1.7 夜に想う

[……静かだ]


 規則正しいサシャの寝息と、時折小さく鳴る暖炉の火の音に、息を吐く。


 どうして自分は、この場所に、『本』として居るのだろう? 疑問のままに、トールは、これまでのことを思い返していた。……そう、確か、今日は、午後から、駅前にある大学のサテライトキャンパスで行われる講義を聴きに行った。


 一週間に一度、サテライトキャンパスで行われる講義を聴きに行く日は、少し早く大学を出て、駅前商店街にあるハンバーガーショップで昼食を摂ることにしている。今日も、同じ講義を受講している伊藤いとうと一緒に、伊藤が持っていたクーポンを使ってハンバーガーのセットを食べた。


「そう言えば、小野寺おのでら、最近サッカークラブ来てないよな」


 薄汚れた窓硝子を洗う細かい雨を見ながら話したのは、小学生の頃から通っているサッカー&フットサルクラブのこと。夏休みに入ったら、親交のある他の町のサッカークラブとの親善試合を組もう。そんな話の後で、幼馴染みの話になったことを覚えている。


「教育実習の授業、単位の取得が大変らしい」


 工学部建築学科所属の伊藤と、教育学部の学生である小野寺。大学生になって初めて、伊藤と小野寺は『離れた』場所に通うことになった。いや、同じ大学なのだから『離れた』は大袈裟か。しかし伊藤にとっては、『工学部』と『教育学部』では、同じキャンパス内にあっても『離れた』感覚が強いらしい。それでも、一年生の頃はキャンパス内で二人が一緒に勉強している姿を見かけることもあった。だが、二年生に上がり、専門的な授業が多くなると、小野寺は、同じ学部の仲間達と一緒に居ることが多くなっていた。


 何とか、しなければ。トールの心が、小さく叫ぶ。噂によると、教育学部で小野寺と一緒にグループ活動をしている男子の一人が、小野寺に好意を押しつけているらしい。伊藤のことも小野寺のことも、よく知っているトールだからこそ、できることをしなければ。……なるべく、早く。


 だから。


「小野寺に、きちんと、気持ちを伝えるべきだよ」


 ポテトを半分食べ残し、口をへの字に曲げている伊藤の背を、言葉を使って強く押す。


「大丈夫さ。小野寺は、伊藤のこと好いてるし、たとえ伊藤よりも好きなやつがいたとしても、伊藤の好意を他の人に言いふらすなんてこと、するやつじゃない」


「……うん。そうだな」


 今日、講義が終わったら、小野寺に会ってくる。そう言って、冷めたポテトを口に入れた伊藤は、確かに、覚悟を決めていた。そしてその覚悟は、サテライトキャンパスでの講義が終わり、トールと別れた時にも、確かに、伊藤の中に存在していた。


 伊藤と別れてから、トールは、サテライトキャンパスが入っている建物の中にある市立図書館で、前期試験とレポートのための勉強をした。それから、強くなった雨の中を、家まで帰った、はず。


[……!]


 帰宅途中にある交差点で目に入った強い光を、まざまざと思い出す。あの交差点の十字路は直角ではなく、危ない曲がり方をする自動車が結構いた。だから、信号待ちをする時はいつも、車道から一番遠いところに立っていた、はずなのに。交差点を危うげに曲がったあの光は、何故か真っ直ぐに、トールに向かってきた。


 おそらく、トールと別れた後、伊藤は小野寺に好意を告げただろう。考えたくないことから気を逸らしたトールの心が、疼く。そして小野寺は、確率1で、伊藤の好意を受け入れただろう。そのことに関しては、トールは正直ほっとしていた。誰かに取られるよりは、伊藤と小野寺が一緒に幸せになってくれる方が、ずっと良い。……自分が、その幸せを見届けることが、できなくても。


[……!]


 涙が、零れ落ちる。


 トールの最後の記憶は、目を射た光だけ。だが、自分が、『異世界』であると推測される、この、見知らぬ場所に居る、と、いうことは。


「……トール」


 不意に、温かな腕に包まれる。


「大丈夫?」


 眠っていたはずのサシャの腕が、トールをしっかりと抱き締めていた。


[……う]


 涙を、止めなければ。唇を噛み締め、瞳を閉じる。しかし、零れる涙は、……止まらない。


「大丈夫」


 トールを撫でるサシャの手が、優しい。


 見知らぬ世界の、トールを知るただ一人の少年の胸の中で、トールは涙が涸れるまで泣き続けた。

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