1.11 エプロンのポケットと母の形見②

 と。


「トールのこと、やっぱり僕にしか分からないみたい」


 縫い針を針山に刺したサシャが、トールの方へと手を伸ばす。何か、問題でもあるのだろうか。曇ったように見えるサシャの瞳に、トールは身体を固めた。


 だが。


「トールは、こことは違う世界から来たの?」


 次に響いた、サシャの疑問に、ほっと緊張を解く。


[どうして、そんなことを聞く?]


「昨日、トールを抱き締めて眠った時に、変な夢を見たから」


 飛ぶような速さで走るたくさんの四角い塊と、壁の一面がキラキラと光っている、修道院の聖堂よりも大きな建物。サシャが話す、夢の中で見たものに、心の中で大きく口の端を上げる。どちらも、トールがこの世界に来る前に、見ていたもの。


[壁一面が硝子窓の建物があるんだ]


 『飛ぶような速さで走る四角い塊』のことにはあえて触れず、大学のサテライトキャンパスが入っていた現代的な建物のことを一言でサシャに説明する。


「が、硝子?」


 予想通り食いついてきたサシャの声に、トールはこっそり微笑んだ。


「硝子、って、聖堂の窓に嵌め込んである、あれ? でも、壁になるような大きな硝子、って、作れるの? 透明な硝子も」


[大きいのは、材料と燃料と広い土地と、……まあ色々必要。表面を磨いて綺麗にする必要もあるし]


 説明し難い機械のことは省き、サシャが理解できそうな言葉を選んで説明する。


[透明な硝子は、鉄とマンガンを同じ量にした材料を、上手い具合に燃焼すれば]


「マン、ガン?」


[あ、えーっと]


 原子とか、電子や陽子とか、説明して分かるだろうか? 首を傾げたサシャに、思考が止まる。トールの世界とサシャの世界とで、物質の名前が異なる可能性も、ある。


[鉄、とかは、大丈夫か?]


「うん」


[マンガン、っていうのは、鉄と同じように、物質を構成する原子の名前]


 とりあえず、それだけ言ってみる。


「そう、なの?」


[硝子を作る時に使う灰の中に入ってるんだ]


「そう?」


 でも。首を傾げたままのサシャの言葉が、固まる。


「この世界の全てのものって、神様がお作りになったんじゃないの?」


 しばらく考えてからのサシャの言葉に、今度はトールが固まった。危ない。歴史の本で見た、『異端審問』や『魔女狩り』に関する記述が、脳裏を過る。サシャの世界の『神』がどのようなものかは分からないが、サシャの信仰が『異端』だと疑われたら、サシャの命が無い。だから。


[神様が、原子を作って、それを組み立てて世界を作った、って感じかな]


 なるべく正確に、誤魔化す。


「そう、なの?」


 しかしサシャは、上手く誤魔化されてくれたようだ。にっこりと笑い、再び縫い針を手に取ったサシャに、トールも大きく微笑んだ。


「雨蓋は、これで良し、っと」


 できあがったポケットにトールを入れ、フラップの具合を確かめたサシャが、トールを取り出してから再び道具箱の中に手を伸ばす。


「今日洗った分にも、同じポケットを付けるとして。……飾りが欲しい、かも」


 そう言ってサシャが取り出したのは、少し厚みのある、円形のもの。


[釦、か?]


 サシャの手の中で滑らかに光る二つの物体を、トールは眩しく眺めた。


「これ。母上の、……形見なんだ」


 手の中の釦を、縫ったばかりのポケットの上に乗せたサシャが、小さく呟く。


「春になる前に、亡くなってしまった、けど」


[良いのか? そんな大事なものを]


「うん」


 ずっと、母上と一緒にいたいと思っていた。サシャの告白に、心が痛くなる。


[どんな人、だったんだ?]


 トールは小さく、そう尋ねた。


「うん」


 サシャの母の名は、エリゼ。修道院や、森や川下にある村々の学校で様々なことを教えていた。薄い色をしたサシャの唇が、言葉を紡ぐ。病気のために、大学教授資格は得ることができなかったが、天文や数学といった自由七科のみならず、上級科目である神学や法学の初歩についてもしっかりとした知識を持っていたという。


「母上はね、昔、帝華ていかの都の大学に行ってたんだって」


 母は、帝都ていとで勉強することで、優れた知識を得た。だから自分も、できれば帝都で、勉強したい。静かな、しかし決意に満ちたサシャの言葉に、トールは頷くしかなかった。


 同時に思い出したのは、トール自身の母のこと。トールの母は、トールが通っていた大学の准教授。時間がある時にはいつも本を読んでいた、厳しいけれども優しさも、確かに持っていた人。その母を、また、……泣かせてしまった。冷たさが胸を過り、トールは慌てて首を横に振った。


[そう言えば]


 苦しさを紛らわせるために、ボタンをポケットに付けるサシャに、なるべく軽めに問う。


[叔父さんは、何処に行ったの?」


 泉に行くと、言っていたが。トールの問いに、サシャが笑う。


「温泉」


 次に響いた、聞き覚えはあるが違和感も覚える単語に、トールは目を瞬かせた。


[温、泉]


「うん」


 サシャの世界を大昔に支配していた『古代人』は、無類の綺麗好きで、種も仕掛けも無いのにお湯が湧き出す泉を、様々な場所に建造したらしい。その名残が、修道院からの帰り道で通った、あの幻覚が見える森の中にある。サシャの言葉に再び背筋が寒くなり、トールは慌てて首を横に振った。小野寺おのでら伊藤いとうの幻覚は、……できればあまり見たくない。


「古代人が残した遺跡の中では、不思議なことが起こるんだって、アラン師匠は仰ってた」


 トールの気持ちには構わず、サシャは言葉を紡ぐ。


「もしかすると、トールも、古代人が残した『魔法』の一部なのかも」


[俺が、『魔法』?]


「うん」


 普通の『本』とは、こんな風に話すことはできないよね。理屈っぽいサシャの言葉に、大きく頷く。


「『魔法』とか『魔力』っていうのは、理屈では説明できない不思議な力のことだって、修道院の図書室にあった本に書いてあった」


 トールは、理屈では説明できない『力』。だから、トールは『魔力』を持った本。すなわち『魔導書』。ある意味論理的なサシャの結論に、トールは思わず納得の頷きを返していた。サシャは、賢い。


「お昼食べたら、温泉、一緒に行こう」


 戻ってきたユーグの気配を窓越しに察したサシャの声が、急に小さくなる。


「豆、煮えてるかな」


 ユーグから言われたことを思い出し、急いで暖炉の方へと向かったサシャの小さな背を、トールは微笑んで見送った。

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