかかる勢いで詰め寄った。


「おいお前っ!」

「はひいいいいっ!!?」


 逃がさないといわんばかりに肩をがしりと掴み、問いかける。


「あの、変なバケモノみたいなやつ……! あれはなんだ!!!」

「あ、あなたの方がいきなりなんなんですかああぁっ!!!?」


 少年は混乱した様子で驚き後ずさるが、細身であるため瓏衣に軽々と引き寄せられる。


「質問を変える。お前、アレの対処法知ってるか?!」

「た、対処法…? ───ひっ!!?」

「どうすればあの白髪はくはつのヤローを助けられるんだって聞いてんだよっ!!!」


 気が弱いのか目尻に涙をうかべる少年の口からなかなか欲しい返答が出てこず、つもりゆく焦燥から瓏衣は半ば怒鳴りながら聞くと、ようやく質問の意図を理解したらしい少年がやっとまともに瓏衣と目を合わせた。


「きょ、協力してくれるんですか……?」

「手があるんだな?!」


 答える代わりに少年は潤んだ目を拭うと、祈るように両手を組み合わせ目を閉じる。


「祝福の光束ねる我らが主に申し上げる。ここに立つは、新たな光の担い手なり…」


 組み合わせた少年の指の隙間から光がこぼれ始める。

少年の足元に魔法陣のような、複雑な図形をした光る円形の陣が組みあがる。


「我は主の光を望み給うもの。悪しきを払う、祖の光輝を授かり給うもの!」

「っ!」


 彼の手から零れる光が一際強く光り、瓏衣はたまらず目を閉じる。


「これを、使って下さい…!」


 差し出された少年の右手には一つのペンダントが乗っていた。

 細いシルバーチェーンの先に模様が彫り込まれた細長い菱形の台座にブルーサファイアのような青色の石が埋め込まれた小さなペンダントトップが付いている。


「握って、集中してください。そして、浮かんでくる言葉を叫んでください!」


 ただでさえ訳のわからない状況下にいるせいで理解できず、いいかげん頭の中はごちゃごちゃだが、今は少年の言うことを信じるしかない。

 頷き、ペンダントを受け取る。


「ぐあっ! あ、あぁっ!!!」

「カイナさん!!」

「っ!!」


 青年を握る手に、より一層力がこもったのが目に見えてわかった。

 焦りと戸惑いが入り混じるなか、瓏衣はその全てを呑み込み、ペンダントを握り締めながら少年の言葉を思い返す。


───冷静に、頭を空っぽにして……。


「小太郎! 千鶴を連れて下がれ!」


 いったい何をする気だ。そんなことできるかと、すぐに言い返してやりたかったが、ここで自分が首を振ってもきっと事態がいい方向に転ぶはずがないとわかって、小太郎はしぶしぶ頷いた。


「……分かった。気ィつけろよ!」


 未だ様子がおかしい千鶴を無理やり抱え上げ、小太郎はその場を離れながらも肩越しに後ろを振り返る。見慣れた、自身よりは小さくもたくましい背中が、勇ましくその場に立っていた。

 瓏衣はペンダントを握り締める右手を胸の高さまで振り上げ、決意とともに頭に浮かんだその言葉を叫ぶ。


「連なる悲嘆ひたんくさび、」


 反応するように、ペンダントを握る手の隙間から、青い光が漏れだす。


「我が手、我がやいば、」


 言葉を進めると、その光は手の中で瞬く間にわずかに反りのある長い棒状のものに形を変えていく。


「我がもって断ち斬らん───!」


 最後の一言を合図に光が飛び散り、つい数秒前までただのペンダントだったはずのそれは一振りの刀へと姿を変えていた。長さはおおよそ九十センチ強。柄も鞘も黒く、柄の先端に青い房紐がついている。片手で持てないこともないが、ズシリと腕にくる重さが、この刀がおもちゃでないことを物語っている。


───この人、同調化シンクロが早い……?ただでさえ賭けのつもりだったのに、僕達の力を、初めからこんなに使えるなんて……。


 少年が背後で目を丸くしていることに、今の瓏衣は気づかない。

 任侠や武士じゃあるまいに、刀なんて物騒なものを扱ったことは無いが、


───今は、やるしかない…!


「いくぞ。風絶かぜたち───!」


 知らないはずのその刀の名が勝手に口をついて出てきた。テレビやマンガの見様見真似で居合術のようにして刀を構え、瓏衣が地を蹴る。

 ヒュオ、と空が裂け、姿が消えた。


「えっ!?」


 少年は慌てて首を動かし、瓏衣の姿を探す。すぐに見つかった。しかしその時にはすでに、瓏衣の放った一刀が青年を掴みあげていた人型のモヤの腕を斬り裂いていた。

 血がしぶくようにモヤが飛び散り、ドサリと青年が真下に落ちた。受け止めてやりたかったのだが、生憎と瓏衣は妙な軽いフラつきに感覚を侵されて一刀を放った直後にすぐに動けなかった。

 駆け出しただけのはずが気づけば長い距離を一気に飛び越えていたせいだろう。例えるなら、たった数秒間だがもの凄く早いジェットコースターに乗っていたような感覚だ。

 軽い乗り物酔いや目眩にも思えるようなそれに耐えながらなんとか立ち上がった瓏衣は頭を押さえる。


「カイナさん!」


 駆けてきた少年に手を借りながら、青年がさきほどまで締め上げられていた痛みの余波に呻きながらもゆっくり体を起こしているのが横目に見えて、間に合ったのだと胸を撫で下ろす。

 ふらつく体に無理やり力を入れて制し、瓏衣は刀を構えた。

 目の前では黒いモヤが再び悲鳴のようなものをあげながらのたうち回るように体を振り回し、その本体である男は自身の体を抱きしめながら俯いている。


「ゔ……、うゥ……!! ……ゔヴぁああア゙ア゙ァァァッッ!!!!!」


 両の手をなくしたモヤはまるで根元になっている男から体を伸ばし、やけくそのように体当たりを繰り出す。

 瓏衣は怯まない。刀を握り直し、モヤを注視する。


「瓏衣!!」


 小太郎が叫ぶ。少年が固唾を呑み、青年はただ黙って瓏衣を見ていた。

 黒いモヤが迫る。迫る。

 見切った。瓏衣が動く。

 握った刀が、閃く───。


「ギャア"あ"ア"ァぁあ"アァッッッッ!!!!」


 断末魔の悲鳴が周囲に響いた。真っ二つに斬り裂かれた黒いモヤはその形を崩しながら霧散し消えていく。それが終わる頃にはその根元であった男は倒れていた。

 青年は立ち尽くしている瓏衣の背中と倒れている黒づくめの男を見て安堵し、地面に刺さったままの大剣を引き抜く。大剣は赤い光を纏い、やがてきっさきの方から空気に溶けるようにして消えた。

 やがて光の残滓が消え、青年の手の中にシルバーチェーンのついたペンダントが現れる。少年が瓏衣に渡したものと同じ形をしていて、しかしこちらは赤い宝石が飾られている。

 小太郎は呆然としながら一部始終を見届けるも、困惑と驚きと、ひとまずの安堵から放心状態でいたさなか、腕に抱えた千鶴が動いた。


「……あ、あれ……? わたし………」


 目を向けると、千鶴がキョトンと目を丸くしている。


「千鶴? 大丈夫か?」

「小太郎、くん……? 何があったの……?瓏衣くんは? ……ってなんで私小太郎くんに抱えられてるの!?」


 状況を認識した千鶴は恥ずかしかったのか、顔を赤らめながら降ろして降ろしてと腕の中で慌てふためく。

 その姿に先ほどまでの違和感は無い。降ろしてやりながら、一安心だと気づかれぬようふっと息を吐いた。

 と、前から何かが倒れたような音がして、小太郎と千鶴は同時に顔をむける。やはり予想通り、瓏衣がうつ伏せに倒れていた。


「瓏衣くん!?」

「瓏衣っ!」


 走り寄って抱き起こしてやれば、聞こえたのは穏やかな寝息。だいぶ疲労したのか少ししかめっ面をしていたが、特別目立った外傷は見当たらない。こちらもなんとか無事のようだ。良かったと、二人の表情が幾分か和らぐ。

 右手に握っていたあの刀は既にペンダントに戻り、瓏衣の近くに転がっていた。

 きっとあの力を使った反動と疲労で倒れたのだろう。自分がついていながら不甲斐ないと青年が悔やみながら三人を見ていると、その脇を抜けて少年が駆け寄ってくる。


負影シェイドは完全に祓われていました。あの男の人も気を失っただけのようです」

「そうか。賭けは勝ちのようだな。セレン」

「……でもまた、貴方や雪羅さんに続いてあの人まで巻き込んでしまいました…」


 少年はそう言って、肩を落とした。

 頭を撫でて励ましてやりながら周囲の気配を探る。少年の言う通りは断ち切られ、周囲には残っていないし、気配もない。完全に倒したようだ。

 それができたということは、あの子には、素質があるということになる。

 青年が歩み寄ると、千鶴は庇うように瓏衣を抱きしめ、小太郎は弾かれたように立ち上がり、千鶴と瓏衣を背に庇いながら険しい顔つきで睨む。


「すまないが、一緒に来てもらえるか。君たちに一切の危害を加えないと約束する」


 夕陽は既に地平線の向こうへと姿を消し、周囲では街灯が灯り始め、頭上では藍色に染まる空に星が輝き始めていた。

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