火星 第二話
「僕の手首に巻いている携帯バイテクコンピュータを、僕の口元まで持ってきてくれませんか?」
サンはリンに依頼した。
「この蔓が携帯バイテクコンピュータなのね」
サンの片方の手首に巻いている蔓を珍しそうに見つめながら、リンはサンの前腕を持とうとして、ミャムが先を越してサンの前腕を持ち上げた。携帯バイテクコンピュータがサンの口元に迫った。リンはミャムを見て微笑んだ。
「バイテク遠方スキャナーを出せ」
サンは手首を少し曲げ、指先を伸ばして携帯バイテクコンピュータに付く小さな葉に触れ、指示を出した。
携帯バイテクコンピュータから蔓が伸び、その先に葉が付いた。サンは指先で蔓を押し、赤色の蝶の一匹を指し示すように蔓先の葉を向けた。その時、サンは手に力が入り始めているのを感じた。また、徐々にだが、全身に力が満ちていくのが感じられた。
「ゲノムをスキャンし、表示せよ」
サンの指示で、携帯バイテクコンピュータから伸びた蔓先に付いた葉が細胞分裂をし、八インチの葉状画面に分化した。
リンとミャムが珍しそうに覗き込んだ所で、葉状画面にスキャンされたゲノムが表示された。
「バイテクジャンピング遺伝子を赤色に染めよ」
サンの指示で、葉状画面に映るゲノムの所々が赤色に染まった。
「赤鬼もバイテクジャンピング遺伝子を持っている」
緊張するサンに、リンが聞きたそうな表情になる。察したサンは言った。
「後で全部説明します」
口元を緩めたリンは、サンから視線を逸らし、上空を舞う青色の蝶を見上げた。ブレスレットに分化しているラティを外し手に持つ。
「ラティ。刀に分化せよ」
ブレスレットが脱分化した後、刀に再分化した。その柄をしっかりと握り締めたリンは駆け出した。
青色の蝶の群れの下に行くと、ふわりと舞い上がり、手を差し伸べるように刀を振り、しなやかだが鋭く、青色の蝶を次から次へと斬っていく。刀が蝶を追いかけるのではなく、蝶が刀に引き寄せられているようだった。それはきっと、リンが作り上げる気流に蝶が捕らわれているからだと、サンは思った。
――まるでリン自体が気流になったかのようだ。カイとは全く違う刀捌き。自然を利用しようとするカイとは違い、リンは自然と共存している。だから、リンが握る刀はそのままリンの手であり、自然と一体化している。リンからは絶対に逃げられない。
「強い」
思わずサンが口に出した時にはもう、青色の蝶は全て地面に散っていた。
いつの間にかトトがミャムの傍らに座っていた。サンがリンの刀捌きに見惚れている間に、トトは赤色の蝶を全てやっつけていたのだ。
「ラティ。ブレスレットに分化せよ」
刀が脱分化した後、ブレスレットに再分化した。それを手首に巻いたリンは、サンの傍に戻った。
「サン。立てる?」
声を掛けて覗き込んだリンの横から、ミャムもサンの顔を覗き込み微笑んだ。その微笑みがあまりにも温かくて、サンの心も温かくなった。それと共に、全身に力が満ち溢れているのを感じた。
「はい。立てます」
サンは手足に力を入れ、立ち上がった。
「赤鬼はすぐに復活する。たぶん青鬼もすぐに復活する。行くよ」
リンはミャムを促し、素早く助手席に乗った。走ったミャムは運転席に座った。トトはドアを飛び越して後部座席に乗り込んだ。それを見習ってサンも、高く飛び跳ねて後部座席に座った。横に並んだサンを、トトは好奇心溢れる目で見上げた。
「ミャム。出発だ」
トトが知らせると、ミャムはアクセルを踏み込んだ。フルスピードで走っていく。
密林地帯に入り込んだ。縫うように細い道を抜けて行く。
体が前後左右に大きく揺れるが、サンは心地好かった。自然の樹木に囲まれているだからだ。だが、サンは思い出してしまった。知識として知っている火星とは全く違う景色だということを……これらは現象だということを……
突如、前方の視界が開けた。
息を呑んだサンの目に、色取り取りの花が入ってきた。そこは一面、草花が生い茂る草原地帯だった。
「綺麗だ」
うっとりと見惚れるサンだが、複雑な表情になる。
「これがカオスなんだ」
「サン。説明して」
リンが振り返ることもしないで言った。
行き成りでどきりとしたサンだが、整理した頭脳通りに説明を始めた。まずはサンがここに来た経緯と、今起こっている事態を大まかに説明した。
「私には父がいたのね」
感情を感じない抑揚のない声を出したリンは、前方を向いたままだった。
「全く思い出せない。だから、悲しみも湧き上がってこない」
語尾に記憶が置き換えられていることの切なさが滲んでいた。
「サン」
リンが振り返った。
「全て元に戻せる?」
サンはにこりと微笑んで頷き、勢いよく拳を差し出した。リンは拳の下に手の平を宛がった。サンが拳を開くと、リンの手の平に丸い球根が乗っかった。
「これは……」
きょとんとしたリンが、頭痛に襲われた。
「これは……これは……」
リンは何としてでも思い出そうとしていた。
「僕らの星」
叫ぶように言ったリンが、背筋を伸ばして上空を仰いだ。丸い球根を翳し、覗き穴に目を当てる。
リンの脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。
小高い丘の頂にあるナオキの家のベランダで、ナオキと並んで星空を見上げている。十歳の頃だ。
「ナオちゃん。どこ? 分かんないよ」
「もうちょっと右」
バイテク天体望遠鏡を覗く私。ナオキは丸い球根を覗いている。丸い球根は小型バイテク天体望遠鏡だ。小型バイテク天体望遠鏡から出る根をバイテク天体望遠鏡に繋ぐと、バイテク天体望遠鏡で見ている星空が、小型バイテク天体望遠鏡に映るという仕組みだ。同じ天体を一緒に見ることができるのだ。
「あっ。分かった。あれだね」
「僕が見つけた新しい天体だよ」
「ナオちゃんが見つけたの?」
「うん。今回、命名権をもらえたんだ」
「名前を付けられるの?」
「うん」
「なんていう名前にするの?」
「リン」
「僕の名前? ナオちゃんの名前は?」
幼い頃、私ではなく僕と言っていたこと、そして、その時ナオキが僕はいいんだと顔を横に振ったことを、リンは思い出した。
「僕らの星。名前は僕らの星にしようよ」
私の提案にナオキが嬉しそうに頷いて笑った。
「これで僕らは、もし離れ離れになっても、僕らの星の下、僕らはいつも一緒だよ」
「うん。いつも一緒だ」
ナオキが笑った。私も笑った。
「いつも一緒」
僕らの星を見上げ、僕らは一緒に声を上げ、見つめ合って笑った。だが、その笑顔がナオキの最後の笑顔になった。バイテク製品反対暴動で、ナオキの実父と実母が亡くなったからだ。
思い出したリンは咽び泣いた。
速度を落としたミャムは、片方の手でリンの肩を宥めるように摩った。
サンはリンの胸中を察し、心を痛めた。だが、どう声を掛けたらいいか分からない。心配げな表情のトトも同じだった。
「サン。私は考古学者なのよね。ナオキは宇宙物理学者で、一緒に論文を書いた……」
リンは全てを思い出せないことが、これほどまでに辛いと感じたことがないほどに、非常に苦しく感じていた。
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