1.34 柔星祭の前のあれこれ②

 図書室の左斜め前にある、これも石造りの建物の半地下に、修道院の台所はある。


 前と後ろで形がほぼ同じエプロンの前後を逆にし、トールが入っているポケットを背中側に持っていくと、誰もいないが点いている調理用の暖炉の埋み火を、サシャはそっとかき立てた。


「重いですが、これ、温めてください」


「はいっ!」


 暖炉横の引っかけ釘から外した、柄の長いフライパンを、サシャがリュカに渡す。柄の扱いに四苦八苦しながら、それでも上手にフライパンの焼く部分を暖炉の火の上に下ろしたリュカの横で、サシャは卵を割り、器用な手つきで卵白だけを小さなボールに流し入れた。


 トールが自分自身に描いて示した通りに、修道院の倉庫から拾ってきた適当な太さの針金をサシャが曲げて作成した泡立て器が、ボールの中の卵白を泡立てる。森の聖堂に閉じ込められていた時にトールが教えた手順通りに、ふわふわのパンケーキの種を作るサシャの手さばきを背中越しに確かめ、トールは感嘆に口を開いた。滑らかな麻糸を績むユーグにも手先の器用さを感じたが、トールの言葉と絵だけでパンケーキに必要な器具を作り、トールの世界で作られていたパンケーキを作るサシャも、ユーグに劣らず手先が器用。


 卵黄と、少しの粉を卵白に加え、さっと混ぜたパンケーキの種が、リュカが温めたフライパンに流し込まれる。


「うわぁ!」


 ふわふわと盛り上がる小さなパンケーキに、リュカが感嘆の声を上げた。


 見た目にはボリュームがあるが、粉が少ないのでお腹には溜まりにくい。サシャが盛り付けたパンケーキに、何度も食べさせられた妹の失敗作を重ね合わせる。餅を入れると、お腹に溜まるパンケーキになるらしいが、サシャに聞いた限りでは、この世界には『餅』は無さそうだ。


北向きたむくの下流にある秋津あきつでは、お米、作ってるけど」


 『餅』のことを尋ねた時のサシャの言葉を、思い出す。


「『餅』って、聞いたことないし、本にも載ってない」


 確か、大麦には、糯性のものもあったはず。幼い頃に大家族で暮らしていた暖かい田舎で、祭の日に作っていた餡入りのお菓子の上に飾られた米粒の鮮やかな色が、脳裏を過る。しかしその思い出を、トールはサシャに話すことができなかった。


「サシャ!」


 不意に響いた、苛立った声に、我に返る。


 顔を上げると、ジルド師匠の細い影が、パンケーキを食べているサシャ達の方へ向かってくるのが、見えた。


「何をしているのです!」


 普段以上に青白いジルド師匠の顔は、頬だけが赤い。


「『星読ほしよみ』の方々が到着しているのですよ。片付けて、宿舎の用意を急ぎなさい!」


「は、はいっ!」


 ジルド師匠の迫力に打たれたサシャが、飛び上がるように席を立つ。


「台所の片付けも忘れないように!」


 鋭い言葉を投げつけるだけ投げつけると、現れた時と同じように怒りを纏ったまま、ジルドは台所から去って行った。


「なんであそこまで怒っているんだ?」


 その後から、小さな、呆れ声が響く。


「『星読み』達が早めに到着することは、食料の運び込みの時に分かっていたことなのに」


 冬至祭とうじのまつりの時に、南の地で観測された星の数値が予想と少しだけずれていた。そのずれの理由を探り、数値を是正するために、『星読み』達は早めに、この修道院の裏手に位置する山の頂の一つにある観測所に向かうらしい。その説明を一言で行った、ジルドの後から台所に現れたサシャのもう一人の師匠アランは、肩を上げて歩くジルドの背に僅かな嘲笑の色を見せた。


「ま、こちらは一つ一つ片付けるか」


 そのアランの手が、サシャが残したパンケーキを一枚掴む。


「片付けは俺がやっておくから、サシャは『星読み』達の宿舎を整えな」


「え、でも」


 アランの提案に、サシャは台所を見回した。余ったパンケーキの種が入ったボールと、焦げで汚れたフライパンが、作業台の上で洗われるのを待っている。


「旨いパンケーキの礼だ」


 俺も腹拵えをしてから手伝う。にやりと口の端を上げたアランがサシャを見下ろす。


「人手が足りないんだから、手の空いている者が手伝うのが道理」


「ぼくも手伝う!」


 アランの言葉に続いて、元気なリュカの言葉が、狭い台所に響いた。


「え、でも、リュカにまで」


「まあ、その辺は置いておいて」


 今にも台所を飛び出しそうなリュカの肩を、アランの太い手が掴む。


「このパンケーキ、後で俺にも作ってくれ」


「あ。……はい!」


 口の周りに付いたパンケーキの欠片を太い指で拭うアランに一礼すると、サシャは身軽に台所から飛び出した。

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