第115話 きっかけ

 ことの始まりは椎名恵だった。


 中学受験で悩んでいた僕が椎名恵と出会った。

 椎名恵が親の虐待で悩んでいることを知り、何かと気にかけてはいたが、結局何もすることはできなかった。ただ公園で一緒にいるだけだった。父親に訴えても何もできず、僕は公園でパンやお菓子をあげるだけで助けているつもりになっていた。

 当時、家にはどういう繋がりかはわからないが親戚の叔母さんがお手伝いさんみたいな形で出入りしていた。


 あの日、また塾を公園でサボって家に帰った時だった。椎名恵はその日、公園には現れなかった。コンビニで買ったパンを片手に家に着くと、お手伝いの叔母さんが丁度帰る時だった。叔母さんは玄関の鍵を閉めようとしていて、僕に気づくと、おかえりなさいと言って玄関の扉を開けてくれた。そう言えば、と叔母さんは話しかけてきた。


「1時間前くらいかなぁ。小さい女の子がいらっしゃいましたよ。スーパーから帰ってきたら、ここに立ってたんです。名前を聞いたんだけど、走って帰っちゃって。学校のお友達かな?」


 叔母さんは首を傾げながら言った。


「知らないです」


 僕が答えると叔母さんは、そうですか、と言って明日もまた来ることを告げ、帰っていった。多分、椎名恵だ。年が離れているし、汚い服を着ていたんだろう、友達と言うには首を傾げるのも無理はない。

 以前、公園からの帰り道に、ここが自分の家だと教えたことがあった。だが、態々訪ねてくるとは思えなかった。部屋に戻っても落ち着かなかった。嫌な予感がした。

 僕は家を飛び出した。もう1度公園に行った。いなかった。コンビニを何軒か回ったが、お金を持っていない椎名恵が立ち寄るとは思えなかった。別の公演も覗いた。


 なんのために生まれてきたのか、わからない。


 彼女の言葉がこびりついていた。死ぬんだ、と思った。誰か人目につかないところだと見当をつけた。人が寄り付かないところ、子供が昼間屯たるろうような場所を手当たり次第探した。陽は落ち、暗くなっていた。小学校の校庭も探した。椎名恵は見つからない。自分の杞憂であることを願った。

 学校の帰りに寄る廃工場があった。敷地は広い駐車場を鉄格子で囲んでいる。入口には立ち入り禁止の立札があるが、錆びたチェーンが張ってあるだけで簡単に出入りできる。屋根の高い建物で、重いスライドの扉がいつも半分開いている。中には何を作る物なのかわからないが、色んな機会がそのまま置かれている。雨漏りがして陽が当たらないためか、いつも地面が濡れている。どの家の親も危ないから近づくなと子供に言う。それでも昼間は子供たちが駐車場で遊んでいるが、夜は薄気味悪いので誰も近づかない。

 ここを探していなかったら諦めよう、僕は入口のチェーンを跨いだ。半開きの扉の中を除く。割れた天窓から月の明かりが差していた。暗がりの中にぼんやりと中の様子が見える。隙間から入る風が、なにかの唸り声のように響いていた。


 子供だった僕にはやっぱり怖い。真ん中まで行かない辺りで踵を返した。何かミシミシと擦れる音が聞こえた。視界の端で2本の棒が揺れている。その棒は濡れていて水が滴っていた。怖かったが、そっと視線を上に動かした。それは、足だった。

 揺れる2本の足の下には水溜りができていた。顔は髪に隠れて見えなかったが、服装で椎名恵とわかった。いつ洗濯したのかわからない服。いつも着ている服だった。肩から下がだらんと伸び、ボロ切れのように揺れていた。


 僕は叫び声をあげそうになったが堪えて、ヨロヨロの足でなんとか家まで帰った。父に言っても取り合ってくれないのはわかっていたので、途中で公衆電話を見つけて110番に電話した。椎名恵のことは言わず、物音がしてうるさい、誰かが侵入していると、嘘を言った。自分が第一発見者になるのはいやだったから、名乗らないで電話を切った。放っておけばよかったか、と電話をしたことを後悔した。

 次の日、夕方のニュースで報道されていた。その次の日には小学校で朝に全体集会があり、校長が生徒に椎名恵のことを伝えられた。僕は2、3日食欲がなかったが、1週間もすると胸のどこかで何かがつかえてはいたが、普通の生活に戻っていた。変わったことと言えば、塾をサボらなくなったことだ。あの公園に行くと、自分が何もできなかったことを責めてしまう。塾をサボらなくなっただけで、勉強に集中しているとは言えず、中学受験は落ちた。

 そして悲しいことに、中学、高校を普通校に進学し、それなりに青春を謳歌している中で、椎名恵のことを思い出すことはなかった。


 高校3年になり、本格的に進路を考えていかなければいけない時期に入って、僕はこの家を出ることだけ決めていた。同級生にも家さえ出られればと、進学も就職もせずに一人暮らしをすることに決めている奴もいた。僕はと言えば、進学も就職もしないという度胸はなく、ぼんやりと進路を考えていた。祖父の代から警察官で、親も兄弟も警察官だと、思いつくのは警察官しかなかった。反発して他の職業を考えても、いまいち現実味がない。音楽やスポーツでもやっていれば夢を追いかけるのもいいが、そんなものはない。海外へ出たいとか、何かの店を出したいというような漠然としたものも思いつかない。最後の反抗心として、地方の大学を受けることにした。東京の実家には残りたくなかっただけだ。

 だから僕は、神奈川、山梨、静岡の大学を手当たり次第探した。

 その頃、小中学生が集団で自殺をするという事件があった。学校でのイジメや親からの虐待に悩んでいる子供たちがSNSで知り合い、賃貸物件の空き店舗に侵入し集団で練炭自殺を図った。幸い死人は出なかったが、報道番組では器物損壊と不法侵入の罪を未成年には問えないと報道していた。学校や親は何をしているのだ、と訴えていたコメンテーターもいたが、どこか芝居じみていた。警報も鳴らずに簡単に忍び込めた不動産屋の管理体制に問題があると、話が逸れていた。学校や児童相談所に相談しても取り合ってもらえず、悩みを抱えた子供たちが死を選んだのだ。問題がすり替わってしまっている。警察はこの事件をきっかけに学校や児童相談所に指導をしたというが、警察だって事件が起こらなければ見て見ぬふりをしているじゃないか。

 僕は集団自殺をした子供たちが見ていたという裏サイトにアクセスしてみた。集中自殺をした子供たち以外にも大勢の子供たちが、同じような悩みを抱え、助けを求める場所もない悲痛な叫びがびっしりと並んでいた。

 僕は1人のアカウントにコメントを入れた。椎名恵を思い出したからだ。あの時、僕は何もできなかった。胸の内に溜まった澱を出せば少しは救われるのか。あの公園で話を聞いてあげることしかできなかった。

 死んではいけないというメッセージを送り続けた。身体的な虐待はなかったが、家族はいつも僕を無視していた。兄ばかりが優遇する家族が嫌だった。小さい頃は辛かったが、今自分は高校生になり、やっと家から出られる。小さい頃は自分の周りだけが世界だったが、もっと外に出れば自由になれる。もう少し大人になれば、そういうことだってできるんだよ。だから、今死んではダメだ。そういうメッセージを送り続けた。

 僕はまだガキだった。それに対しては、家の外へ出たとしても、学生のうちは家賃だったり仕送りだったり、親の脛を齧って生活するつもりの甘ちゃんの僕に、SNSで叫んでいる子供たちに寄り添うなんて浅はかな考えだと気がついていなかった。でも僕は返せる分だけのコメントを返していった。

 救いの言葉の抽斗を増やすために、哲学書やメンタルケアの本を読んだ。仏教の本や聖書も読んだ。SNSのアカウント名も、最初はなんでもいいとイニシャルの『N』にしていたが、旧約聖書を読んだ後『チャミュエルの手』という名に変えた。チャミュエルは、ヤコブと戦った天使の1人であり、キリストの心の支えになった天使とある。無条件の愛、平和の象徴であるところが印象に残った。「わたしは、神を見る者 」、「わたしは、神を瞳に映す者」という意味の名前らしい。僕はそのアカウント名を使うことで、神にでもなるつもりだったのか。

 考えがまったく子供じみていたが、その時は本気でこの子たちを救おうと思っていた。全ての悩める子供たちにメッセージを送ることはできないが、1人でも多くの子にメッセージを送ろうと、勉強の合間を縫って、裏サイトを覗いた。こちらがメッセージを送っても返信のないものも多かった。


 何度かメッセージをやり取りする子が増えてきた。その頃には勉強はそっちのけで、子供たちとのSNSのやり取りに必死になっていた。中には僕のメッセージで、SNS上では自殺を思い直してくれた子も何人か出てきた。僕のSNSパトロールに拍車がかかってきていた。

 その中で1人、僕がいくら励ますメッセージを送っても、ネガティブなコメントしか返ってこない子がいた。僕のメッセージで、ますます自殺の決心を固めているようなコメントばかりだ。SNS上の会話の中で、その子は神奈川県在住の小学3年生だということがわかった。会って話そうと提案した。僕はその子に対して、椎名恵の面影を感じてしまった。面と向かって説得すれば、なんとかなるかもしれない。僕は次の週の土曜日に会う約束までこぎつけた。次の週の土曜日は、願書を出した神奈川の大学の試験日だった。


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