2.9 山の中の神殿跡

 その時。


「……あれ、は?」


 トールの視界に黒い服を着た複数の人影が過ると同時に、顔を上げたサシャの声が響く。


「何だろう?」


 何か、見つけたのだろうか? 視界に映り続ける、見覚えのある影達の俯いた表情を無理矢理振り落とすと、トールは、杖で草を掻き分けるサシャが向かう方向に目を向けた。


「これ……」


 木々の間で崩れかけた煉瓦壁に、サシャと同時に目を見張る。殆ど崩れかけた壁に残った漆喰の上に描かれていたのは、北辺ほくへんの森の中にあった温泉の半分になった壁に描かれていたものと同じ、古代の神々の姿。


[ここ、は]


 図書館の廊下と同じように穿たれた細い隙間に、頷く。ここはおそらく、快楽のために滅びた、南の古代の民が建設した、神殿の跡。


 トールと同じように鼓動を高めたサシャが、そっと、煉瓦が敷かれた神殿跡に足を踏み入れる。


「これ、……北辺の修道院の裏手にあった、古代の神殿跡に似てる」


 嘆息にも似た息を吐いたサシャが、唐突に屈む。草の下に落ちていた木製の小さな像を拾い、近くの壁の空いた隙間に優しく置いたサシャに、トールは正直首を傾げた。


[良いのか?]


 サシャが信仰している唯一神は、他の神を崇めることを禁じていたはず。ずっと放置されていたにしては形がしっかりと残っている、小さくも精巧に見える、翼のある顔の無い像を見つめるサシャに、疑問を言葉にする。


「『昔の神様は、崇めず、敬いなさい』。祈祷書にはそう書いてあったよ」


[そうだったっけ?]


 『祈祷書』であるはずのトールに書かれている文字は、トールには読めない。中々覚えることができない事象に、頭を掻く。


 好奇心に満ちた瞳で何度も辺りを見回し、そして静かに古代の神殿跡から出たサシャに、トールは小さく息を吐いた。


 次の瞬間。


「えっ?」


[なっ!]


 落ちてきた大粒の水滴に、サシャと同時に声を上げる。さっきまでは確かに、晴れていたはずなのに。戸惑いを、トールは素早く振り切った。


[サシャ!]


 雨宿りできる場所を、探さないと。切りつけるような冷たい雨に身を震わせたサシャの、青白くなった頬に、頷く。どっしりとした樹冠を持つ木の下なら、雨宿りができるだろうか? そう考え、辺りを見回した次の瞬間。


[なっ!]


 トールの視界が、宙を泳ぐ。


 全身を貫いた衝撃と、視界を覆う土色に、トールは思わず呻いた。


 サシャが、濡れた地面に足を滑らせた。それだけを、何とか理解する。そのサシャは、……何処へ?


[サシャ!]


 トールの声は、木々の間に響かない。


 しかしすぐに、トールから少し離れた場所に白い影を認め、トールは少しだけ息を吐いた。


[サシャ!]


 届かないと分かっていても、叫ぶ。


 僅かに平らな場所で、ぐったりと手足を伸ばしたサシャの、身動き一つしない身体に容赦無い雨粒が突き刺さる様を、トールは見つめることしかできなかった。




 どのくらい、サシャを見つめ続けていただろうか?


 薄暗い視界が不意に、薄暗さを倍増させる。


 何が、起こった? 気怠く顔を上げると、雨でぼうっとした視界に、大柄な人影が映った。


 あの、人影は、……見たことがある。雨に濡れそぼつサシャを確かめる幅のある背に、記憶を探る。あの、薄暗い中でも映える、白に近い金色の髪は、まさか。


[……!]


 振り向いてトールを見た影が、記憶に合致する。間違いない。あの北辺の荒れ地で、サシャにちょっかいを出すテオという卑劣な輩からサシャを助けてくれた、そして岩塩と引き換えに、サシャから半ば強引にサシャの母の形見を奪っていった者が、目の前にいる。トールを拾い上げるその影の、手の固さに、トールは思わず震え上がった。『冬の国ふゆのくに』に暮らすはずの人物が、何故、今、ここに?


 震えるトールの背が、冷たいものにあたる。


[サシャ!]


 触れたサシャの冷たさを確かめる前に、トールの視界は不意に高くなった。


 助けて、くれるのか? 腹にトールを乗せた、気を失ったままのサシャを横抱きにして雨の中を進む大柄な影を確かめ、身構えたまま息を吐く。見上げた影の、顔の表情は読めない。それでも、サシャを助けてくれていることは、確か。大丈夫、だろう。力を抜いたトールの意識は、徐々に、雨音と一体化していった。

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