第116話 チホ

 結論から言うと、僕はその子の自殺を止めることができなかった。アカウント名しか知らないので、会ったときに名前を訊いた。その子は『チホ』と答えた。

 警察官になった後で知ったことだが、連続誘拐事件の関連があると思われる1人目の行方不明児童の名前が、『神林千穂』だった。


 神奈川の大学の入学試験が終わってから、僕は彼女に指定された場所までバスで向かった。バス停の近くのコンビニの駐車場に彼女はいた。駐車場の車輪止めの石の上に、ちょこんと座って待っていた。

 僕は彼女に声をかけると、少し歩くが神社があるので、そこで話そうと言って歩き出した。僕は彼女の後についていった。近道だと言って商店街に入っていく。むかしは観光地だったのかたくさんの店が並んでいるが、ほとんどの店がシャッターを下ろし、商店街は廃れていた。人通りもなく、僕たちは誰にも見られずに神社に辿り着いた。

 神社も、しめ縄が切れていたり、社の扉が壊れていたりと長い間整備されないままの状態だった。商店街も廃れていれば、神社にも人が寄り付かないのだろう。神社の裏は小高い丘になっていて、木が生い茂っていた。

 人気のない境内のベンチに座り、彼女の話を聞いた。

 彼女は母親に虐待されているという。両親は物心がつかないうちに離婚していて、父親の顔を知らないという。何が理由で離婚したのかは知らないが、母親は彼女の父親を恨んでいると言った。家には父親の写真は1枚も残っていないそうだ。

 毎晩のように、お前は父親に似て醜い、生まれてこなければよかった、と折檻されている。裸同然の姿でベランダに一晩中立たされたり、熱湯をかけられたり、手足を縛って押し入れに閉じ込められたりするそうだ。母親が言うように私はブスだ。だから生きてちゃいけないんだ。母の前から消えた方がいい。彼女はそう言っていた。


 キミは醜くなんかない


 大人になれば、そんなお母さんから離れられるよ


 僕は思いついた言葉を言えるだけ言って、なんとか思い留まるよう必死で説得した。自分の話もした。チホに比べたら虐待と言えるほどのことはされてはいないが、それでも家から出る年齢まで我慢して、やっとこの年齢になったこと。椎名恵の話もした。僕はその子を助けられなかったがキミは助けたい、と必死で訴えた。彼女は無言だった。聞いているのか聞いていないのかわからなかった。ベンチに腰掛けた彼女は足をブラブラさせ、ぼおっと宙を見ているだけだった。

 思い浮かぶ言葉を全部出し切って、あとは彼女が自殺を諦めてくれるのを願うばかりだった。彼女は、スッとこちらを見て、口を開いた。


「ずっとひとりぼっちだったから、ひとりぼっちはイヤだったの」


 すっと立ち上がり歩き出す。神社の裏手の丘に向かった。僕は後についていくしかなかった。社の裏は陽が当たらなく、地面がぬかるんでいた。朽ちかけた木の下に木箱が転がっていた。彼女は木箱の位置を動かし、木箱の上に乗った。彼女が木箱の上に乗ると、丁度良い高さに枝が伸びていた。そこにタオルか何かの布地がぶら下がっていた。その布地は輪っかになって枝に引っかかっていた。


「死ぬまで一緒にいてほしいの」


 僕は動けなかった。生きていることが苦しく、それでも生きていれば望みはあると断言できるのだろうか。その後に彼女を待ち受ける不幸に、僕はどう責任を取れるというのだ。僕に彼女の死を止める権利も資格もない。僕は一歩も動くことができなかった。


 それに、動くことができなかった理由はもう1つある。僕は見惚れていた。彼女は、スッ、スッ、と足を運ぶ。ゆっくりだが、無駄のないその動きは、決められた振り付けを美しく舞うバレリーナのようであった。けっして彼女は醜くなかった。爪先で立ち、スッとその輪っかに小さな顎を乗せた。

 彼女の口が動いた。ありがとう、と言っているように見えた。片方の爪先で木箱をスーッと滑らせた。

 体がストンと落ち、ミギギギギッと木が軋む音と、ギュッと喉の閉まる音が聞こえた。


 暫く放心状態で、揺れる体を見つめていた。辺りは暗くなっていた。暗がりで揺れる足を見て、椎名恵を思い出した。椎名恵は、あの廃工場でこうやって独りで死んでいったのだ。椎名恵は死ぬ前に、僕の家に訪れたのも、この目の前にぶら下がるチホと同じように、死ぬまで一緒にいてほしかったのだろうか。

 ぶら下がっているチホは醜かった。ダラリと伸びる手足がボロ切れのように揺れている。椎名恵と同じだ。もしかしたら、救急車を呼べば助かるかもしれない。今すぐに彼女の体を下ろして、心臓マッサージなどの救命措置を取れば助かるかもしれない。僕は彼女の側へ寄ろうと足を動かそうとするが、膝に力が入らない。足の裏が地面に張り付いているような錯覚がした。僕は動かなくなった足を地面から引き剥がして一歩前に出る。膝に力が入らないせいか、ぬかるんだ地面のせいか、転んでしまった。上着の肘に泥が付いた。手をついてゆっくり立ち上がると、足元には大きく穴が空いていた。側に穴を掘るのに手頃な石や木の枝が落ちていた。近所の子供が掘ったのか、それともチホが掘ったのか。木箱も首を括る布切れも、ここへ来た時には既に用意されていた。チホが穴を掘っていても不思議はない。彼女は自分が死んだら、ここへ埋めろと言いたいのだろうか。

 僕はチホを枝から下ろさず、掌大の石を手にして、穴を掘った。人を埋めるには、この穴では少し浅過ぎる。もっと深く掘らなければダメだ。幸い土がぬかるんでいて柔らかく、掘るのには苦労しなかった。自分の腕の長さくらいまで掘ると、木の根っこが邪魔していた。その根っこを避けて、更に穴を広げた。夢中で掘った。まだ深く、もっと深く、と掘った。その頃には辺りは真っ暗になっていた。辺りに光を照らしてくれるものはなく、月の明かりだけを頼りに土を掘り続けた。月の明かりの下に揺れる2本の足。椎名恵も、どこかへ埋めてあげれば、あんな醜い姿を晒さずにすんだはずだ。

 僕はチホの体をそっと抱き上げた。チホの体重から解放された枝がミシシッと音を立て、樹皮がボロボロと剥がれ落ちた。チホの体は痩せていて、思った以上に小さく、軽かった。チホの体をそっと穴に下ろした。短時間で掘った穴だから、そんなに大きくはなかったのに、チホの小さな体がすっぽりと入った。枝に引っかかっていた布切れと木箱を入れても、まだ隙間があった。僕は胸の中で手を合わせて、穴に土を被せていった。埋めた地面の上に落ち葉を被せていった。


 11月ももう終わり頃だというのに、気づくと汗でビショビショだった。肘も汚れていたので上着を脱ぎ、丸めて抱えた。時計を見て、バスの運行が気になり、走ってバス停まで向かった。最終バスはもう出てしまっていた。途方に暮れて歩いていたところ、タクシーが見えたのでタクシーで藤沢駅まで行った。そこから東京までJRで帰ったが、よく覚えていない。

 僕のやったことは正しかったのか。世間的には、死体遺棄とか罪名がつくだろう。こんなことをした人間が警察官になんてなれるわけがない。このことを父が知ったら、怒り狂うだろう。出世のことしか頭にない父に、最高の復讐になるだろう。出世の道が絶たれ、苦悶する父の姿が頭に過ったが、そんなことどうでもよかった。僕の頭にあるのは、あのチホという子をということだけだ。

 死を受け入れた彼女に、僕は見惚れた。あそこで無理矢理止めるべきだったのか、死ぬまで一緒にいてあげたことがよかったことなのか。彼女の決心を邪魔することが罪なのか、自殺を傍観していたことが罪なのか。堂々巡りで答えが出ないまま、東京に着いてしまった。

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