1.2 一人の少年と二人の師匠

「サシャ」


 だが。


 トールの言葉は、苛立った低い声に遮られる。


「掃除は終わったのですか?」


 声の方を向くと、『鶴のような』という形容詞がぴったりの、長身の影を持つ人物がつかつかと、トール達の方へと歩み寄るのが見えた。


「おや、その『本』は?」


 トールを見下ろす、疲れが見える濃い色の瞳に、何故か背筋に緊張が走る。


「本棚に、挟まっていました」


 その緊張が、サシャと呼ばれたこの少年にも伝染ったのだろうか。小さく震える声と共に、少年はトールを長身の人物へと手渡した。


「『祈祷書』のようですが、持ち主は?」


 固く細い指が、トールの頁をめくる。


「分かりません。ジルド師匠」


 サシャと呼ばれた少年の指とはベクトルが異なる、ジルドと呼ばれた長身の人物の指の冷たさに、トールの身震いは中々止まらなかった。


「確かに、持ち主の名前が書かれていませんね」


 トールの裏表紙裏を確認したジルドが、サシャに向かって重く頷く。


「『煌星祭きらぼしのまつり』の時に来た『星読ほしよみ』の誰かの忘れ物でしょう。私が預かっておきましょう」


 そしてそのまま、ジルドという名の長身の人物は、トールを小脇に抱え、サシャの方に背を向けた。


「図書室の掃除が済んだら回廊の掃除もやっておきなさい、サシャ」


 このまま、あの少年と離れてしまうのか。予感のような焦りが、全身を駆け巡る。それは、……ダメだ。根拠は無いが、今の俺には、……あの少年が、サシャが、必要。だが、身動き一つ取れないトールには、何もできない。ジルドという名の長身の男に、何も分からない場所へと運ばれることしか、選べない。全身で、トールは地団駄を踏んだ。


 その時。


「……あの、ジルド師匠!」


 小さくもはっきりとした声が、トールの全身を揺さぶる。


「その『祈祷書』、誰のものでもないのでしたら、私が持っていても構いませんか?」


 ジルドが振り向いたので、トールにもサシャの様子がはっきりと見えた。


「あなたにはまだ早いですよ、サシャ」


 色の無い唇を横に引き結び、全身を小刻みに震わせているサシャに、ジルドが大きく頭を振る。


「良いんじゃないか」


 ジルドの返答に俯いたサシャの横から、突然の大声が割って入ってきた。


 そっと、首を横に向ける。ジルドより背は低いが肩幅はがっちりとした影が、ジルドの斜め後ろ、閲覧用の机の側にある窓の向こうで笑みを浮かべているのが見えた。


「サシャも、この前の『煌星祭』で、ここで働き始めてから三年になるんだろう?」


 その恰幅の良い影が、ジルドの横から図書室へと入ってくる。ジルドと呼ばれていた影も、入ってきた影も、トールの世界では女性が着るような、靴の上に裾が掛かっている丈の長い服を着ている。だが、まとっている空気は、対照的。サシャを冷たい瞳で見下ろすジルドの方は、サッカーをするには不向きに見えるが、図書室に入ってきた新たな影の方は、ディフェンダーかゴールキーパーをやってくれると頼もしいのではないか。場違いな思考を、トールは胸の底に収めた。


「修道士にするつもりなら、『祈祷書』くらい持たせてやった方が良いんじゃないか」


 そのトールの耳に、恰幅の良い影の、はっきりとした言葉が響く。


「ですが、アラン」


 柔らかな陽の光を遮った、アランという名の恰幅の良い影を、ジルドの冷たい声が睨んだ。


「サシャには、まだ」


「九つの時からここに入れておいて、一生下人げにんでこき使うつもりなのか?」


「……」


 だが。あくまで明るい、しかしどこか棘のあるアランの言葉に、ジルドが口をつぐむ。


 数瞬の躊躇の後、ジルドはトールを、サシャの方へと差し出した。


「大切に、するのですよ」


「はい!」


 トールを手にしたサシャの、ほっとした笑みに、身体が温かくなる。


「ありがとうございます、アラン師匠、ジルド師匠」


「良かったな」


 そのサシャの白い髪を大きな掌でぐしゃっと撫でてから、アランという名の恰幅の良い男はジルドの横をするりとすり抜け、図書室を出て行った。


「長く居ますから、『祈祷書』の扱い方は分かっていますね、サシャ」


 そのアランの背を睨み、唇を震わせたジルドだが、次にサシャに向かった声はあくまで平静。


「『肌身離さず、持ち歩くこと』。それを、忘れないように」


「はい。ありがとうございます、ジルド師匠。大切にします」


「それで良いでしょう」


 回廊の掃除もしておくのですよ。その声だけを残し、ジルドという名の細身の影も急くようにトール達の前から去って行く。後に残ったのは、トールと、……サシャ。


 戻った静けさに、ほっと息を吐く。再び、サシャという名の少年の華奢な腕の中にいる。先程は感じなかった、冷たさの中の柔らかさに、トールはそっと、サシャの、赤色が見えない頬を見上げた。


「……あの」


 そのトールの耳に響いた思いがけない言葉に、トールの全身が緊張する。


「僕は、サシャ、です」


 おそるおそる、という感じの小さな声は、確かに、トールに向かって話しかけていた。


「あなたの名前を教えてください」


[俺の言葉、分かるのか?]


 これまでの出来事を総合すると、理由は分からないが、自分は現在、『本』に変身している。その『本』であるトールの言葉が、分かるのか? トールの疑問に、サシャは小さく頷いた。


「はい」


 トールが話すと、『本』であるトールの黒革の表紙に金色の文字が浮かぶ。サシャの説明に、頷きを返す。だが、先程のジルドやアランの言動を考えると、サシャ以外の人間には、トールの思考は分からないようだ。そこまで推論すると、トールは先程のサシャの問いに答えた。


山川やまかわとおる。友達からは『山川』とか『トール』って呼ばれてたけど、トールの方が呼びやすいか?]


 そして控えめに付け加える。


[サシャ、って呼んで良いか?]


「はい」


 素直に頷いたサシャの紅い瞳に、安堵を覚える。


 何故自分がここに『本』として存在しているのかは、正直分からない。だが、サシャという名のこの少年と一緒に居たい。根拠も理屈も無く、直感でそう、感じる。だから。


[宜しくな、サシャ]


「こちらこそ、宜しくお願いします」


 トールに向かってぺこりとお辞儀を返したサシャに、トールは大きく、口の端を上げた。

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