1.40 砦に潜む想い②

 どのくらい、暗がりを見つめ続けていたのだろうか?


 サシャの寝息とは明らかに異なる、扉が僅かに軋む音に、はっと意識を取り戻す。顔を上げると、アラン師匠とは明らかに異なる、上背はあるが細身の影が、音も無く、サシャが眠る部屋へと滑り込んできたのが、見えた。


 誰だろう? サシャの怪我を心配して疲れたのであろう、サシャが眠るベッドの端に突っ伏して眠るユーグを横目で確かめ、警戒に全身を固める。アラン師匠の代わりに、何か温かい飲み物を持ってきてくれたのだろうか? 眠るユーグの後ろをすり抜け、荒く息を吐くサシャを見下ろしたその影を、凝視する。いや、そのようなものは、持っていない。その代わりに、手にしていたのは。


[サシャっ!]


 危ないっ! 誰にも聞こえないと分かっていても、大声で叫ぶ。しかし『本』であるトールには、サシャに向かって煌めいた凶刃を止めることはできない。


 自分の不甲斐なさをトールが意識する前に、眠っていたはずのユーグがサシャの上に覆い被さる。振り下ろされた凶刃がユーグに触れる前に、トールの周りに温かい液体が散らばった。


「何をしている、従兄殿っ!」


 この砦の隊長、セレスタンの強い声が、この場にいた全ての人の動きを止める。


「我が客人に仇成すとは!」


 セレスタンの強靱な腕が、サシャに向かって凶刃を振り下ろした影の襟を掴んだのが、トールが置かれている位置からでもはっきりと見えた。


「何故、そのようなことを!」


「サシャが、この子が、あなたが弑したあなたの双子の兄、オーレリアンの息子だと気付いたから、ですね、ウスターシュ殿」


 細身の影の襟を掴んで強く揺するセレスタンの声に、ユーグの、小さく静かな声が答える。


「なんと」


 ユーグの言葉に、セレスタンの腕は一瞬だけ、その力を失った。


「それは真か、ユーグ殿」


 その一瞬で外れたセレスタンの腕から逃れ、へなへなとその場に尻餅をついた細身の影を睨んだセレスタン隊長が、今度はユーグにその鋭い瞳を向ける。


「はい」


 その視線を静かに見返したユーグは、躊躇いがちに、しかしはっきりと口を開いた。


 サシャの母エリゼと、父オーレリアンは、遊学していた帝都ていとの大学で知り合った。平民のエリゼと、北向きたむくの王族の一人であるオーレリアン。身分違いの愛ではあったが、オーレリアンの父、北向の北辺に位置するこの砦を守っていた先々代の隊長、北向の老王の第二王子は、エリゼの博学を知り、オーレリアンとの契りを許可した。だが。父親の部下として砦で暮らしていたオーレリアンの双子の弟、ウスターシュが下人の一人を森で虐め殺した現場を、オーレリアンとエリゼは見てしまう。拷問の痕のある遺体が幾つも、森の中に放置されていたことを、エリゼもオーレリアンも知っている。だが、森の中で弟を咎めたオーレリアンは返り討ちに遭い、全てを見てしまったエリゼは、身籠もった子供を守るために生まれ育った森の聖堂に隠れた。幸いなことに、息子の一人がしでかしたことを知った砦の先々代の隊長は、オーレリアンは『冬の国ふゆのくに』に布教に言ったと偽りを話し、自身は砦の隊長を辞してウスターシュと共に北都へと戻った。そしてエリゼと、エリゼから事情を聞いたエリゼの父マルタンと弟ユーグは、エリゼとオーレリアンの子供を守るために、子供に、北向王家出身である当時の神帝じんていサシャと同じ名を付け、父親については秘密を守り通した。


「……貴様!」


 全てを話し終えたユーグが口を閉じた次の瞬間、セレスタンの怒りに満ちた腕が、気配を察して逃げようと腰を上げたサシャの父方の叔父であるらしい細身の影、ウスターシュの襟を再び掴み上げる。


「貴様は! 都だけではなく、この場所でも、そんな下劣なことを為していたのかっ!」


 襟元を締め上げられ、それでも抵抗するように腕を伸ばしたウスターシュの細い身体を、セレスタンは力任せに壁に投げつけた。


「しかも血を分けた兄まで弑するとはっ!」


 明日、処刑してやる。震える声と共に、セレスタンがウスターシュの後ろ襟を掴む。そのまま、ウスターシュを引きずって部屋から出て行くセレスタンの怒りに満ちた背を、トールは半ば呆然と見送った。


 そして。


「……良かった」


 緊張を解き、僅かに微笑んだユーグが、騒ぎを知らず眠り続けているサシャの白い髪をそっと撫でる。


 とにかくこれで、……終わったのだ。ユーグの頬を流れる涙を見つけ、トールは心から、ほっと胸を撫で下ろした。

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