壱-2



 ついこの前入学したばかりの大学へは歩いて三十分弱。大きな通りの、香ばしい匂いを漂わせるパン屋の前を過ぎると、早くも多くの客の姿が窓から見えた。今日も繁盛しているようだ。

 前に幼なじみに連れられ瓏衣も何度か来たことがあった。大好きなクロワッサンがとても美味しかったので、また来ようと思う。

 通りを抜けて信号を渡り、桜並木の遊歩道に入った。桜は満開のピークが過ぎ、桃色の衣を風にさらわれた枝は今度は新緑の衣を纏い始める。ついこの間までは花見客の姿が多く見受けられていたが、今は打って変わって静かなものだ。また春季以外でも散歩にはもってこいな瓏衣のお気に入りスポットの一つである。

 この道を通る時は必ずゆっくり歩いて頭上の木漏れ日を楽しみながら歩いている。無論瓏衣以外にもジョギングや犬の散歩を楽しむ人もいるので、前方注意は怠らない。

 青々とした木の葉や枝が風にそよぎ、さわさわと音を立てる。その音が耳に心地いい。


「やっぱ春はいいな……」


 立ち止まり、折り重なる葉桜の隙間から零れる温かな陽の光に目を細める。


「あ! 瓏衣くんだ!」


 背後から、明るい声がした。足音が近く、そして早くなる。この声には覚えがあった。いつも隣にいる、元気で無邪気な幼なじみの声。


「瓏衣くん!」

「おー、っと……」


 振り返るや否や胸元に声とともに少女が飛び込んできた。


「おはよ千鶴。今日も元気だな」

「えへへー、おはよう瓏衣くん!」


 頭の先が瓏衣の口元辺りにくる華奢な体躯。膝下丈の白いワンピースに薄いピンクのカーディガンと、モカカラーのタイツにロングブーツ。背中には流行りなのか近頃街中で色違いをよく見かけるかわいらしいリュックを背負って、肩下まで伸びた栗毛の髪は日によって髪型が異なるが、今日は三つ編みのお下げにまとめられている。

 清楚で可憐な印象を受ける愛らしい桃色の瞳のこの少女は、瓏衣の幼稚園時代からの幼なじみの神野かの千鶴。言動が少し幼いもののいつも瓏衣を気にかけるとても大事な幼なじみである。


「よお瓏衣」


 今度は低い声だった。二人に歩み寄るのは二人よりも背の高い青年。ブルーのデニムに白のVカットソーとアップルグリーンのジャケット。胸には小さくシンプルなペンダントが控えめな輝きを放っている。荷物が入った大きめのトートバッグを肩にかけ、目立つ赤色の髪に白いヘアバンドを巻いたダークグリーンの瞳の青年は一条寺小太郎。

 こちらは中学からの付き合いで、名前に相反して背の高い腐れ縁の友である。


「コタもおはよ」

「その呼び方、いいかげんどうにかなんねえの?」


 言い表すなら中の上から上の下ぐらいに分類される程度には整った顔がげんなりと歪む。



 中学のときに出会った初日、瓏衣と小太郎はとある勝負をし、そして圧勝した勝者瓏衣から敗者小太郎への命令、いわば罰ゲームとして瓏衣は小太郎を《コタ》とよんでいるのだが、初めから本人はそれが受け入れがたかったようで、時が流れた最近は呼び名を改めてくれと言われることが多くなった。


「悔しかったら、次こそオレを負かすこったな~」


 勝者の笑みは今も継続中である。

弾んだ声で愉快そうに言いながら、瓏衣は木陰が降る並木道を歩いていく。

 あの様子では下手をすると死ぬまで呼び名が変わることは無いかもしれない。

やれやれと、小太郎は肩をすくめた。


「行こっか」

「へいへい」


 千鶴がぴょこぴょこと跳ねるように瓏衣の後を追い、ゆったりとした足取りで小太郎が続く。




 それはいつもの朝。いつもの通学路。

 いつもの顔ぶれで始まる、いつもの一日。

その始まりのはずだった。


 この変わることのないはずの穏やかでありふれた日常を脅かしうる存在があるなんて、このときの瓏衣には、思ってもみないことだったのだ───。


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