第三章 火星

火星 第一話

 火星には地球の大気が存在していた。大気は現象だ。ナオキの理論通り、火星はカオスの世界になっていた。また、リンやトトやミャムの記憶は、完全に置き換わっている。

 「リン。大丈夫?」

 オープンカーを運転するミャムが、助手席のリンを心配そうにちらりと見た。ミャムは家政婦バイテクペットとしての本能なのか、反射で運転ができていた。記憶が完全に置き換わっても、本能は失われないのだ。

 紺色のスウェットスーツに身を包むリンは、時折、頭痛に襲われていた。頭痛が起る切っ掛けは決まっていた。懐かしく感じる物を見た時だ。懐かしさと一緒に頭痛が起り、何かを思い出しそうで思い出せない苛々に襲われるのだ。

 「ミャム。前方に見える山脈」

 指差したリンは、記憶の片鱗を思い出していた。

 山脈と言っても樹木などは一切生えていない。不毛の山々だ。

 「山脈にあるトサカ状の五つの山頂」

 ミャムはトサカ状の五つの山頂を捉えた。

 「五つの山頂の左から二番目の山頂を目指して」

 指差すリンに、ミャムは返事としてクラクションを鳴らし、アクセルを踏み込んだ。

 「リン。思い出したのか?」

 後部座席のトトが助手席を覗き込むように、垂直に飛び跳ねた。

 「場所だけよ」

 リンは前方を見遣ったままだ。

 「そっか。でも、だったら、その場所に行ったら、また何か思い出すかもしれないよ」

 「そうね」

 気遣いが嬉しかったのか、リンは振り向いた。ちょうど垂直に飛び跳ねたトトと目が合う。

 「おうとつが激しい道に入るから気を付けて」

 ミャムの促しに、リンは前方を向いた。程無くして、座席から腰が浮かんだり、前後左右に揺れたりしながら、オープンカーは走った。周りに草木は無いが、小石が多く、起伏の激しい平地だ。

 「きゃっ」

 声を上げたミャムが急ブレーキを踏んだ。リンの腰が高く浮き上がり、オープンカーは止まった。

 「何か轢いた」

 ミャムが両手で顔を覆った。

 真っ先にトトが飛び跳ねてオープンカーから降りた。続いてドアを開いて地面に立ったリンが驚いた。降りたすぐの所に、ミャムに似た毛むくじゃらが、横たわっていたからだ。

 「片方の前輪に轢かれたみたい」

 リンは毛むくじゃらの全身を見遣った。見た目には怪我はしていないようだった。

 「でもなんでこんなとこで寝ていたんだ?」

 ちょっと愉快そうにトトが言った。

 「寝ていたの?」

 リンは驚き顔になった。

 「うん。ミャムが轢く直前に見えたんだけど、地面にこの状態で寝ていたよ」

 早口で言ったトトは興味津々な目で、毛むくじゃらを飛び跳ねながらじっくり見回していった。

 「ミャムの顔に似ているけど、耳や被毛の色は僕と同じだ。でかい体に短パンを穿いているよ」

 毛むくじゃらを冷やかすトトの声を、聞くミャムの丸い耳はびくついている。だが、顔を覆っていた両手を外すと、ゆっくりと助手席側に移動した。開いたままのドアから、視線を向けようとするが向けられない。躊躇っている所に、リンの声が聞こえてきた。

 「ミャム。バイテク救急箱を取って」

 ミャムは眼前のボックスからバイテク救急箱を取り出した。そのまま正面を見据えたまま、最大限に手を横に伸ばして渡す。

 「しっかりしなさい!」

 一喝されたミャムはびくりとなった反動で視線が動き、毛むくじゃらの顔を見てしまった。

 「きゃあ」

 ミャムは絶叫した。トトが言っていたように、瓜二つの顔だったからだ。

 毛むくじゃらがその声で意識を取り戻した。瞳を忙しく動かす。

 「これから治療するよ。あなたの名前は?」

 リンが毛むくじゃらの胸に手を当てた。

 「サン」

 名乗ったサンだが、ぼうっとしていた。

 「サン。なぜあたなはこんなとこで寝ていたの?」

 覗き込んできたリンの顔を見て、カイを思い出したサンの意識が鮮明になった。目元がカイにそっくりだ。

 「あなたは誰ですか?」

 思わずサンは聞いていた。

 「私はリンよ」

 にこりと微笑んだリンの目元を見て、サンの頭脳は一気に活性化した。リンに会えた喜びを噛み締める。それと共に、伝えなければいけないことを思い出す。だが、沢山ありすぎて、サンは頭脳の整理を始めた。

 リンは大人しくなったサンの体の上に、バイテク救急箱から取り出した万能バイテク救急を十数匹乗せた。

 暫くして、バイテク救急箱の上面を見ていたトトが笑った。

 「治療するところが無いって」

 リンも上面に表示された文字を見た。

 「轢かれたのに……サンは頑丈なのね」

 笑いながらリンは、万能バイテク救急を仕舞おうとして、顔付きを変えているトトに気付いた。トトと一緒にバイテク救急箱の上面を見る。

 「未知の細菌の抗体がありますだって」

 呆気にとられるトトとリンだが、聞いていたサンはバイテクペットクローン2と戦って倒れた時のことを思い出していた。直感する。未知の細菌の抗体によって記憶は置き換えられていないのだと…

 リンは万能バイテク救急を仕舞ったバイテク救急箱を、助手席に座ったままのミャムに手渡した。

 「リン。宇宙ひもだ」

 後足で地面を蹴って警戒音を鳴らしたトトが、上空を前足で指した。

 サンは何事かと瞳を動かした。空に一筋の黒い線が真横に引かれているのを捉える。ファスナーだと確信したサンは、そのファスナーが宇宙ひもだったと気付き、急いで知識としてある宇宙ひもを思い出した。

 ――宇宙ひもは、ワープやタイムマシンや瞬間移動の原理を生む。だから、トトやミャムやラティ、僕も、宇宙ひもによってここに来たんだ。

 「ミャム!」

 一喝するように呼んだリンが言った。

 「あなたがサンの面倒を見る。いいわね」

 上目遣いでちらりとリンを見たミャムは頷いた。

 「来るわよ。トト」

 身構えるようなリンの声に、サンは何が来るのかと宇宙ひもに釘付けになった。

 ミャムはおどおどしながらサンの傍らに座った。サンは治療しなくてもいい体だと言われたが、戦える状態ではなかった。宇宙ひもで月から火星にやってきたせいか、未知の細菌の抗体のせいか、明瞭な頭脳とは裏腹に、全身に力が入らないのだ。

 ソニックブーム!

 ファスナーのように開いた宇宙ひもから、赤色の蝶が大群で飛び出してきた。

 「赤色?」

 色が違うだけで、青色の蝶と全く同じ大群に、サンは頭が混乱した。

 ソニックブーム!

 さっきとは微妙に違う爆音を、サンの鋭敏な聴覚が捉えた。瞳を動かす。

 トトが翔けていた。まるで空に階段や地面があるかのように、自由自在に空を駆け巡っている。そんなトトの四肢は消えていた。消えているように見えているのだ。それが意味しているのは、物凄い速さで四肢が空気を蹴っているということだ。トトは進化している。

 ソニックブーム!

 切れ味の良い爆音と共に、赤色の蝶が次から次へと地上に散っていく。

 トトが四肢と同じように、物凄い速さで長い耳を動かし、赤色の蝶を斬り落としているのだ。

 ソニックブーム!

 サンは最初に捉えたのと同じ爆音にぎくりとした。瞳を反対方向に動かす。

 開いた宇宙ひもから蝶の大群が飛び出してきた。それは青色の蝶だった。

 「青鬼だ」

 呟いたサンに、リンが反応した。

 「あの青色の蝶は青鬼だって言うの?」

 サンは頷いて答えた。

 「赤色の蝶は赤鬼よ」

 リンは目を丸くしてサンの顔を覗き込んだ。サンも動転したが、鬼という単語で確認したいことが頭を過った。

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