第114話 ハザード

「そろそろ帰るかな」


 篠山さんはゴルフなんてやらないくせに、さっき貰った花束でゴルフの素振りをしながら、そう言った。バサバサと音がして、少し花びらが散り、慌てて花束を抱えた。

 入口の階段をぴょんと飛び降り、篠山さんはそのまま帰ろうとした。


「篠山さん、荷物は?」


「ねえよ。花束これだけ」


「そのまま帰るんですか?」


「なんかよぅ。あんな感じになって、また刑事課に戻るのも体裁悪いしな」


 そう言って歩き出した。


「歩いて帰るんですか?」


 僕がそう訊くと、遠くの方で地響きのような音がした。雷だ。

 さっきまで太陽はギラギラしていたのに、急に空が影ってきた。このままじゃあ、顔左半分が日焼けしてしまうと思っていたが、涼しくなって丁度いい。でも、雨が降ると嫌だなと思った直後、スコールのようにドッと雨が降ってきた。雨粒が大きい。僕たちは雨を避け、軒下に戻って来た。白いシャツが濡れて肌に張り付く。


「やいやい。今日の予報は雨だったか?」


「送っていきましょうか」


「車でか?」


「はい」


「お前の運転で?」


「そうなります」


 何かブツブツと独り言を言って、まあ最後だからなぁ、と無理矢理自分を納得させるような言い訳を呟いた。僕は警察署の中に戻り、1番近い交通課のカウンターで傘と職員用の車の鍵を借りた。貸出表に名前と、期日は今日中に返すと書いた。

 借りた傘を篠山さんに1本渡した。


「態々借りたのか。駐車場までだぞ」


「車は今日中に返しますけど、傘は明日で大丈夫だそうです」


 僕たちは南署の裏手にある駐車場へ向かった。雨足は強く、歩いたのは少しの距離だったがスラックスの裾がびしょ濡れになった。大粒の雨がボコボコとボンネットを叩く音がしていた。

 僕が運転席に回るのを不安な顔で見ている。篠山さんの不安要素は、僕の運転だけではないだろう。構わずエンジンをかけた。エンジンをかけると、カーナビの画面がテレビ番組を映し出した。夕方のニュースで、関七海の記者会見の録画が放送されていた。ニュースキャスターは記者会見された昨日の時刻を言った。


「皆さんに伝えたいことがあります。そのためには今までの私の罪を白日の下に晒さなければなりません」


 関七海は、山梨の宿泊施設でオドオドとしていた印象とはまるで違い、覚悟を決めた強い目をしていた。言葉一つ一つに魂が籠っていた。


「被害者の母親が、常田容疑者が真犯人ではないと訴えておりますが、容疑者死亡で送還された案件の取り下げの情報は未だ入っておりません。今後の警察の動きが気になります」


 僕はテレビ画面を消すためにカーナビをマップ画面に切り替えた。誤魔化し半分、カーナビで篠山さんの住所を検索する。


「お前、俺の家くらいわかるだろ」


「いえ。念のため」


 番地まではわからなかったので、途中でやめた。ワイパーを動かした。篠山さんが何かボソッと呟いたが、ワイパーとボンネットを叩く雨の音で聞こえなかった。

 車を走らせる。ビシャビシャというタイヤが雨水を跳ねる音が車内にも聞こえた。ゆっくりと表に周り、車道へ出るために左ウインカーを出す。東側の信号が赤になるのを待つ。

 南署から篠山さんの家までは、車で20分足らずで到着してしまう。篠山さんを家まで送り届けるために、車を西側に走らせる。何から話していいのかわからないのは、篠山さんも同じのようだ。左側の公立高校を過ぎ、銀行が見えて来たあたりで、僕はやっと口を開いた。


「僕って、息子さんの代わりでしたか?」


 篠山さんが、ふぅー、と溜息を吐いた。


「余分なこと言いやがって。大島か?それとも『かわせ』の母ちゃんか?」


 篠山さんの家に行くためには、次の信号を右に曲がらないといけないのだが、僕は左ウインカーを出した。篠山さんは、それについては何も言わなかった。


「お前は、お前。息子の代わりなんかじゃない」


 横断歩道では、乳母車を引いたお婆さんがゆっくりと信号を渡っていた。僕はそれを待つ。その間に、道が違うと指摘してくれないか待った。


「息子の代わりなんかじゃない。だけど、息子みたいに大切にしてきたつもりだ」


 お婆さんが通過すると、僕はそのまま左に曲がった。


「お前は、お前だ」


 車道は、むかしは1車線だったが、新しく整備され2車線になり、広くなっている。その分、横断歩道も長くなり、お婆さんはまだ信号を渡り切っていない。ヨロヨロと歩く姿がバックミラーに映る。僕はお婆さんが渡り切る姿を確認しようと、ゆっくりと運転した。バックミラーには後続車の姿はなかった。お婆さんが渡り切るのを見届けるというのは言い訳だ。僕は時間稼ぎをしている。多分、篠山さんもわかっているのだろう。

 時間を稼いだが、切り出す言葉が見つからない。お婆さんが歩道の信号が点滅している間に渡り切ったのを視認できた。車は南に向かって走り続ける。少しスピードを上げた。


 篠山さんは僕の運転の時は、相変わらず天井のアシストグリップを掴んでいる。無言の時間が暫く続く。車内に響くのは、篠山さんの鼻息と、ギシギシと擦れるアシストグリップの音、ボンネットを叩く雨の音。滑りの悪いワイパーが、キッ、と鳴った。

 また適当な交差点で曲がる。篠山さんの家からは、どんどん遠ざかる。それでも篠山さんは何も言わない。


「まあ、それじゃあ、息子の代わりだって言ってるのと同じか。迷惑だよな」


 篠山さんの視線は外に向けられている。


「いや。嬉しいです」


 率直に答えた。たがだか3年余りの付き合いだが、息子さんの代わりだと言ってくれたことが嘘でも嬉しい。大島さんや三輪さん、南署の人たちの方が僕なんかよりも長い付き合いで、色んなことを教えてもらったりした人がいっぱいいるはずだ。たまたま僕が若かっただけで、もっと大切にされていた人がいっぱいいたはず。みんなを差し置いて、僕だけそんな言葉を受けれるなんて勿体ない。

 高速道路のガード下に入ると、一瞬雨の音がしなくなった。一瞬の静寂の中、篠山さんが一言言った。


「何が言いたい」


 篠山さんのその言葉のために、その一瞬の静寂が訪れたかのようだ。ガード下を抜けると、また雨がボンネットを叩く。


「息子のことって、だいたいわかるんですよね」


 自分の言葉が見つからず、誤解を招くような変な言い方になってしまった。自分の口から言えばいいのに、相手に合わせようとするズルい言い方。僕は最初からこの人に甘えているのだ。そして、初めから裏切っていた。


「だからよぅ。わかんねえこともあるし、大体はわかるって言っただろ」


 結局どっちなんですか、と言って僕は笑ってしまった。釣られて篠山さんも笑った。僕はズルい。こんな人を騙していた。


「じゃあ、僕が言おうとしてることって、わかりますか?」


 本当にズルい質問だ。僕は最低な人間。篠山さんに花を持たせると張り切って、最後の最後にこんなシチュエーションに持ってきてしまった。僕が黙っていれば済むことなんだろう。僕が口にすることで、篠山さんに重い荷物を背負わせてしまう。


「あー、やっぱいい。言うな、言うな。俺は聞かんぞ」


 関七海が白日の下に晒せと言っていた。


「やっぱり、わかるんですね」


「わからん」


 ここまで言って、最後を言わないのは卑怯だとも感じる。だけど、ここで言うのも卑怯だ。篠山さんを苦しめるのはわかっている。でも、もう自分の中に抱え込んでいるのは限界だ。僕は篠山さんにどこまで甘えているのだろう。


「2つある」


 篠山さんが言った。最初は何を言い出したかわからなかったが、話の流れからするとのことだとわかった。


「1つは最悪なこと」


「もう1つは?」


「もっと最悪なこと」


 篠山さんは運転する僕に、冗談混じりのドヤ顔を見せた。笑ってしまった。

 僕は車を歩道に乗り上げ、車を停車させた。ハザードを点けた。

 もう言うしかない。篠山さんの優しさに甘えて、僕は口を開いた。


「僕なんです」


 篠山さんは額を抑えて、ふぅーと溜息を吐いた。


「僕が、チャミュエルです」


 車は南署前の歩道で、ハザードのチカチカという音を響かせていた。


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