壱-5




 午後五時過ぎ。

 三人は帰路につく。夕日に照らされながら街から少しずつ住宅街へと変わっていく街路を歩き、まずは千鶴を送り届けるべく彼女の家へ向かう。


「それにしても通り魔なんて、怖いね……。早く捕まればいいんだけど……」


 呟きながら、不安そうに腕をさする。その横では瓏衣が頭の後ろで手を組んで苦笑していた。


「オレたちも不良や悪漢ぐらいなら相手してやってもいいけど、刃物持った犯罪者の相手は勘弁だな。さすがに命が惜しいし……。コタも出くわしたらバカなこと考えないで警察呼んで逃げろよな」

「お前こそ、ちゃっかり過剰防衛で殺すなよ」

「人を犯罪者より凶暴だと申すか貴様……!」


 千鶴を挟んで隣にいる小太郎を睨むと、彼もまた睨み返しながら言う。


「事実だろうが。最凶最悪って言われてた北高校の不良を、正当防衛どころか勢い余って全員病院送りにしたのはどこのジャージ中坊だった───」

「だあああっやめろォっ!!! ソレ今朝柚姫さんにも釘刺されたしそのせいでちぃにも柚姫さんにも嫌われかけて大変だったんだからなこんちくしょーがっ!!!!」


 大声で遮るだけでは飽き足らず、思い出してしまったのか若干目尻に涙を光らせる瓏衣が勢い余って小太郎の両肩を掴んで揺さぶると、彼は呆れたような表情で「知らねェよ……」と呟く。


「ってかその手の黒歴史だったらお前だって同じようなもんのクセにいいい!!!」

「……わかった。わかったから……」


 んぐぐぐ……!と唸る瓏衣の頭を押さえつけて、鬱陶しそうに逸らした視線の先では千鶴が胸の上で手を重ね、表情を曇らせていた。


「……だってそのとき、運が悪かったら瓏衣くん……」

「───きゃあああああっ!!!」


 千鶴の言葉を遮ったのは、この場にいる誰のものでもなかった。

 肩を掴まれたままの小太郎が耳を疑いながらも辺りを見渡す。


「今のは……」

「森林公園の方からだ!」


 言うが早いか、瓏衣は駆け出す。あの女性の悲鳴は間違いなくただ事ではない、切羽詰まったものだ。

 森林公園とは住宅街の手前、三人からすればちょうど左手にある広い運動公園のことである。広大な敷地に種目別の球技用のグランドや体育館があり、その周りには運動公園を縁取るように遊歩道が伸びていて、そして森林公園の名の通り様々な種の木々や花が植えられている。


「ちょっ……! 瓏衣くん!?」

「待てバカ!」


 ポールの立っている出入り口から公園に飛び込んだ瓏衣を、小太郎と千鶴が追う。

 すると、すぐ目の前のランニングコースの、その数メートル先に人影を二つ見つけた。片方の人影は地べたに座り込んでおり、細い体つきをしている。その前に立っている人影の、かざすように振り上げられている右手には、ナイフらしき鋭利なものが収まっている。


「おい! やめろ!」


 声を張り上げて威嚇しながら走り寄り、女子高生だろうか、座りこんでいた制服姿の少女を背に庇う。彼女を襲おうとしていたのはトレーナーにパンツと全身黒づくめに、フードを目深に被っていて顔はよく見えない。だが、体格からして男であることは確かだろう。


「無茶すんなっつの!」


 追いついた小太郎が同じように飛び込んできて、瓏衣の隣に並び立つ。背後では千鶴が少女に怪我はないかと声をかけていた。さあ、と未だ怯えた様子の少女を連れ、そのまま足早に公園の出入り口へ歩いていく。

 さすがは幼なじみ。こちらがどうしてほしいかをよく理解してくれている。

 少女が逃げていくのを見た男が悔しそうに歯噛みし追いかけようと体を前に倒すが、させまいと牽制するように瓏衣と小太郎が睨みを聞かせながら一歩足を踏み出す。


「お前だな。最近騒がれてる通り魔ってのは」


 瓏衣が言うと、男は怯んだように身を引いた。否定も肯定もないが、どのみち現時点で警察案件なのは確実だ。それで観念して投降するか逃げるかしてくれれば一発殴って捕まえて終わりだったのだが、どうやらそうする気は無いらしい。


「う、うおおおおっ!!!」


 雄叫びと共に降ってくるナイフを、瓏衣と小太郎はそれぞれ左右に避ける。

 すると意図的か偶々か、男は標的を瓏衣一人に絞り、踏み込みながら続けてナイフを向けてくる。

 しかし幸か不幸か、ポケットナイフぐらいなら向けられた経験は何度かある。大丈夫。見切れる。落ち着け。


「瓏衣!」


 男の肩越しに舌打ちをしながらも隙をうかがう小太郎が見えた。

 右に左に避け続け、掠りもしないことにいよいよ焦ったのか、男が歯を噛み締めるのが見えた。そして一瞬だけたじろいだその隙を逃さない。


「そこだ!!」


 肩に下げていた鞄を脱ぎ捨てるように放り出し、瓏衣が踏み込む。

 ナイフを持つ手を先に掴んで封じ込み、渾身の力を込めた拳をみぞおちに打ち込んでやる。防ぐ暇もなくその拳を受け、嘔吐えづくような声を出したあと、男は気を失って倒れ込んだ。

 カランとナイフが足元に転がる。身じろぎもせず失神した男を見て、瓏衣はふぅ、と安堵する。


「さすが、容赦ねぇな。瓏衣」


 小太郎が茶化すように笑いながら転がったナイフを早々に回収する。


「刃物出してくるやつなんかに遠慮する気はさらさらねぇ」


 目の前まで歩み寄ってくると、彼は軽く握った拳を出してくる。それに自身の拳を軽く当てて応えると、瓏衣は放り捨てた鞄を拾い上げ、叩いて砂埃を落としながら、伸びている男を見下ろす。


「さて、こいつ交番に突き出して帰るか」


 鞄を肩にかけ直して男に一歩近づいたそのとき、ぴくりと、男の体が動いた。


「!?」


 すぐさま二人は同時に後ろへ飛び退り、構えながら男の様子を見る。みぞおちに瓏衣渾身の一撃をまともにくらったはずのその男は、物理的に腹が痛むのか呻きながらも、ゾンビを連想させるような動作でゆっくりと立ち上がった。項垂れるように伏せられている顔は見えない。


「うそだろ……!?」


 信じられないというように呟く小太郎の隣で瓏衣は目を丸くする。

 瓏衣の繰り出す一撃の威力を、小太郎はよく知っている。小太郎と比べればまだ体は小さいかもしれないが力が強く、拳への力の入れ方も上手いため彼の一撃はそう軽いものではない。だからこそ、瓏衣の一撃を受けてなお立ち上がった男に、目を疑わずにはいられない。

 そしてそれは、当人の瓏衣も同じである。手加減をしたつもりはない。もとよりか弱い女性にナイフを振り上げるような暴漢に手加減する気など起きるものか。


「お、……オおお……、オォ、お……!!」


 叫ぶような、呻くような、嘆くような声が男の口から流れ出て、そして小刻みに震えだした男の体からなにやら黒いモヤのようなものが湧き上がる。

 五月を鼻先に控えた四月の終わりに似つかわしくない冷たい風が吹き付けて、周囲の木々の枝葉を激しく揺らす。たくさんの人だかりが惑いどよめくようにざわつく。

 背筋を冷たいものが撫でる。これはなにかがまずいと、頭の奥で警鐘が鳴る。なのに、二人は足を縫い付けられたようにその場から逃げることができないでいた。

 そうしている間に黒いモヤは大きく膨れ上がり、やがて巨大な人を形作る。モヤの頭の先から男の足元までは目測でおおよそ五メートル。周りでざわめいている木々よりも高く、左右に伸びる腕の先にはしっかりと五本の指が生えている。

 頭部には目も鼻も口も無いせいか、何をする様子も、何もされてはいないというのにどこか不気味さを感じた。

 あれはなんだ。いったいなんだ。その疑問に答えてくれる者はいない。男の様子もおかしい。気が狂ったとか、そういうのじゃない。立っているのに、まるで意識など無い人形のように上半身が不自然に前に垂れている。なにもかも、おかしい。でもなにもわからない。

 目の前の巨大なモヤと、様子のおかしい男と、何が起きているのかまったくわからないという恐怖に、瓏衣と小太郎は狼狽えることしかできない。


「なんだよ……! アレ……!?」

「わからない……! でも、逃げないと……!」


 やっと、足が一歩、後ろへ動いた。

 男とモヤはまだその場に佇んだままだ。瓏衣は手探りで隣にいるはずの小太郎の腕を掴むと、一気に体を反転させて走り出す。突如勢いよく腕を引かれた小太郎が後ろで驚いていたが、構わず逃げることに集中する。

 あれはきっと異質だ。自分たちに相手できるような存在じゃない!

 とそこに、


「瓏衣くん! 小太郎くん! さっきの女の子交番のお巡りさんたちにお願いしてきたよ!」


 間の悪いときに飛んできた明るい声と、おそらく公園の出入口があるのだろう脇道からこちらへ駆けてくるその姿に、瓏衣は咄嗟に声を張り上げた。


「逃げろ千鶴!」

「えっ……?」


 慌てたような瓏衣の声に不穏と不審を感じ取った千鶴が立ち止まり、不安そうな表情でこちらを見る。


「瓏衣! やべぇぞ!」


 小太郎が叫ぶ。足は止めずに肩越しに後ろを見ると、瓏衣たちを捕らえようとするように人を象ったモヤが長く巨大な腕を伸ばしてきていた。


「瓏衣くん! 小太郎くん! 危ない!」


 懸命に小さな手を伸ばしながら、千鶴が走り寄ってくる。


「バカっ!? 来るな!」

「くそ!」


 引き合うように駆け寄りあった三人は互いを守りあおうとするように抱き合いながらその場に伏せる。迫る黒い腕を視界の端に捉え、瓏衣は強く目を閉じた。

 直後。背後から聞こえたのは、肉が裂ける音でも、骨が砕ける音でもなく、ザシュッと鋭いなにかが厚みのあるものを切り裂く音だった。

 続けて重いものが地に落ちる音がして、地響きのような、声とも音ともつかないものが聞こえた。


「遅くなってすまない。君たち、怪我は無いか?」


 知らない声がこちらを気遣う。凛々しく、そして優しい若い男の声だ。

 瓏衣はおそるおそる目を開け、顔を向ける。そこには、目を引く白髪の青年が立っていた。

 スラリと高い背丈にデニムと白いシャツを着て、黒いカットジャケットを羽織ったカジュアルな服装。しかしその右手には彼の背丈ほどはある紅い大剣が収まっている。

 青年の向こうでは、こちらへ伸ばしていた腕の先を失くした黒いモヤが苦しげにうごめいている。


「な、なんとか……」


 きっと助けてくれたのだろう。でもうまく言葉が出なくて、絞り出すようにやっと転がり出た言葉に、青年は安堵したようにふっと笑みを浮かべる。


「それはなによりだ。動けるなら逃げてくれ。動けないなら、そのままそこにいてくれ」


 それだけを残して、青年は大剣を手に勇ましく黒いモヤにかかっていく。

 強く地を蹴って飛び上がり、重そうな大剣をたやすく振り下ろして人型をしたモヤの肩を斬りつけた。


「おオぉオォおッ!!!」


 斬られたのは自らの体ではないというのにそれでも男が左手で右肩を押さえると、連動するようにして黒い人型のモヤはまた声とも音ともつかぬ悲鳴らしきものを響かせ体を仰け反らせながらも、残っている左手で青年を払い除けようとする。

 それを躱し、大剣を振り上げる。すると、いわゆる衝撃波というやつだろうか。やいばから鋭い光が放たれ、弧を描きながらモヤの胸辺りを斬り裂いた。


「オ、オォ……! おおぉオォァアああぁっ……!!!」


 男と黒い人型のモヤは同時に胸を押さえ、うなだれる。


「なんか……、すげぇモンに出くわしちまったみてぇだな……」

「よくわからんが、そうらしいな……」


 体を起こしてその場に座り込み、呆然とする小太郎に頷いて同意しながら、瓏衣はため息をついた。

 まあ、最終的には命拾いをしたのだ。まだ運がよかったのだと、いい方に考えておこう。


「あの子……」


 ぽつりと、千鶴が呟いた。

 目をやると、彼女は黒いモヤを見つめたまま続ける。その目は、どこか虚ろだった。


「あの子、苦しいって……。悲しいって泣いてる……」

「泣いてるって、どこが……」


 彼女に倣い黒いモヤを見やる。しかし、のっぺらぼうともいえる顔の無いアレからは苦しい、泣いているという感情など微塵も感じられない。

 彼女の言葉に戸惑っていると、千鶴はゆっくりと立ち上がり、まるで誘われるようにフラフラと歩き出す。


「ってお、おい千鶴!?」

「待てよ!」


 瓏衣と小太郎は慌てて立ち上がると千鶴を追いかけて腕を掴み、引き止める。しかしどうしたことだろうか。彼女は二人の制止を聞かず、それすらも振り切って黒いモヤに近づこうとする。


「止まれ千鶴! どうしたんだよ!」


 彼女は本来、女性としての平均的な腕力や体力しか持たないはずだ。瓏衣や小太郎の拘束を振り切れるような力は無い。なのに、瓏衣が腕を掴み、小太郎が肩を押さえてもなお足を止めず、モヤから目を外さない。


「千鶴ってば! お、い……!?」


 正面に回り、瓏衣は千鶴の顔を見て驚いた。

 呆けたような、心ここに在らずといったような表情で、桃色の瞳は瓏衣ではなくその向こうにいる黒いモヤを見つめたまま動かない。

 後ろが騒がしいと、気づいた白髪の青年が瓏衣たちに振り返る。


「どうした。なにか───」


 なにかあったのかと問いかける青年の隙を、黒いモヤは賢明にも好機と見たらしい。

 胸を押さえていた左手を一気に伸ばし、青年の体を掴み上げる。


「ぐっ……!?」


 車や小さな小屋ぐらいなら容易く叩き潰せそうなバカでかい手が青年の肩から膝ぐらいまでをすっぽりと覆い、拘束する。

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