1.36 柔星祭の後

 その三日後。


 静かになった図書室で、トールは、三日前に続いて歴史の本を読んでいた。


 今日のリュカは、まだ大人しく、アラン師匠から借りっぱなしの大きな石板に、子供用の算術の本に載っている図形を写している。ガタガタの線は相変わらずだが、図形自体は、ちゃんと三角形や四角形になっているようだ。リュカの父親は、計算を得意とする『星読ほしよみ』だと言っていた。父も母も理系だったトールと同じように、リュカも、神帝じんてい候補に選ばれなかったら『星読み』になることを志望していたのだろう。急に曲線を描き始めたリュカの線に、トールは小さく頷いた。


 サシャの方は、ここ二日間できなかった聖堂の掃除をしている。トールの裏表紙裏にはリュカの名も刻まれているから、規則通りサシャがトールを持ち歩いていなくても、特にジルド師匠に対する言い訳は立つ。


 『星読み』達がいた二日間は、学園祭の時より大変だった気がする。窓の向こう、曇った空と静かになった中庭を確かめ、ほっと息を吐く。ジルド師匠の怒号のもと、『星読み』達の世話に明け暮れていたサシャはそれでも、時間を見つけて計算担当の『星読み』達の仕事を見学させてもらっていた。


「『星読み』の人達って、すごい」


 トールと二人きりになった時の、サシャの呟きが、脳裏を過る。


 サシャの胸ポケットから見た、トールの世界とは異なる数字を用いた膨大な計算は、トールの世界ならコンピュータを用いれば即座に結果が出るだろう。その膨大な計算を暗算でこなす『星読み』達の卓絶した計算能力には、確かに「すごい」という言葉しか出てこない。


 『星読み』という進路は、サシャには合っているのだろうか? 不意の思考に、微笑む。森の聖堂でトールが教えた対数に、サシャは目を輝かせていた。アラン師匠が言っていた医術の道や、サシャが希望するサシャの母と同じ先生になることも良いかもしれないが、計算能力を磨いて『星読み』になるのも、サシャには良いのかもしれない。……身体の弱いサシャが、夜の間ずっと星の観測を行うことができるかどうかは、分からないが。


「ジルドっ!」


 不意に響いた、アラン師匠の罵声に、思考が途切れる。


 窓の外に目を移すと、ジルドの細い影とアランの幅広の身体が、台所がある建物から出てきたのが見えた。


「あの針金を曲げた器具は、サシャの工夫だろう!」


 アランに背を向けたジルドの肩を、アランの太い腕が掴む。


「パンケーキの工夫も、サシャのものだ! なのに何故、『自分の工夫だ』などと星読み達に」


「放してください、アラン」


 ジルドに詰め寄るアランの真っ赤な頬に対し、ジルドの頬は普段通りの青白さを保っていた。


「それがどうかしたのですか?」


 あくまで平静な、ジルドの言葉に、アランの手がジルドから外れて落ちる。呆然と見守るトールの視界から、ジルドの細い影はあっという間に、消えた。


 おそらく、トールがサシャに教えた、あのふわふわなパンケーキの作り方を、ジルドは盗み取っただけではなく自分が考えたレシピだと偽ったのだろう。ジルドとアランの会話から、それだけを理解する。続いて、トールの心に湧き上がったのは、ジルドに対する怒り。


「……」


 不意に、小さな手が、トールに触れる。


 サシャが、聞いていた? 顔を上げたトールの視線は、俯くリュカの赤茶色の瞳とぶつかった。


「……」


 何も言わず、悲しげに首を振るリュカの表情に、冷静さを少しだけ取り戻す。二人の師匠の会話を、サシャは聞いていなかっただろうか? 窓から見える、サシャが掃除をしている聖堂付近を確かめ、トールは首を横に振った。……多分、大丈夫、だと、思う。


 だが。ジルドの所業を、サシャもいつかは知ることになるだろう。薄ら寒い感情が、トールの全身を支配する。その時に、サシャは、どうするか? ……自分だったら? サッカー部で飛び交った讒言から、部を辞めることで逃げたように、小さくなって諦めるしか、ないのだろう。情けないくらいに縮小した感情に、トールは、俯いたまま自分の勉強に戻ったリュカと同じように、首を横に振っていた。

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