第118話 18時34分
「篠山さんが退職を早めたのって、僕のせいですか?」
篠山さんは僕の質問にそっぽを向き、窓の外を眺めていた。雨が小降りになってきていた。
「もう、気づいてましたよね」
篠山さんは溜息しか返さなかった。
先程入口で会った守衛の警察官が、不思議そうな顔でこちらを見ている。
カーエアコンが外気を車内に運んでくる。雨特有の埃臭いような臭いが鼻についた。
「僕の答えって、最悪な方でした?それとも、もっと最悪な方でした?」
「あー、もういい。それ以上言うな」
篠山さんは投げ捨てるように言って、髪を掻きむしった。ダッシュボードや自分の太腿を叩いたりして取り乱し、助手席のシートを倒し、体を預け、ふー、と深呼吸して落ち着かせようとしていた。僕は黙ってそれを見る。殴られても仕方ないと思っていたが、篠山さんは両手で顔を覆い、黙ってしまった。掌で自分の顔面をマッサージしている。そうやって言葉を探しているに違いない。
僕より背が高く、幅の広いいかり肩で、ガッチリとした体型。60を過ぎているのに若い人たちにも負けないくらい柔道が強いし、風邪なんか引かないタフな人。なにより、今まで僕を守ってきてくれた大きい存在だった。
僕はその大きな優しさに包まれて、まったく気づくことができていなかった。今、隣にいるのは60を超えたお爺さんだ。長年使っていた足は細く、顔を包んでいる手の甲はシワだらけで、血管が浮き出ている。この人だって超人じゃない。普通の60代なら体力も衰えているし、むかしのようには体が動かないのだ。気力だって衰えているはず。そんな中で老体に鞭を打って、ここまで任務を続けてきた人なんだ。
そこに僕は、精神的に痛めつけるような告白をしてしまった。最後にそんな仕打ちはないだろう。
泣いているのか、笑っているのかわからない。顔を覆っている掌で、指先が小さく震えていた。僕は黙っているしかできない。言いたいことは、たくさんあった。でも、それを1つ打ち明けるだけで、また篠山さんを苦しめてしまう。
どのくらい時間が経ったのだろうか。顔を覆っていた片方の手をダランと下ろし、篠山さんの顔半分が見えた。笑っていた。
「はー、マジか。そうきたか。んー、お前は最後まで俺を驚かせてくれるね」
篠山さんは上半身を起こし、左手でレバーを引いてシートを立てた。
「あー、びっくりした。マジか、お前は」
さっきから同じようなことしか言わない。言葉が見つからないのだ。
「どうりでな。どうりで、だな」
はあはあ、いやいや、と言いながら、また自分の太腿をパンパン叩いて、笑うことで自分自身を誤魔化している。掻きむしった髪が乱れていて、さっきよりも老けたように見えた。
「お前は、その子たちに、どうしてやりたかったんだ?」
チホの自殺を見てから今までずっと考えてきて、答えに辿りつかなかった問題だ。僕は首を振るしかできなかった。
「どうにかして、助けたかったのか?」
僕は頷いた。
「それだけど、どうにもできなかったのか」
また、頷いた。
はあ、とまた溜息。篠山さんはキョロキョロと辺りを見回し、ティッシュ箱をみつけて、ザザッと3、4枚取り出し、鼻をかんでダストボックスに捨てた。
「お前は、1人も手にかけてないんだな」
殺してないのか、そういう質問だった。僕は頷いた。だか、少し迷いがあった。相手は小さい子供。大人が無理矢理止めることだってできるのに、傍観してたのは殺したことと一緒だ。
「なぜ通報しなかったんだ」
1番初めのチホの時に、通報さえしていれば、こんな9人も続けてこんなことはしなかったはずだ。でも死んだ彼らは美しくなかった。あんな姿は誰の目にも触れてはいけない、と思った。
「間違った正義感だな」
篠山さんには、僕が考えていることは全部お見通しだ。僕は顔を上げられなかった。自分の膝を見つめていると、アイドリングしていたエンジンが思い出したようにブルンと動き、車を揺らした。
「俺はよう。小暮がSNSの最初のアカウント名が『N』だって言った時、お前のイニシャルと同じだなって、フッと思っただけだったんだ。そん時には、まだお前を疑う気持ちなんて、これっぽっちもねえよ。だけどな、お前がやけにこの事件に食らいついてくるし、虐待のことになると異様に熱くなるだろ。それにお前の小さい時に自殺したって子の話」
「椎名恵ですか」
「そうそう。その椎名恵って子の話を聞いた時、どうもお前の様子が変だと思ったんだよ。相手がお前じゃなきゃあな、刑事の勘だって働いただろうがな。最初の行方不明児童の頃合いと、お前の受験の時期が近いっていうので、半信半疑でお前の受験した大学を小暮に調べさせた」
「じゃあ、小暮さんも、僕が怪しいって知ってたんですか」
「いや。アイツには、
「酷いですね」
「まあ、俺が調べたかったのはお前じゃないって確証が欲しかったからだけだ。俺の勘が鈍っただけだって思いたかったからだ。だか、行方不明になった子たちの捜索願が出されてんのは、みんなお前の受験日の2、3日後ばかりだ。お前が犯人という確証も、お前じゃないという確証も得られなかった」
コンコン。守衛の警察官が助手席の窓をノックした。篠山さんは窓を開けた。
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっと話し込んでるだけだ」
「そこ、車入るかもしれないんで、ちょっと傍に寄せてもらっていいですか?」
僕はドライブに入れ、車を端に寄せた。もうすっかり雨は上がっていた。
「お前を疑っている自分が嫌だったよ。だから考えないことにした。警察官としては失格だな。あの立て籠りの時に、お前が、銃だ、なんて叫んでるのも発砲のきっかけを作ってらようにしか見えなかった。俺がお前を信じてやらんといかんのにな」
「でも、実際僕がそうしたのは事実です」
「いや。俺はそれでもお前を信じてやらんといかなかった。バディを信じないと、刑事として失格だ」
今度は警察官ではなく、刑事と言い換えた。
「お前、最初に聞いたよな。退職を早めたのは自分のせいかって」
「はい」
「お前のせいと言えば、そうかもしれないが、これは俺のせいだ。俺の刑事の勘が鈍っちまった。それに警察官としても、刑事としても、俺には続ける資格はねえ。それに、お前の親父代わりとしても、な」
「すみません」
篠山さんは僕の肩を、パンッと叩いた。分厚くて、暖かくて、シワだらけの手が僕の肩に乗った。
「怒ってますよね」
くだらない質問だった。篠山さんは、それに答える代わりに肩に乗せた手にグッと力を入れてから、その手を退かした。
「お前さぁ、他人のことをニオイで判断するって、アレ、あるよな。俺は、どんなニオイがするんだ」
それは何度も伝えてきたはずだ。なぜ今更そんなことを訊くのだろうか。僕は、石鹸のニオイです、と答えた。
「そりゃあ、お前、嘘だ。そんなニオイはしねえ。お前の気のせいだ」
僕は鼻に意識を集中させた。言われてみれば、たしかに今はニオイを感じない。感じるのはカーエアコンの埃臭いニオイだけだ。
「お前、そのニオイを感じるようになったのは、いつ頃からだ。もしかしたら、椎名恵の自殺を目撃した頃からか?」
多分、篠山さんの言う通りだった。僕は椎名恵の虐待のことを、彼女が死ぬ前に父に言ったのに、結果彼女は死を選んだ。帰宅した父に、そのことを咎めた。それは私の仕事ではない、父は冷たく言い放った。そして脱いだ上着を母に渡した。父が上着を脱いだ時、父のキツイ香水のニオイが鼻についた。
丁度、祖母が風呂から出てきたところだった。父はそのまま風呂場へ向かった。母は父の言いなりだった。祖父も厳しく頑固者だった。警視庁に入れないのならば、ウチの人間ではない、といつも言っていた。僕には家族の中に味方がいなかった。唯一、祖母だけが僕の味方だった。その時、僕は泣いていたんだと思う。それを側に寄ってきて慰めてくれたのは祖母だけだった。祖母からは風呂上がりの石鹸のニオイがした。
ニオイを感じるようになったのは、その頃からだ。
「お前が感じてんのはニオイじゃねえ。お前が敵だ味方だって感じたものに、後で無意識にニオイをつけてんだよ。だから、そんなもんに頼るんじゃねえって言ってたんだ。俺から石鹸のニオイがする?そんなことはねえはずだぞ。俺は今、怒り狂ってる。だから俺からは敵のニオイがしねえとおかしい。違うか?」
「篠山さんは、怒ってるかもしれませんが、敵ではありません」
言葉は荒いが、篠山さんからは優しさしか感じない。今はニオイを感じない。だが、篠山さんは味方のニオイがするはずだ。僕がそんなことを言うのも図々しいが、篠山さんの怒りは僕に向いている気がしない。
僕がニオイを感じなくなったのは、全てを篠山さんには晒したことで、あの時からずっと付き纏っている、椎名恵を助けられなかった罪の意識から解放されたのだろうか。
僕は静かに両腕を揃えて、篠山さんの前に差し出した。
「なんだそりゃ。それがお前が用意した、俺の花道なのか」
僕は頷いた。
「まったく、お前は最後にとんでもねえ花道飾られてくれたな」
「すみません」
「すみませんじゃねえよ。俺がお前にワッパかけるのか」
「でも、篠山さんなら嬉しいです」
「喜んでる場合か」
篠山さんにとっては、本当に迷惑な話なのだろうが、僕に手錠をかけるのが篠山さんであることが嬉しい、それが素直な気持ちだった。
「それでお前は救われるんだな」
僕は黙って、揃えた両腕を少し上に上げた。
篠山さんは車の窓を開けて、手招きをしてさっきの守衛の警察官を呼んだ。
「はい。何でしょう?」
「悪いが、キミの手錠を貸してくれるか?刑事課に手錠を置いてきちまった」
守衛の警察官は訝しげな表情を浮かべたが、上官の言っていることには逆らえず、渋々腰から手錠を差し出した。
18時34分、新井規之、連続幼女誘拐と死体遺棄の容疑で逮捕する。
篠山さんは事務的に言った。冷たい手錠の重さを手首に感じた。守衛の警察官は呆気に取られ、驚いた表情をしていた。篠山さんは僕の手を、自分が着ていた上着で隠してくれた。やっぱり、この人からは石鹸のニオイを感じる。
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