壱
壱
ベッドの脇のナイトテーブルの上で、セットしておいた置き時計が時間だぞと喧しく騒ぎ立てる。
それが不愉快だと言うように不機嫌そうな仏頂面で
鳴り止んで静かになった時計の針は午前七時を指していた。いまだ眠気を振り切れていない蒼い瞳はずり落ちてくる瞼を被り、まるで時計を恨めしげに睨むかのようである。
大学に進学して早一ヶ月弱、瓏衣が通う大学は月曜は朝から授業を詰められているためにこの時間に起きることを余儀なくされている。が、どうにもすぐに起き上がる気にはなれない。やはり朝は苦手だ。
五分後、やっとこさどうにかベッドから這い出てタンスから服を引きずり出し、着替える。黒のカジュアルパンツを穿き、黒のタンクトップを被って白のワイシャツに腕を通し、靴下を履いて左手首に黒いリストバンドをつける。
窓に歩み寄り、日差しが漏れ差す水色のカーテンを開けた。広がる光の世界に目がくらみ、
青い空を背景に小鳥が鳴き声を上げながら目の前を過ぎていった。
「ふあ……」
大きくなあくびを一つして、枕元に転がっている携帯を点ける。特に急ぎの連絡は無いことを確認してからポケットに突っ込んでクローゼットから白と黒のパーカーを引っ張って、机の上のショルダータイプの鞄を引っ掴んで部屋を出た。
一階へ続く手すりのついた階段を半分下ったところで漂ってくる香ばしいにおい。小さな音ではあったが、においに刺激され腹が鳴った。
残りの段を下り、リビングの扉を開ける。
「
ソファーに鞄とパーカーを置きながら、
「あら
白い七分袖のシャツとブラウンの膝下スカートの上に薄いピンクのエプロンを重ねてにこりと笑うその女性は、
「朝ごはんもう出来るから、顔洗っていらっしゃい」
「はーい」
洗面所に向かい、歯を磨いて、顔を洗って、少しの寝癖を直して戻ると、テーブルの上には色とりどりかつ美味しそうな朝食の数々が並んでいた。
食事は瓏衣と柚姫が交代で作っていて、朝が洋食か和食かは、当番の人間の気分次第なのだが、今朝は洋食だった。
こんがりきつね色に焼けたトーストに、ベーコンと目玉焼き。ミニトマトが添えられたレタスやケールなどの葉野菜とゆで卵のサラダ、キャベツ、人参、玉ねぎのコンソメスープ。腹が再び音を立てた。
「さあ、食べましょうか。お弁当はカバンの中に入れておいたからね」
「はい! ありがとうございます!」
最後に柚姫が二人分のコーヒーを淹れて運んできた。二人は向かい合わせに座り、手を合わせる。
『いただきます』
二人の声が重なる。
瓏衣は初めにサラダに手をつけた。イタリアンドレッシングをかけて口に運ぶ。シャキシャキしたレタスと瑞々しいトマトが美味である。
「大学はどう? 新しくお友達できた?」
ミルクと砂糖を溶かしたコーヒーに口をつけながら、柚姫が問いかけた。
「千鶴と小太郎がいますから、平気です。これまでと特に変わりはありません」
「あ、恋人の紹介は事前に知らせてね!」
さっきよりも一段階声が明るくなる。やはり女性は恋バナが好きらしい。
瓏衣がげんなりした表情で返す。
「一生ありませんよそんなものは」
「もう、瓏衣ちゃんたら硬派なんだから」
「柚姫さんこそ、オレのことなんて気にしないで、恋人作って結婚してもいいんですよ?」
食パンを齧っていると、間髪入れずに返事が返ってくる。
「イヤよ。瓏衣ちゃんが私のカッコかわいい恋人ですもの」
「そんなあなたが大好きです」
「私もよ♡」
んふふ、と柚姫が笑う。
他愛もない戯れであるが、実際二人は互いをとても慕っている。まるで本当の親子や兄弟のように。
《すべてを失ったあの日》から、柚姫は瓏衣を引き取り、十五年もの間ずっと、一番近くで見守り続けてくれた人だった。
『───それでは、次のニュースです。◯◯区の三丁目で、また通り魔事件が起きました』
テレビから流れる音声に、不意に瓏衣の首が動く。
音楽代わりにつけっぱなしにしていたリビングのテレビがニュース番組を放送していて、テロップには、『連続通り魔事件 これで五件目』と表示されている。
『昨夜十時四十分頃、◯◯区三丁目△△で会社帰りの男性が何者かにナイフで襲われる事件が起きました。男性は腕を切りつけられるなど軽傷を負いましたが命に別状はありません』
画面が切り替わり、事件が起きた現場周辺には立ち入り禁止と書かれた黄色いテープが張られ、警察の鑑識班が犯人に繋がる証拠を探したり、警官が周囲を見回る様子が流れる。
『……警察は最近多発している通り魔事件と関連があると見て捜査を進めています』
再び画面が切り替わり、今度は今日の天気予報が流れる。
「……最近物騒ね。瓏衣ちゃんたちも気をつけないとダメよ? 千鶴ちゃんもいるんだから」
聞けばこの通り魔事件はすべてこの近くで起きているとの話だ。さすがに他人事だ、自分は大丈夫と流せる話じゃない。
「柚姫さんこそ、迂闊に夜に買い物なんて行かないでくださいね。ごちそうさまでした!」
内職で在宅ワークの柚姫はともかく、学生の朝は慌ただしい。
柚姫よりも先に手早く朝食を平らげた瓏衣はパン、と再び手を合わせ、カラになった皿をシンクへ運び、水につけておく。油が浮いているものには洗剤をワンプッシュ。
ソファーに放ったパーカーを羽織り、ワイシャツの襟を正して準備完了。
「もう出かける?」
「はい。そろそろなので」
「見送るわ」
カバンを肩から下げてリビングを出ると、柚姫が席を立ってあとに続く。
まるで新婚夫婦のように、柚姫は玄関までの見送りを欠かしたことは無い。
「気をつけて行ってらっしゃい。本当に危ないから、暗くなる前に帰ってきてちょうだいね。通り魔に会ってもくれぐれも、バカなことは考えないように。い・い・わ・ね?」
バカなこと。
彼女が言うソレに、瓏衣は心当たりがある。誠心誠意謝りはしたのだが、未だ根に持たれているようだ。
柚姫の強ばった笑顔に、手綱をぐい、と引っ張られ、首が絞まるような感覚を覚えながら、瓏衣は言葉よりも先にひたすら頷く。よろしい、と柚姫はいつもの笑顔に戻って、
「遅くなるなら必ず連絡入れる約束、ちゃんと守ってね?」
「はい。行ってきます!」
動きやすいお気に入りの黒のスニーカーを履き、柚姫に笑みを返すと、瓏衣は飛び出すように玄関を出た。
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