2.10 『冬の国』の人間タトゥ

 ノックの音に、眠るサシャから目を離す。


 トールと同じように顔を上げたユーグの視線を追うと、扉を開けたアランの広めの肩幅が見えた。


「少し、良いか?」


 眠り続けるサシャを確かめたユーグが頷く前に、アランは、背後にいた人影に頷く。アランに続いて、サシャとユーグの部屋に入ってきた大柄な人物に、トールは一瞬、息を止めた。


〈この人、は〉


 アランよりも背が高く、眠るサシャより少しだけ血色の良い、白っぽい人物は、北辺ほくへんでサシャの前に現れた人物。あの卑劣なテオを追い払ってくれたけど、サシャの母の形見の釦を『冬の国ふゆのくに』の岩塩と半ば無理矢理取り替えた人物。そして、……先日、雨の山中に現れ、サシャを助けてくれた人物。北向きたむくの北にある『冬の国』に暮らす人物が、この場所に何の用があるのだろう。


「サシャは、……大丈夫そうだな」


 身構えたトールの目の前で、サシャが眠るベットに近づいたアランが、汗の浮いたサシャの頬を優しく撫でる。


「はい」


 雨で泥濘んだ山道で足を滑らせ、強い雨に晒されたサシャは、捻った足の怪我と風邪が原因の熱で臥せっている。医術を修めたアランが処方した薬のおかげで、苦しさはだいぶんましになってきているように見えるが、まだまだ。何度も確かめたサシャの血の気が見えない頬を見やり、トールは溜息をついてアランと、その後ろで口を閉ざしたままの『冬の国』の人間を見上げた。


「ユーグ」


 サシャから手を遠ざけたアランが、響きの違う言葉でユーグに話しかける。『冬の国』の言葉だ。トールがそのことに気付くと同時に、アランは、立ち尽くしたままの大柄な人物の方を右手で示した。


「こちらは、『冬の国』のタトゥ」


 アランの紹介に、頷いたユーグが口を開く。


「ありがとうございます。二日も行方不明になっていたサシャを、見つけ出してくださって」


 二日も、迷子だったのか? ユーグが紡いだ『冬の国』の言葉に、思考が混乱する。サシャが足を滑らせてから、目の前の大柄な人物、タトゥが、雨晒しになったサシャとトールを助けてくれるまでの時間は、どう思い返しても長くて一晩。古代の遺跡を見つけたサシャが落ちていた像を隙間に置き、遺跡を出るまでに掛かった時間も、短かった、はず。なのに。……どういうことだ?


「サシャに、渡したい物があるそうだ」


 戸惑うトールの耳に、アランの、トールを更に戸惑わせる『冬の国』の言葉が響く。思考が散らかったままのトールのすぐ側まで近寄った、タトゥと呼ばれた人物は、サシャの白い髪を意外な優しさで撫でてから、トールの側に小さな塊を二つ置き、そしておもむろに、懐から取り出した、『本』であるトールの縦の長さほどの細めの塊を一つ、トールの真横に置いた。


「えっ」


 タトゥが置いた小さな塊の方を見たユーグが、絶句する。


「この、釦は、……エリゼの」


「この者には、『冬の国』の血が入っているのか?」


 小さな塊の一つを手にしたユーグの上から、タトゥの、何の色も無い声が響いた。


「はい」


 タトゥの方に顔を上げたユーグが、大きく頷く。


「私と、兄のエリゼの母は、『冬の国』で困っていたところを私の父に助けられて、北辺に来たと、兄は言っていました」


「それで、あの石を持っていたのだな」


 サシャの、もう一つの出生の秘密に驚くトールの横で、タトゥは肩より長い薄い金色の髪を小さく振った。


「この石は、『冬の国』に伝わる、願いを一つだけ叶える、『魔力』を持った『石』だ」


 ユーグが持つ小さな塊を指差したタトゥが、言葉を紡ぐ。


「この石のおかげで、岩塩の在処を知ることができた」


 タトゥが属する一族の支配地では、前の春から、交易に必要な岩塩が取れなくなっていた。新たな岩塩鉱を探さなければ、他に交易品の無い一族は早晩飢えてしまう。一族を挙げて新たな岩塩鉱を探しはしたが、どこを掘っても、新しい岩塩鉱となりそうな場所は見つからない。一族の支配地以外でも、岩塩の枯渇が起きているらしい。その噂に絶望したタトゥは、残っていた一袋の岩塩を持ち出し、一族の支配地から一人、逃げた。だが、『冬の国』の国境を越えてすぐ、サシャに、サシャが持つ『魔力』を秘めた石に出会った。その『願いを一つだけ叶える』魔力を持った石を持ち帰ったおかげで、タトゥの一族は新たな岩塩鉱を得ることができた。


「なるほど」


 タトゥの告白を聞いたアランが、頷く。


「それで、前の夏は『冬の国』の岩塩売りが来なかったか」


「今は、他の支配地でも、また岩塩が見つかるようになっている」


 そう言って小さく口の端を上げたタトゥに、トールは何故かほっと胸を撫で下ろした。


「『魔力』は無くなってしまったが、この石は、この子にとって大切な物だと感じたから、……返しに来た」


 そのトールの耳に、タトゥの言葉が続いて響く。


「ありがとうございます」


 タトゥの言葉に、ユーグが大きく頭を下げた。


「母の形見が戻ってきたこと、サシャが知ったら喜ぶでしょう」


 お礼を言ったユーグに大きく頷いたタトゥが、再び、トールの方を見る。


「短刀は、一族の長からのお礼の品だ」


 トールの横の短刀にちらりと目を向けたタトゥは、次に、トールの方を鋭く睨んだ。


〈なっ……!〉


 切り裂くようなタトゥの視線に、全身が凍る。


 俺が、……何をした? トールの思考が疑問でいっぱいになる前に、タトゥはトールに背を向け、用件は済んだとばかりに部屋から去って行った。

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